第8話 証言

私は、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。


 書かなければならない、という衝動だけが先にあり、何を書くべきかは分からない。いや、分かっていないふりをしていただけかもしれない。


 そのとき、携帯が震えた。


 警察からだった。


 妹の件で、改めて話を聞きたいという。加えて、連続殺人の捜査で、新たな証言が出たらしい。私の取材が、捜査の妨げになっていないか確認したい、とも。


 第三者の視点。

 それは今の私にとって、救いのように思えた。


 警察署の取調室は、奇妙なほど明るかった。白い蛍光灯の下では、沼も、町も、因習も、すべてが現実味を失う。


 担当の刑事は、淡々と話し始めた。


 「あなたの妹さんの件ですが……」


 事故として処理された経緯。現場の状況。改めて聞いても、新しい情報はない。だが、次の言葉で、私は身を固くした。


 「当日、沼の近くで、あなたを見たという証言が出ています」


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


 「……私ですか?」


 「はい。夜遅くに、誰かと話していた、と」


 刑事は、証言者の名前を告げた。

 町の外れに住む、年配の女性だった。


 私は、その女性を知っている。

 妹が、よく話をしていた相手だ。


 「証言者は言っています。あなたは落ち着いていて、慌てた様子はなかった、と」


 それは、不思議と安心できる内容だった。

 少なくとも、私は“被害者を見つけて狼狽する兄”ではなかった。


 ――では、何をしていた?


 警察を出たあと、私はその女性の家を訪ねた。


 彼女は、私を見ると、少しだけ困ったように笑った。


 「話しちゃって、ごめんなさいね。でも……黙ってるのも、違うと思って」


 縁側に座り、彼女は語った。


 「あなた、あの夜、妹さんと話してたでしょう」


 私は、頷いた。


 「ええ。少しだけ」


 「少し、じゃなかったわよ」


 彼女は、はっきりと言った。


 「あなた、説得してた」


 胸が、ざわついた。


 「説得……?」


 「ええ。町のこと、沼のこと。

 “選ばれる”とか、“戻る”とか……

 難しい話を、静かに」


 彼女は、続ける。


 「妹さん、泣いてた。

 でも、あなたは怒らなかった。

 ただ……決めてる人の話し方だった」


 決めている人。


 その言葉が、耳に残った。


 帰り道、私は自分に言い聞かせた。

 それは、第三者の誤解だ。

 記憶違いだ。

 あるいは、私が精神的に不安定だから、そう聞こえただけだ。


 だが、家に戻り、録音機を再生した瞬間、

 その言い訳は、崩れた。


 新しい音声が、追加されていた。


 「……これでいい」


 私の声だった。


 「これ以上、混ざると、壊れる」


 混ざる――何と、誰が。


 私は、録音を止めた。


 机の上には、白紙のノートがある。

 私は、そこに一行だけ書いた。


 〈証言:私は、止めていない〉


 その文章を読んだとき、

 私は初めて、はっきりと理解した。


 私は、

 町に殺されてはいない。

 町に使われてもいない。


 私は、

 選んでいた。


 それを認めるには、

 まだ時間が必要だった。


 だが、

 否定する理由は、もう残っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る