最終話 灰雪の輪舞曲 ― Ash-Snow Rondo ―
助けるって言葉は、いつも軽い。
口にした瞬間は綺麗だ。けれど現場は汚い。
血が出る。
息が散る。
音が割れる。
それでも手だけは最後まで“やる”って顔をする。
◇
シャドウバッドの内側は、喉だった。
壁を走る淡い線が、雪や息が落ちるたび小さく震える。数えるみたいに。揃えるみたいに。
ロウは旗布の結び目を握り直す。拳にしない程度に。開いたまま、震えを殺す。
トワは半歩後ろで袖を二回掴んだ。大丈夫、の合図。
「歩ける?」
「……うん。歩ける」
――偽塔だ。
冊子の図が脳裏でめくれる。喉。縦穴。芽。
(“芽”は入口じゃない。中枢だ。終わり損ねた残響が、ここで脈を作る)
前方に白い光。出口、と錯覚した瞬間、胸が軽くなる。軽くなったぶんだけ足が前へ出る。
甘い匂いの奥に腐った匂いが混ざる。近づくほど喉が狭くなる。
出口じゃない。“収束”だ。
理解が背中を叩いた瞬間――音が割れた。
乾いた破裂音。空気が刃みたいに冷える。
「伏せろ!」
ロウがトワを引く。だが棘のほうが先に届いた。壁から伸びた黒い棘がトワの腹を貫く。
声にならない息が潰れ、布が擦れる音と骨の奥の震えだけが残る。
「トワ……!」
抱えない。抱えたら手が塞がる。手が塞がったら喉に勝てない。
肩を貸し、旗布を腰に回し、結び目に体重を預ける。片手で腹を押さえ、もう片手で布を離さない。
掌から掌へ熱が移り、トワの指先にわずかに色が戻る。戻るほど残酷だ。
ロウは歯を食いしばって前へ進む。出口の白が近い。
――そのとき。
世界の縁から、子どもみたいに軽い声が落ちてきた。
「えー……人間って、ほんと手間」
「その出口さ、“一人分”って決めたの。二人で行くの、ズル」
ロウは足を止めかけて、止めない。止めたら終わる。
「あれ? 今の、聞こえてるの?」
声が弾む。玩具を揺らすみたいに。
「普通ここまで届かないんだけど……へぇ。芽が違うんだ。かわいい」
「名乗る? ……ちょっとだけ」
一音だけ、舌の先に落ちる。
「ロ——」
わざと止める。喉の入口で舐めるみたいに。
「……あは。だめだめ。まだ早い」
「いま言ったら、お前、振り向いちゃうでしょ。振り向いたら、二人とも飲まれて終わり」
「終わりは好き。でも早すぎるのは嫌。だから、次の音、聞いて」
――パチン。
指鳴らしひとつ。
二人の間から棘が噴き、黒い柵が立つ。
伸ばした指が棘先で止まり、触れた瞬間に焼けるように痛い。
向こうでトワが崩れ、白い呼気が柵の手前で千切れた。
「……ロウ」
距離があるのに、名前だけが先に届く。トワは口を手で押さえる。泣き声を出したくない。でも息が漏れて白く散る。
ロウは棘の向こうへ手を伸ばす。届かないのに、手は届こうとする。掌の血が灰の雪に点を打ち、細い線になる。
拳にしない。繋ぐ形にする。
――
胸の拍が指へ走る。
脈を貸す。
熱を渡す。
命を一拍ぶん先へ押し出す。
トワの指先が微かに動く。
ロウの心臓が“助かった”と勘違いする。
「いける……繋がる。オレの拍を持ってけ、いまだけでいい!」
血だらけの手を掲げる。祈りみたいに。
トワはその手を見て、ゆっくり首を振った。
「……だめ。返して。その拍、私に貸さないで」
「なんで!? 頼む……助けさせてくれ!」
トワは息を欠かせながら言う。
「あなたのその手は……こんなことで、終わらせちゃだめ」
「……こんな事!? トワが死ぬのが、こんな事なのかよ!」
