第2話 息を奪われた国 ― A Country with Its Breath Taken ―

 国が死ぬとき、最初に消えるのは叫び声じゃない。


 音の“すき間”が増える。

 いつもなら埋まっていたはずの生活のノイズが、ひとつずつ抜け落ちていく。


 抜け落ち方が、やけに静かで――だから、余計に怖い。


     ◇


 掲示板に紙が貼られた翌朝。


 ルメルナは、まだ動いているふりをしていた。

 でも空気の端が昨日より冷たい。深く吸うと胸の奥が少しだけ引っかかる。

 ――気のせいだ、と言い切れない程度に。


 市場は開いていた。

 けれど、パン屋の窯から湯気が出ない。

 露店の鍋が温まらない。

 水桶の水面が、妙に静かだった。


 暮らしが、音を立てずに痩せていく。


 トワはいつもより早く起きて、

 いつもより丁寧に髪を結んでいた。


「トワ、今日は……」

 ロウが言いかけると、トワが遮るように口を開いた。


「ねえロウ。手、見せて」

「……なんで」

「見たいだけ」


 トワはロウの掌を開き、線をなぞる。

 祈りみたいに、確かめる。


「……まだ温かい」

「当たり前だろ」

「当たり前が、当たり前じゃなくなる日ってあるんだよ」


 外で子どもの泣き声がした。

 すぐ止まる。

 泣き声は、長く続かない。


 泣くのにも体力がいる。

 息を吸うのにも、許可がいる。


 ルメルナは、その許可を切られた。


     ◇


 昼前、役所の前に兵が立った。

 役人が台に上がって紙を掲げる。


「慌てるな。線は凍結だ。復旧手続きは――」


 言いかけた声が、咳に変わった。

 それだけで、群衆の顔が固まる。

 復旧の言葉は、口にした瞬間に嘘になる。


 トワがロウの袖口を二回引く。


「帰ろう」

「……うん」


 帰り道、灰を含んだ雪が乾いた音を立てる。

 トワが、ぽつりと言った。


「ねえロウ。見えない線ってさ……ほんとにあるのかな」

「知らない」

「でも、止まったら暮らしが止まる。なら、あるんだよね」


 灯りが弱くなる。

 湯が沸かない。

 家の会話が短くなる。

 短くなるほど、余白が怖くなる。


 怖さは、余白に住む。


     ◇


 夕方。


 家の奥で、トワが小さく言う。


「ロウ……胸が、ちょっと苦しい」

「寒いだけだ」


 ロウはトワの手首に指を当てた。

 そこにある脈が、妙に薄い。

 ロウはトワの手を取って、自分の頬に押し当てた。

 温めるというより、確かめる。


 生きてるかどうかを、手で確かめる。


 その瞬間、家が静かすぎることに気づく。

 外の風の音が薄い。犬の鳴き声が遠い。

 音が途中で吸い取られてるみたいに。


 ――暮らしが、散ってる。


     ◇


 扉が乱暴に開いた。


「おい、ガキども」


 入ってきたのは師匠だった。

 元・旗手。いまは名もない兵。

 笑い方だけが雑に強い大人。


「帝国はルメルナを“切った”。守るふりの対象から外した」


 ロウの拳が勝手に握れた。


「拳にするな」

 師匠が低く言う。

「今は、届かせる時だ」


「……何を」

「人だ。物資だ。あと――息だ」


 師匠はロウの手を掴む。

 乱暴なのに熱い。


「明け方、外側回廊に集合点ができる」

「外側回廊は、塔の外周を回る荷と人の道だ。門と倉庫と避難口をつないでる」

「荷車の列が出る。避難民と負傷者と補給が一本に縫われる」

「お前は旗手だ。列を縫え。列を通せ」


 布包みが投げられる。

 受け取ると、縫い目が指に刺さった。

 布なのに、骨みたいに硬い。


「旗手は、声で指揮しない」

 師匠は短く言う。

「声は散る。手は、先に届く」


 師匠が、さらに一拍だけ重くする。


「終わりきれずに残る“続き”を、兵隊は拍って呼ぶ」

「今はその続きが溜まりやすい。だから……手を間違えるな」

「命まで、貸すな」


 ロウは喉が乾いた。

 でも、声にすると散る気がした。


 だから手で答えた。

 旗布を、抱える。


 トワが、ロウの袖の端を指先だけで掴んだ。

 離さない、を渡すみたいに。


 師匠が扉を閉める。

 返ってきた静けさが、やけに薄い。


 ロウは旗布を抱えたまま、トワの指先を見た。

 その指が、袖の端をつかむ。

 言葉じゃ足りないとき、そこが“約束の端”になる。


 ――夜が明けたら、外側回廊だ。

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