​ダーク・ディセント:人類の時代

中村 達也

​第1章:マルセイユの戦い、魔女の介入

ガロイス、1510年、北の地……

ローヌ公国の森の心臓部、そこは大気さえも湿気と枯葉の匂いに満ちていた。歪んだ幹と雑草に紛れるようにして建つ木の小屋は、辛うじてその形を保っている。扉はわずかな風にも軋み声を上げ、棚や机はまるで薄いベールのような埃に覆われていた。

アリスは冷たい床の上を裸足で歩いた。その足取りは軽く、歩くたびに床板が軋む。短く切り揃えられた黒髪が顔にかかり、夕陽が板の隙間から差し込むたびに青い輝きを放った。水晶のように透き通った青い瞳は、散らかった部屋の隅々を不安げに彷徨っている。彼女は膨らんだ袖のある白いハイネックのブラウスを身にまとい、金の装飾が施された暗色のコルセットでそれを引き締めていた。首元の黒いリボンには小さな紫の宝石が結ばれており、彼女がため息をつくたびに微かに揺れた。

「クレア……」

彼女は優しく呼びかけた。その声は木々の間に消える囁きのようだった。そして、少し声を張り上げる。

「クレア、どこにいるの?」

静寂を破るように、微かな羽音が聞こえた。扉の枠に気だるげにもたれかかるようにして、一人の女性の姿が現れる。

クレアは、微笑み一つで望むもの全てを手に入れられると知っている者の佇まいを持っていた。艶やかで真っ直ぐな長い金髪が滝のように肩に流れ落ち、赤い瞳が悪戯っぽく輝いている。体にぴったりと張り付くコルセットと暗色の革ズボンが、彼女のしなやかな肢体を強調していた。背中で折り畳まれたサキュバスの翼は、ベルベットと影で織られているかのように見えた。

「呼んだかしら、チビ魔女さん?」

その声は甘く、しかし皮肉に満ちていた。

アリスは苛立ちと安堵が入り混じった眼差しを向けた。

「トーキーの司祭と話してきたの?」

クレアは伸びをし、森の静寂を切り裂くような音を立てて背中を鳴らした。

「行ってきたわよ……戻ってもきた。でも、問題があるわ」

アリスは眉をひそめた。

「何があったの? ガロイスを攻撃するつもり?」

「いいえ、そこまで劇的じゃないわ」クレアは小首を傾げ、髪の房を弄んだ。「でも、インキュバスが必要なのよ」

アリスは瞬きをした。

「どうして?」

サキュバスは静かに、音楽のような笑い声を漏らした。

「男の中には……」彼女は片眉を上げた。「私の女としての魅力に反応しない手合いもいるってこと」

アリスは頬が熱くなるのを感じた。

「クレア……まさか、それって……」

サキュバスは嘲笑うような笑みを崩さず、親指で森の方を指差した。

「ご名答」

アリスは指でこめかみを押さえた。

「カラスを捕まえてきて」

「仰せのままに、お姫様」クレアは木々の間に姿を消す直前、ウィンクをして見せた。

アリスは歯を食いしばった。

「私はお姫様じゃない!」

叫んだものの、クレアにはもう届いていないことは分かっていた。

枝を踏む音が彼女の帰還を告げた。クレアはその手に、艶のある羽と落ち着きのない目をしたカラスを一羽抱えている。アリスは土の床に塩で五芒星を描き、その端に乾燥したハーブを配置した。古の言葉を呟く彼女の声は柔らかく、そして一定だった。空気が重く淀む。生き物は最後に一度だけ鳴き声を上げ、暗い煙の柱となって溶けていった。

魔法円の中から、一人の青年が現れた。

明るい金髪が無造作に額にかかり、大きく輝く緑色の瞳が当惑に瞬いている。腕まくりした白いシャツに薄茶色のベストという質素な出で立ち。その表情は、長い眠りから叩き起こされた子供のようだった。

クレアは腕を組み、彼を上から下まで値踏みした。

「これがインキュバス?」

青年は眉をひそめた。

「『これ』って……僕、ここにいるんだけど、分かってる?」

アリスは微笑み、髪を耳にかけた。

「クレア……彼を信じて。あなたが出来ない仕事を彼が手伝ってくれるわ」

サキュバスは呆れたように目を回したが、その笑みは少し和らいでいた。

「あなたがそう言うならね……」

青年は深呼吸をし、肩を張った。

「最初の仕事は何だい?」

アリスは片眉を上げた。

「それと、私のことは『奥様』なんて呼ばないでね」

インキュバスは顔を赤らめた。

「ごめん……」

アリスは彼の肩に手を置き、優しい声で言った。

「安心して。ここでは完璧である必要はないわ」

青年は照れくさそうに微笑んだ。

「ありがとう……」

「あなたには城へ行って、王子にガロイスを攻撃しないよう説得してほしいの」

少年は目を見開き、凍りついた。

「説得って……王子を?」

アリスは頷き、一瞬視線を落とした。

「クレアが言うには、彼は……特別らしいから」

クレアは鼻を鳴らした。

「特別よ。それにあなた、またあの小説を読んでいたんでしょう?」

アリスは頬を赤らめ、視線を逸らした。

「読んでない!」

サキュバスは舌打ちをした。

「王子じゃないわよ。トーキー第一軍の司祭よ」

青年は顔を手で覆い、深いため息をついた。

「なんで僕ばっかりこんな目に……」

アリスは少しの間、考え込むように沈黙した。

「やめておきましょう。相手は司祭よ。そう簡単に説得できる相手じゃないわ」

青年は困惑した顔で彼女を見た。

「それじゃあ……君はガロイスの味方なのかい?」

魔女はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。私はただ、この戦争を終わらせたいだけ。そして……母さんを見つけたいの」

