バイオレンス・ペア
森崇寿乃
2人の暴力女
1
鉛色の空から降り注ぐ雨は、もはや水というよりは流動する重油のようだった。
国道を外れた旧道。ひび割れたアスファルトの隙間から不格好な雑草が身を乗り出し、疾走する二台の大型バイクの排気熱に焼かれては萎びていく。
この終わりの見えない【旅】が始まってから、すでに三日が経過していた。
先頭を走るレイコの背中は、雨に濡れた漆黒の革ジャンを鎧のように纏い、一点の揺らぎもない。彼女が時折ハンドルを操作するその【手】は、まるで精密機械の一部であるかのように無機質で、かつ冷酷なまでの確信に満ちていた。
その後ろを死に体で追うのが、マキだ。
数日前の抗争で負った傷は、一向に癒える気配を見せない。セーラー服の襟元から覗く包帯は、雨と脂汗と、わずかに滲み出した血清を吸って赤黒く変色している。右足の指先は感覚を失い、折れた肋骨が呼吸のたびに内側から肺を突き刺した。
痛い。意識が朦朧とする。それでも彼女がアクセルを戻さないのは、レイコという「北極星」が目の前にあり、その【支え】なしには、自分という存在が瞬時に泥の中へ霧散してしまうことを知っていたからだ。
レイコのバイクの荷台には、厳重に固定されたジュラルミンケースがあった。
中身は、旧日本軍の遺構から発掘されたとされる試作型光学兵器――【八咫の鏡】。
それは光を収束し、反射させ、空間そのものを偽装する「神の目」を持つと言われている。その鏡がもたらす価値は、一つの小国を滅ぼすに足りる。そんな呪物を運ぶ対価として、彼女たちは常に死の臭いを嗅ぎ続けていた。
「……マキ、ギアを落とせ。空気が変わった」
インカム越しに届くレイコの声が、マキの混濁した意識を鋭く切り裂いた。
「空気……? ああ、確かに。……臭いますね。鉄が焼けるような、嫌な臭いが」
それは【亜鉛】の匂いだった。メッキ工場や、スクラップ場の奥底で漂うような、生命を拒絶する金属の死臭。
突如、霧が噴き出した。
それまで見えていた荒廃した道が、一瞬にして鏡面のような輝きを帯びる。左右に広がる枯れた雑草の山は、幾重にも増殖し、視覚的な迷宮を作り上げた。
「ようこそ、私の移動劇場へ」
霧の向こうから、不気味なほど朗々とした声が響いた。
現れたのは、巨大な【馬】だった。
だが、それは生き物ではない。全身を錆びついた鉄板で覆われ、関節部からは絶えず高圧の蒸気が噴き出している、機械仕掛けの怪物だ。その【馬】の蹄が地面を叩くたびに、周囲の鏡像が不規則に歪み、マキの平衡感覚を狂わせる。
馬上の男は、シルクハットに燕尾服という、戦場にはあまりに場違いな装いをしていた。
「私は【奇術師】アルルカン。この鏡の檻に閉じ込められた者は、自分の魂の汚れを直視して死ぬことになる」
「手品師の御託は聞き飽きたよ」
レイコがバイクを滑らせるように停止させ、サイドスタンドを蹴った。
彼女の全身から、濃密な殺気が立ち上る。
「マキ、そいつの動力源を叩け。鏡の仕掛けはアタシが壊す」
「了解……っす……」
マキは震える足で地面に降りた。ローファーの底が、血で滑る。
彼女はどかジャンの内側から、一振りの【ナイフ】を抜き放った。
超硬合金で作られたその刃は、鈍い光を反射している。マキにとって、このナイフの冷たさだけが、今この場所が現実であることを繋ぎ止める唯一の錨だった。
機械仕掛けの【馬】が、金属音を軋ませて突進してくる。
マキは迎え撃とうと身を構えたが、その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
【亜鉛】の白煙が、アルルカンの指パッチン一つで、ありえない形へと凝固していく。
目の前に立つのは、鉄の馬ではない。
それは、三年前の夏祭りの夜、彼女の目の前で撃ち抜かれ、その【手】の中で冷たくなっていった【恋人】、ケンジの姿だった。
