第3話 発覚! 秘密のノート
交際を始めてから数週間後の週末。
健太は、ついに栞の部屋に招かれることになった。
彼女の家は、閑静な住宅街にある瀟洒な洋館だった。通された自室もまた、彼女のイメージ通り、アンティーク調の家具で統一された上品な空間だ。
ふわりと香るラベンダーのアロマ。窓辺に飾られたドライフラワー。何もかもが完璧で、少しだけ現実味がない。
「紅茶を淹れてくるわね。アールグレイでいいかしら?」
「あ、うん。ありがとう」
栞がパタパタとキッチンへ消えていく。一人残された健太は、緊張を紛らわせるように部屋の中を見回した。
彼女のプライベートな空間にいるという事実に、胸が高鳴る。
壁に掛けられた絵画、机の上に置かれた読みかけの洋書。どれもセンスが良く、健太が憧れる知的で洗練された世界そのものだった。
ふと、本棚の一角に目が留まった。
シェイクスピア全集や美術書が並ぶ中、一番下の段の奥に、不自然にノートが隠すように差し込まれていた。
洗練された机の中で、何度も捲られ使い古されたノートが異様な存在感を放っている。
(学習ノートかな……?)
いけないと思いつつも、最後は好奇心が勝った。
健太はそっと手を伸ばし、そのノートを引き抜いた。
その瞬間、目に飛び込んできたタイトルに、健太の思考が停止した。
『プロジェクト彼氏 ~理想の王子様育成計画~』
「プロジェクト彼氏?」
心臓が嫌な音を立てる。
健太は恐る恐るページをめくった。そこには、几帳面な手書き文字と、写真やデータがびっしりとコラージュされていた。
【4月:音響による嗜好誘導】
「ターゲットの聴覚に、サブリミナル的に80年代UKロックを刷り込む。放送委員の田中くんに接触し、購買のパン1ヶ月分と引き換えに、昼休みの放送リストを操作させる。特にThe Smiths『This Charming Man』を重点的に流し、彼の潜在意識に『この曲=心地よい』というアンカーを埋め込む」
健太の手が震え始めた。
確かに、春先になぜか校内放送で古い洋楽がよく流れていたのを覚えている。あれがきっかけで気になり始め、自分で検索したのだと思っていたが……買収? 田中?
ページをめくる手が止まらない。冷や汗が背筋を伝う。
【5月:味覚改造プロトコル】
「ハンバーグ依存からの脱却。彼の実家のポストに、私が編集・製本した『月刊スパイスライフ』を投函。母親の交友関係にも同様の手段を用いて、同じ話題で盛り上がるように工作。夕食にスパイス料理を出すよう誘導する」
(母さんが急にスパイスにハマったのって、まさか……)
健太は愕然とした。あれは母さんの気まぐれじゃなかったのか?
【6月:ビジュアル・アップデート(髪型編)】
「彼が利用している美容室『BARBER コバヤシ』の店長・小林氏(52歳)の感性を掌握する。
近隣の女子高生(サクラ)を数名雇い、店前で『あの髪型の人、超カッコよくない?』と、あらかじめ用意した理想のモデルを指差しながら大声で会話させる。
これにより、小林氏は『今、このスタイルこそが至高であり、若者を輝かせる正解だ』と確信するに至る。
あとは健太くんが店に行き『お任せで』と言うのを待つだけ。洗脳済みの店長は、使命感に燃えて私の望み通りのハサミを入れるだろう」
(あの時……俺は「お任せで」って言っただけなのに、やけに凝った髪型にされたのは、そういうことか!?)
【7月:ビジュアル・アップデート(ファッション編)】
「黒い服への抵抗感を消去する。彼が頻繁に閲覧しているアニメ掲示板のスレッドにて、『今期の主人公、黒のモード系私服が神がかってる件』というスレを乱立させ、サクラを使って肯定的な意見で埋め尽くす。彼の『カッコいい』の基準を書き換える」
(あのスレ、全部こいつの自演だったのか……!?)
健太は膝から崩れ落ちそうになった。
ファイルの中には、健太がこの一年で自分で見つけたと信じて疑わなかった選択肢のすべてに、栞の冷徹なまでの計算と工作の痕跡が残されていた。
偶然の一致など一つもなかった。
運命なんて存在しなかった。
健太が「自分らしさ」だと思っていた個性は、すべて栞というプロデューサーによって、彼女の好みに合うようにカスタマイズされた仕様だったのだ。
さらにページをめくると、【行動心理学的アプローチ:仕草の矯正】という項目が現れた。
「ミラーリング効果の応用。私が髪を耳にかけた時、3秒以内に彼も同じ動作をするよう条件付けを行う。成功したら微笑み(報酬)、失敗したら少し冷たい視線(罰)を与える。これを反復することで、彼は無意識に私の好む『アンニュイな仕草』を習得する」
健太は自分の前髪に触れようとして、ハッとして手を引っ込めた。
この癖さえも。
自分の意思じゃない。自分の細胞の一つ一つまで、彼女の手のひらの上で踊らされていたのか。
「ウソだろ……」
ファイルを持つ手がガタガタと震え、重みに耐えきれず床に落としそうになった。
恐怖と、屈辱と、そして理解を超えた執着への戦慄。
彼女は俺のことが好きなのか? それとも、俺という素材を使って理想の作品を作りたかっただけなのか?
高嶺の花だと思っていた彼女は、実はとんでもないサイコだったのだ。
カチャリ
ドアノブが回る音がした。
健太は弾かれたように顔を上げ、慌ててノートを隠そうとしたが、手遅れだった。
ドアが開き、ティーセットを持った栞が入ってくる。
彼女は、蒼白な顔をした健太と手にしているノートを交互に見ると、驚くでも慌てるでもなく、ただゆっくりと唇の端を吊り上げた。
健太の声が出ない。
逃げなければ。
この部屋から、この恐ろしい育成者から。
しかし、栞は逃げる隙など与えない。彼女はトレイをサイドテーブルに置くと、健太に歩み寄った。その顔には、いつもの深窓の令嬢のような儚さは欠片もなく、獲物を追い詰めた捕食者のような、妖艶で圧倒的な笑みが張り付いていた。
「見ちゃった?」
悪戯が見つかった子供のような、しかし隠し事など最初からなかったかのような、甘く低い声。
「私の計画」
彼女はそう言い放つと、一歩、また一歩と健太との距離を詰めてきた。
部屋の空気が、ラベンダーの香りから、もっと濃厚で逃れられない、毒の花の香りに変わった気がした。
(続く)
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