トワは笑おうとして笑えず、目だけで言い切る。
「……こんな事よ」
市場の端。袖を二回掴んで“平気”を作った指。丁寧に結んだ髪。
当たり前がほどける前に、先に覚悟していた背中。
だからトワは、痛い息で言葉を縫う。
「あなたは、これから多くをなす人。だから……ね?」
あの声が嬉しそうに笑う。
「うわ、最高。助けたいって顔、いちばん好き。もっと燃やして。もっと壊れて」
「行ってって言ってるでしょ……」
トワの声は細いのに、肺の奥に残る。
「私の分も、生きて、救って。」
「嫌だ……出来ない。置いていけない。置いたらオレの手は、手じゃなくなる」
トワは首を振り、手で口を押さえ直す。息が棘に引っかかって戻ってこない。それでも言う。
「あなたの手は……繋ぐためにある」
「ここで終わらせたら、だめ」
ロウは旗布の結び目を握る。震えそうになる。震えない方を選ぶ。
「……分かった」
胸のどこかが折れる。音はしないのに、確かに折れた感触。
棘柵の向こうで、トワの目が少しだけ緩む。その安心が、ロウの心臓に刃を置く。
ロウは背を向ける。振り返ったら戻る。戻ったら二人とも飲まれる。
吸う。喉がざらつく。吐く。吐いた息が白い。
一歩。
足裏が灰の雪を押し潰す。
靴底に湿った灰が絡んで、ぬち、と鳴る。
背中越しにトワの呼吸が追ってくる気がして、追ってこないと分かるたび胃が沈む。肩甲骨のあたりが熱いのに、振り返れない。
振り返った瞬間、熱ごと喉に飲まれる気がした。
二歩。
音が少し遠くなる。
三歩。
喉の線が、その足音を“拍”みたいに数えて揃えようとする。
気持ち悪いほど正確に。
背中のほうで、空気が小さく鳴った。
「……ロウ」
声じゃない。声の手前みたいな音。
戻りそうになる。戻らない。だから歩く。
棘柵の向こうで、トワの指が“袖の端”を探す。二回掴めば大丈夫の場所。
でも今、そこがない。指が空を掴み、滑って落ちる。
「……ヤダ」
氷の下で割れる小さな音みたいに。
「死にたく、ない……」
言った瞬間、胸が大きく上下する。次の息が入らない。白い呼気が粉みたいに散る。
「ロウ……行かないで……ロウ……っ」
最後の呼気が細く切れて、そこから先が出なくなる。白が出ない。それが一番わかりやすい。
トワの口元が、手の隙間で小さく動く。
音にならないのに、形だけが読めてしまう。
——ごめんね。あるいは、ありがとう。
どちらにも見えて、どちらでもないのが、いちばん残酷だった。
目は背中を追ったまま止まり、指がゆっくり開いて床に落ちる。軽い。軽いことが怖い。
落ちた指先から血が一滴だけ遅れて垂れ、床に触れる直前で線の光が小さく震えた。拾った。数えた。拍手みたいに。
トワの胸は、もう上下しない。なのに喉だけが“続き”を欲しがって、静けさを舐める。
ロウは一瞬だけ呼吸を止め、再開して歩く。
外へ。
列へ。
本編の戦線へ。
足音はもう戻らない。
戻らない音だけが、喉の奥へ吸い込まれていく。
喉の奥で、軽い声が手を叩くみたいに弾んだ。
「いいね、ちゃんと別れた。えらい」
「……ロ——。ね。もう少しで言えたのに」
「でも我慢。いま言ったら、物語が早く終わっちゃう」
ロウは声の主を知らない。
ただ手の中の熱が一つ減ったことだけを知っている。
旗布が指に食い込み、痛みが前に押した。
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