「マキ……どうして、そんなにボロボロなんだ?」
幻影のケンジが、悲しげに微笑む。その声は、マキの記憶の奥底に大切にしまってあったものと寸分違わぬ、優しいトーンだった。
「もういいんだよ。そんな痛い思いをして、誰かのために戦わなくていい。一緒に、静かな場所へ行こう」
「ケンジ……君……?」
マキの【ナイフ】を持つ手が、目に見えて震え始めた。
幻影はゆっくりと歩み寄り、彼女の頬に手を伸ばす。その指先からは、かつて感じたことのないような、凍りつくような冷気が漂っていた。
「見ちゃダメよ、マキ! そいつはただの屈折現象だ!」
レイコの叫びが遠く聞こえる。
だが、マキの足は動かなかった。傷口の痛みさえ消え、ただ目の前の【恋人】の瞳に吸い込まれていく。
アルルカンの冷笑が、鏡の迷宮のあちこちから反響した。
「そうだ。愛する者の腕の中で、永遠の眠りにつきたまえ。それが私の提供できる最高の『終幕』だ」
機械の【馬】が、背後で鎌のような前脚を振り上げる。
マキの意識は、甘い絶望の淵へと沈み込んでいった。
2
幻影のケンジが差し出した【手】は、マキの喉元まであと数センチの距離に迫っていた。
その指先が触れれば、凍てつく安らぎが自分を永遠に支配するだろう。マキの意識は、甘い死の誘惑に溶け落ち、握りしめた【ナイフ】の柄さえもが、遠い異国の石像のように無機質なものに感じられていた。
だが、その冷気を暴力的に引き裂いたのは、鋭利な熱だった。
「目を覚ませ、マキ! 自分の血の味を思い出せッ!」
レイコの声が鼓膜を殴りつけた。それと同時に、マキの肩を何かが掠め、強烈な衝撃が走る。レイコが投げつけたバイクの工具――クロムバナジウム鋼の重厚なレンチが、幻影のケンジの胸を貫き、背後の鏡像を粉々に粉砕したのだ。
砕け散った破片の一つがマキの頬を深く切り裂き、鮮烈な痛みが爆発した。
口内に溢れる鉄の味。ズタズタになった右足の傷口が、再び熱い拍動を始める。
「……あ、が……っ」
マキは膝をつき、激しく咳き込んだ。視界から優しい【恋人】の姿が霧散し、代わりに、無慈悲に鎌を振り上げる鋼鉄の【馬】と、高笑いする【奇術師】の醜悪な面が浮かび上がった。
「レイコ、さん……」
「立てるな。アンタの【支え】が必要なのは、アタシの方だ」
レイコはバイクのエンジンを限界まで吹かし、フロントタイヤを持ち上げた。ウィリーの体勢のまま、彼女は【奇術師】の作り出した鏡の壁へと突っ込んでいく。
「マキ! 【亜鉛】の排気が一番濃いところを狙え! そこが野郎の心臓だ!」
マキは立ち上がった。全身の関節が悲鳴を上げ、筋肉が断裂する音が内側から聞こえてくるようだったが、彼女の瞳には冷徹な殺意が戻っていた。
彼女は懐から、一週間前にレイコから渡された「食べ残しの焼き芋」を取り出した。石のように硬く、冷え切った塊。彼女はそれを無理やり口に押し込み、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。
甘みなど欠片もない。ただの澱粉の塊。しかし、その「現実」の不味さが、彼女の魂に火をつけた。
「……食い物の恨み、晴らさせてもらいますよ」
マキは【ナイフ】を順手に持ち替え、鋼鉄の【馬】の突進をあえて正面から迎え撃った。
巨大な鎌のような前脚が、マキの肩口を浅く切り裂く。肉が裂け、血が飛沫を上げるが、彼女はそれを避けない。むしろその衝撃を利用して、馬の腹の下へと潜り込んだ。
そこは、高温の蒸気と【亜鉛】の粒子が渦巻く、灼熱の地獄だった。
「ここか……!」
マキは、内部で複雑に噛み合う歯車の隙間に、【ナイフ】の刃を全身の体重をかけて叩き込んだ。
超硬合金と鋼鉄が衝突し、凄まじい火花が散る。振動モーターが唸りを上げ、刃が機械の深部へと食い込んでいく。
