第4話 落下の合図 ― The Signal to Fall ―
落ちる瞬間って、派手な音がすると思ってた。
でも本当は逆だ。
音が、先に薄くなる。
世界が一回だけ息を止めて――そのあとで、全部が遅れて追いかけてくる。
だから人は、手を探す。
足場じゃなく、答えじゃなく。
「まだ繋がってる」って証拠だけを。
◇
乾いた破裂音が、列の前方で弾けた。
荷車の前輪。
軸の金具が外れ、木が軋み、車体が一瞬だけ“踏ん張った顔”をして、
次の瞬間、支えを失って沈んだ。
「止ま――」
誰かの声が途中で千切れる。
地面が、ほどけた。
雪の皮がめくれ、下から灰色の層がぬるりと顔を出す。
裂け目は穴じゃない。縦に開いた喉だ。
空気が引かれる。頬の産毛が逆立つ。
――
以後、シャドウバッドと呼ぶ。
列の前列がぐらりと沈む。
担架が傾き、包帯の白が雪にほどけて、誰かの命みたいに転がった。
「押すな!」
「前が――!」
「子どもが!」
恐怖がぶつかって、列が詰まる。
詰まりは落下を呼ぶ。
ロウは旗布を短く振った。
止まれ。
合図は届く。
届いたのに、止まらない足がある。
恐怖は命令を聞かない。恐怖は前へ転ぶ。
「右――!」
ロウは旗布を長く振り、右へ切った。
進め。
右へ逃げろ。
でも荷車は重い。
担架は遅い。
雪は、足首の骨から正しさを奪う。
縁が、もう一度吸った。
音が軽くなる。
泣き声が遠くなる。
そして――足裏の感触が消える。
◇
落下は、音じゃなく手応えで来た。
床が抜ける。
体重の行き先がなくなる。
重力だけが正直になる。
ロウは前に跳び、誰かの腕を掴んだ。
滑る。
布が濡れている。汗か雪解けか血か、区別する暇がない。
「手、離すな!」
声は喉で潰れた。
でも掴んだ指は潰れない。
掴み直す。
親指が骨に当たり、痛みが走る。
痛い。まだ生きてる。
縁が崩れ、膝が沈む。
腰が引かれる。
喉に、飲まれる。
ロウは旗布を握り込みかけて、やめた。
拳にしたら、掴めない。
開いた手で、もう一人を引き寄せようとした――その瞬間。
二回、袖が引かれた。
トワだ。
振り返る。
トワが、縁の一歩手前で立ち尽くしていた。
目が大きい。真っ白な雪の上で、そこだけ時間が止まったみたいに。
口が開く。
「ロウ」と呼んだはずなのに、音が途中で千切れる。
風と恐怖が声を奪っていく。
トワは反射で口を手で押さえた。
声が出たら足が凍るって、身体が知ってるみたいに。
「トワ! 右だ! 走れ!」
ロウは旗布を右へ払った。
合図は届く。――でもトワの足が動かない。
そして、縁の雪から黒い棘が伸びた。
光を吸う棒。
鉄筋みたいな形で、雪を突き破って突き出てくる。
縁に刺さり、並び、縁を“縫い止める”みたいに固定していく。
違う。
逃がさないための杭だ。
ロウの背中が冷え切った。
シャドウバッドは、ただ崩れる穴じゃない。
喉は、飲むためにある。
ロウは――掴んでいた腕を放した。
放した瞬間、その誰かが落ちる。
落ちる顔が見える。
見えるのに、手がもう届かない。
身体が先に決める。
トワを取る。
ロウは縁を蹴って、トワへ跳んだ。
伸ばした手が遠い。
遠いのに、届かせるしかない。
トワも伸ばした。
指先が当たる。
冷たい。
滑る。
「……っ!」
もう一度、掴む。
掴めた。
掌の中に薄い熱が戻る。
脈が、かすかに打つ。
まだ、ある。
「――よし!」
言った瞬間、世界が抜けた。
足元が崩れ、二人の体が沈む。
ロウは抱え込む。抱え込んだ腕が震える。
トワは口を押さえたまま、息だけが跳ねる。
声を出したら、終わる。
そういう顔だった。
そして二人は――喉の中へ落ちた。
◇
ドン、と衝撃。
肩に刺さる硬さ。
土じゃない。石でもない。もっと嫌な冷たさ。
暗い。
でも真っ暗じゃない。
壁に細い線が走っている。
淡い光――エコーラインの残響みたいな光が、糸のように絡まっている。
塔の中じゃない。
でも塔の“真似”をしている場所。
シャドウバッドの内側。
上から雪が落ち、荷が落ち、息が落ちる。
落ちるたび、壁の線が震えて、何かが“数える”みたいに脈打つ。
ロウは立ち上がろうとして、膝が笑った。
「トワ、動ける?」
トワは頷こうとして息を乱し、胸に手を当てかけてやめる。
代わりに、ロウの袖を掴んだ。
二回。
大丈夫の合図。
でも指先が冷たい。
ロウがその手を包んだ瞬間、壁の線がまた脈打った。
待ってたみたいに。温度を、脈を、手の熱を。
師匠の声が、頭の奥で鳴る。
貸すなよ。命まで、貸すな。
ロウは旗布を握り直した。
拳にしない程度に。開いたまま、震えを殺す。
外側回廊の“道”は、もう無い。
道が、偽塔になった。
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