第2章:影に潜むもの
一瞬の静寂が降りた。
凹んだ鎧を着たアングロ兵が、嘲るような表情で嗄れた笑い声を上げた。
「なんだ、お前は? 小娘が」
アリスはゆっくりとフードを下ろした。微風が彼女の青みがかった髪をなびかせる。その視線は鋭い刃のように兵士を射抜いた。
「本当に言わせるつもり?」
男の顔から血の気が引いた。
「くそっ……森の魔女か! いつもお節介焼きやがって……」
アリスは眉をひそめ、冷たく鋭い声で告げた。
「言葉を慎みなさい」
馬上のアングロ隊長は、感情の篭らない笑みを浮かべた。
「想定済みだ」
彼は首を巡らせ、傷だらけの編み込み髭の大男に目を向けた。
「ビョルン、やれ」
戦いは終わったはずだったが、丘を下るアリスの頭の中では、未だ悲鳴と武器の衝突音が木霊していた。呪文の光の余韻が大気に漂っているが、彼女の手は震えていた。首筋を冷たい汗が伝う。
風が木々の間を囁き抜ける……それと共に、深く落ち着いた、しかし肌を粟立たせるような暗い鋭さを秘めた声が届いた。
『本当に……彼らの言うことを聞くのか?』
アリスは立ち止まり、杖を握る手に力を込めた。
「誰?」彼女は囁き、辺りを見回した。
声は静穏で、どこか父親のような響きさえあった。
『理屈など決して理解しない人間もいる……時には非情な決断も必要だ。重要なのは見極めることだ』
アリスは一瞬目を閉じ、古傷の痛みが胸を締め付けるのを感じた。
「嫌……あなたの言うことは聞かない。最後に聞いた時、罪のない命を奪うことになったもの」
声はさらに低く沈んだが、その冷静さは失われなかった。
『娘を売り渡した男か? それとも、神への狂信ゆえに我が子を犠牲にした女か? 狂信者どものことで己を責めるな。アリス、正しい選択も間違った選択もない……あるのは結果だけだ』
彼女は唇を噛み締め、沈黙した。心は重く、疑念が遠くの太鼓のように胸を打ち鳴らしている。
静寂を破るように、何かが砕ける音がした。
煙の中から怪物が姿を現した。猪を思わせる醜悪で粗野な顔立ちをした、傷だらけの巨漢だ。平たく潰れた鼻から悪臭を放つ息を吐き出し、牙を剥き出しにしている。その手には、闇のエネルギーで黒ずんだ刃を持つ斧が握られていた。
「ここだぜ、お嬢ちゃん。俺と遊ぶ準備はいいか?」
しわがれた声が、一音一音を嘲るように引き摺る。
アリスは鼻に皺を寄せた。
「うわ……最悪。一体何なのよ」
獣人(ビーストマン)は嗄れた笑い声を上げた。
「遊んでくれるなら教えてやるよ」
再び、あの声が彼女の心に語りかけた。助言のように静かに。
『あの獣を見ろ……ただの傭兵だ。逃げるな。力を使え、だが破壊のためではない……彼らを守るために』
アリスは息を乱し、唾を飲み込んだ。
「あなた……知ってるわ」
戦士は斧を持ち上げ、彼女に向けた。
「黙れ、人間! 自分の身が可愛いなら俺を無視するな」
彼女が答える間もなく、ビョルンが突進してきた。斧の一撃が瓦礫を巻き上げるが、アリスは空中で身を翻し、両手で魔法円を描いた。純粋な光の光線が放たれ、彼を後方へ弾き飛ばす。
戦いの舞台は空へと移った。魔法の閃光と残忍な打撃が交錯する中、魔女は致命傷を避け、ただ無力化することだけを目的に素早く動いていた。
地上では、傷つき喘ぐジュリアンが廃墟の陰に逃げ込んでいた。岩の割れ目から、古い地下聖堂が口を開けているのが見える。好奇心と恐怖に背中を押され、彼は中へと足を踏み入れた。
空気は凍てついていた。奥にある墓石には、彼には読めないサクソン語の碑文が刻まれている。彼は落ち着かない様子で手をこすり合わせ、周囲を見回した。
「気味が悪いな……」彼は囁いた。「あの忌々しい矢の雨が止んだらすぐに出よう」