「止まれえええッ!!」
断末魔のような金属音が響き、鋼鉄の【馬】は内部から爆発するように部品を撒き散らしながら、その巨体を地面に沈めた。
一方、レイコは空中でバイクを捨て、着地と同時にジュラルミンケースを解錠していた。
中から現れたのは、磨き抜かれた金属板の集合体――【八咫の鏡】だ。
「アルルカン、手品は終幕だ。鏡の真実ってやつを、その目に焼き付けてやる」
アルルカンは狼狽し、隠し持っていた散弾銃をレイコへ向けた。
「させるか! 私の世界を、そんな汚らわしい光で汚させてたまるものか!」
引き金が引かれる直前、レイコが【八咫の鏡】を掲げた。
それは単なる反射板ではなかった。
鏡の表面が、周囲に漂う【亜鉛】の粒子と空気中の水分を媒介に、周囲の光を幾何学的に収束させていく。
次の瞬間、無指向性のまばゆい閃光が、廃倉庫を昼間のような白光で塗りつぶした。
それはレーザーのような直線的な攻撃ではない。
あらゆる死角から「真実の像」を突きつける、光の暴力だった。
「ぎ、あああああッ!!」
アルルカンが絶叫した。
彼の目に映っていた「美しい舞台」が、光に焼かれて剥がれ落ちていく。
見えてきたのは、自分自身の醜い姿だった。名士を気取り、他人を傷つけることでしか自己を肯定できない、虚栄心で膨れ上がった矮小な男の真実。
鏡から放たれた光は、彼の網膜だけでなく、その虚飾に満ちた精神そのものを焼き切った。
光が収まると、そこには瓦礫の山と、廃人のように座り込むアルルカンの姿があった。
レイコは鏡をケースに戻し、静かに歩み寄った。彼女の革ジャンは至る所が裂け、額からは一筋の血が流れている。
「……殺せ。殺してくれ」
アルルカンが力なく呟く。
「いや。アンタには、そのズタズタになった世界で、明日も生きていってもらう」
レイコは冷たく言い放つと、倒れ伏しているマキの元へ向かった。
マキは、破壊された機械の馬の残骸に寄りかかり、荒い息をついていた。
右足はもはや感覚がなく、左腕も脱臼している。制服のセーラー服は、血と泥とオイルで、何色だったのかも分からないほどに汚れていた。
「マキ。終わったぞ」
レイコが、その大きな【手】を差し出す。
マキはぼんやりとその【手】を見上げ、それから自分の震える指先を重ねた。
「……総長。……今の、見てました?」
「何をだ」
「アタシ、あの偽物のケンジに……一瞬だけ、本気で行こうと思っちゃいました」
マキの声は震えていた。
レイコは何も言わず、ただ強い力でマキを抱き起こした。
その体温だけが、マキにとってのこの【旅】の唯一の正解だった。
「……生きてる間は、地獄が続く。死ぬ時くらい、綺麗な夢が見たくなって当然だ」
レイコはマキをバイクのタンデムシートに座らせ、自分の腰に彼女の【手】を回させた。
「だがな、アタシの期待は、そんな夢の中にはねえんだよ」
「……分かってますって。……痛い、重い、不味い。それが、アタシたちの現実なんですよね」
レイコがセルを回すと、野太い排気音が荒野に響き渡った。
二人は、沈みゆく夕陽に向かって、再び走り出した。
背負った【八咫の鏡】が、沈む陽光を反射して、彼女たちの通ってきた凄惨な血の道を、一瞬だけ黄金色に照らし出した。
マキは、レイコの背中に頭を預け、流れていく景色を眺めた。
ズタズタの肉体。絶え間ない痛み。
けれど、その奥底にある確かな「重み」を、彼女は誇らしく感じていた。
【手】の中に残った、硬い芋の感触と、共に戦った女の体温。
それさえあれば、どんな【奇術師】の迷宮も、二度と彼女を惑わすことはできないだろう。
(了)
バイオレンス・ペア 森崇寿乃 @mon-zoo
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