クレアは一瞬、いつものからかうような表情を消して彼女を見た。

「覚えていないの?」

アリスはうつむいた。

「ただの影だけ……背が高くて、黒い髪の。私に残っているのはそれだけよ」

森を吹き抜ける風が重くなり、不吉な予兆を帯び始めた。小屋の入り口で、アリスは杖を両手で握りしめ、木々の彼方を見つめていた。近くの岩に腰掛けたクレアが、静かにそれを見守っている。

「感じる?」サキュバスが尋ねた。その声はいつもより低かった。

アリスは地平線から目を離さずに頷いた。

「空気が……騒がしいわ」

入り口に胡座をかいて座っていたケンが、彼女たちの方へ顔を向けた。

「戦争?」

クレアがため息をつく。

「ええ。マルセイユが燃えているわ」

アリスは一瞬目を閉じた。今朝感じていた平穏が、指の間から崩れ落ちていく。

「見過ごすことはできないわ」

クレアは彼女を横目で見た。

「介入する気?」

魔女は杖を胸に押し当てた。

「したくはない……でも、やらなきゃ」

ケンは立ち上がり、ズボンの埃を払った。

「三人で行く?」

「いいえ」アリスは静かに首を振った。「これは私一人でやらなきゃいけないことよ」

クレアは目を細めた。

「本気?」

アリスは哀愁を帯びた笑みを浮かべた。

「そうありたいわ」

それ以上言葉を交わすことなく、彼女は森の小道を下り、霧の中へとその姿を滑り込ませた。

マルセイユの城壁は遠くに聳え立っていたが、戦場の咆哮は絶え間ない雷鳴のようにはっきりと届いていた。空は煙に覆われ、赤と灰色に染まっている。アングロ軍の投石機が鈍い轟音と共に静寂を打ち砕き、ガロア軍の列には黒い雨のように矢が降り注いでいた。

混沌の最中、泥と汗に塗れた一人の若い兵士が隊長のもとへ走り寄った。

「隊長……第一防衛線が……落ちました」

隊長は緊張で拳を白くさせながら、作戦卓を叩いた。

「くそっ!」彼は歯の間から吐き捨てた。「生存者を撤退させろ。砦へ送るんだ。我々に残されたのはそれだけだ」

兵士は唾を飲み込み、頷いた。

「はっ! イエス・サー!」

戦いの激震が続く一方で、そこから数キロ離れた森沿いの静かな村には、戦争のもう一つの、より小さく痛ましい顔があった。

お下げ髪の金髪に質素なドレスを着た少女、マリアンヌは、大きな瞳を不安に揺らして母親を見つめていた。

「ママ……ジュリアンはどこ?」

アンは視線を落とし、震える手でエプロンを握りしめた。

「マルセイユへ送られたわ……」彼女の声は震えていた。「戦っているの」

少女は両手で口を覆った。

「嫌……そんなの嫌……」

唇から嗚咽が漏れ、彼女は家を飛び出した。涙が止まらない。

夕暮れの冷たい風も彼女の涙を乾かすことはできず、彼女は古い樫の木の下で体を抱きしめ、悲しみに震えた。

「どうして……どうしてこんなことにならなきゃいけないの?」

風に囁いた問いかけに、答えはなかった。

マルセイユでは、アングロ軍が猛烈な勢いで門を突破していたが、内部で彼らを待ち受けていたのは凄まじい抵抗だった。岩場に潜んでいたガロアの騎兵隊が、不意を突いて油断していた弓兵たちに襲い掛かる。剣と兜がぶつかり合う音は、止むことのない雷鳴のように轟いた。

死体の間に横たわり、傷ついたジュリアンは苦しげに息をしていた。制服は血に染まっていたが、その目は見開かれたまま、灰色の空を凝視していた。

そしてその時、戦場が静止した。

丘の上から柔らかな光が降り注いだのだ。

アリスは確固たる足取りで歩いていた。背後でマントが翻り、杖が淡く輝いている。短い黒髪が真剣な面持ちにかかり、その青い瞳は危険なほどの静けさを湛えて燃えていた。

彼女が杖を掲げると、光は戦場全体に広がり、血に染まった大地と、双方の疲弊しきった顔を照らし出した。

「止まりなさい!」

彼女の声は澄んで力強く、喧騒を貫いた。

「争いをやめなさい。さもなくば、報いを受けることになるわ」

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