頭上では戦闘が続いていた。アリスは新たな光線を放ったが、ビョルンは斧でそれを防いだ。彼の顔に浮かぶ歪んだ笑みが深まる。
「魔女め……殺す気がないな。俺を本気で相手にしていない。その代償は高くつくぞ」
アリスは地上に降り立つと、肩で息をしながら目眩ましの光輪(ハロ)を放ち、獣の戦士をたじろがせた。だがそれでも、彼の腕による重い一撃が左脇腹を捉えた。肺から空気が強制的に吐き出され、アリスは血を吐きながら地下聖堂の入り口へとよろめいた。
彼女は痛むあばら骨を押さえながら闇に身を隠した。口端から血が滴る。
「くそっ……悪魔みたいな馬鹿力ね……それに魔法がほとんど効かない」
冷たい壁に背を預け、目を閉じる。鮮明で痛ましい記憶が蘇った。
回想(フラッシュバック)
アリスは金髪の、心配そうな瞳をした少女の前に屈み込んだ。
「それで、マリアンヌ……今度は何が必要なの? おばあちゃんの薬?」
少女は小さく首を振った。
「アリスお姉ちゃん……お願いがあるの……違うこと」
「どうしたの?」
マリアンヌは視線を落とした。
「お兄ちゃんが……ガロイスを変えたいって。それは嬉しいけど……戦争に行っちゃったの。怖い」
アリスはその小さな両手を包み込んだ。
「名前を教えて……私が必ず無事に戻るようにしてあげる」
少女はパッと顔を輝かせ、飛び跳ねた。
「うん!」
アリスは面白そうに彼女の髪をくしゃくしゃにした。
「それと次は、おばあちゃんの世話をしてる人が誰かも知らないことを叱っておいてね」
回想終了
魔女は深呼吸をして立ち上がり、決意の瞳を向けた。
「マリアンヌの兄があそこにいる……失敗はできない」
ビョルンが地下聖堂に乱入し、腐臭が充満した。血の跡を辿り、彼は斧を投げつけた。アリスは辛うじて身をかわしたが、刃がチュニックを切り裂き、脚に焼けるような痛みを残した。
即座に彼女は呪文を唱え、戦士の足を縛り上げた。
ビョルンは吠え、両手で地面を叩きつけた。大地が揺れる。
その轟音に気付いたジュリアンが入り口へ駆け寄った。
「獣の戦士がなんでこんなところに!?」彼は恐怖に叫んだ。
ビョルンは彼を横目で見た。
「小僧……お前の出る幕じゃねぇ。だが失せねぇなら、次はテメェだ」
アリスはその隙に別の呪文で戦士の目を眩ませた。振り返ることなく、彼女はジュリアンに叫んだ。
「逃げて! 一撃で殺されるわよ!」
ジュリアンは震えながら首を振った。
「無理だ……陣形が崩壊してる。僕はここに閉じ込められたんだ」
アリスは地下聖堂の最深部へと降りていった。あの声が再び、静かに囁きかけてくる……。
『正面から戦わずに、あの獣を始末したいか?』
彼女は歯噛みしながら呟いた。
「どうすればいいの?」
『右の部屋にある墓の上部に光魔法を撃ち込め。猶予は十秒だ……光が奴の目を奪う。そうすれば……私が手を貸せる』
「誰なの?」彼女は囁いた。喉が疑念で詰まりそうだ。
『やれ。私が目の前に立つ』
「その前に何か見せなさいよ!」
地面が揺れた。
『私なら動くがな……豚野郎はもう後ろだぞ』
咆哮が彼女を襲った。ビョルンの巨大な手が背後から彼女を打ち据え、壁へと叩きつける。石や朽ちた木片が崩れ落ちた。
魔女は床を転がった。斧にかすめられただけの左脚が、重傷のような激痛を訴えている。
考える暇もなく、彼女は杖を掲げ、墓の上部に向けて強烈な光線を放った。
ビョルンがトドメを刺そうと突進してくる。だが、光の中から黒い影が現れ、人型を成した。霧が凝縮し、実体のない足が獣の戦士の胸を激しく蹴り上げ、まるでボロ布のように地面へ叩き伏せた。
ダーク・ディセント:人類の時代 中村 達也 @Ilicevic
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