第2話 ハッピーエンドじゃなくて、それはプロローグ
季節が巡り、街路樹が色づき始めた秋の夕暮れ。
健太は、人生最大の大勝負に出ることを決意していた。
(今日の俺は、完璧だ)
姿見に映る自分を、健太は厳しい検閲官のような目つきでチェックする。
栞が素敵だと言ってくれた黒のタートルネックに、ヴィンテージのチャコールグレーのスラックス。足元は磨き上げた革靴。美容室でセットしてきたばかりのパーマは、計算された無造作感で額にかかっている。
どこに出しても恥ずかしくない、洗練された男の姿がそこにあった。
「行くぞ」
短く呟き、健太は部屋を出た。
向かう先は、駅裏の路地裏にひっそりと佇む純喫茶『琥珀』。
昭和の時代から時が止まったような重厚な内装、紫煙の染み付いたベルベットの椅子、そしてマスターが一杯ずつ丁寧にネルドリップで淹れる珈琲。
以前、栞が「私、あそこの静寂が好きなの」と語っていた場所だ。ここ以外の舞台は考えられなかった。
店の扉を開けると、カランコロンと乾いたベルの音が響いた。
琥珀色の照明の下、店の奥まった席に、栞は座っていた。
彼女は文庫本を読んでいたが、健太の気配に気づくと、顔を上げて柔らかく微笑んだ。彼女の周りだけ、スポットライトが当たっているかのように鮮やかだ。
「お待たせ、綾小路さん」
「ううん、今来たところよ。今日の健太くん、いつも以上に素敵ね」
栞の言葉に、健太の緊張が少しほぐれる。
二人は向かい合って座り、ブレンド珈琲を注文した。
店内には、かすかな音量で音楽が流れている。健太が事前にマスターに頼み込んでおいた、The Smithsの『There Is A Light That Never Goes Out』だ。
哀愁を帯びたメロディと、切実な愛を歌う歌詞。
これ以上ないシチュエーション。
舞台装置はすべて整った。
珈琲の湯気が立ち上る中、健太は深呼吸をした。
心臓の鼓動が、BGMのドラムよりも激しく鳴っている。
だが、迷いはなかった。この一年、自分を磨き上げ、彼女にふさわしい男になるために努力してきた。今の自分になら、彼女を受け止める資格があるはずだ。
「綾小路さん」
「ん?」
栞がカップを置き、真っ直ぐに健太を見つめる。その瞳は、すべてを吸い込むように深く、静かだった。
「俺、この一年で変われたと思うんだ。自分の好きなものを見つけて、自分らしい生き方ができるようになって……。でも、それに気づかせてくれたのは、いつも君だった」
健太は言葉を選びながら、熱い想いを紡いでいく。
「君と話していると、パズルのピースがはまるみたいに、心が満たされるんだ。好きな音楽も、映画も、味覚も。こんなに感覚が合う人は、世界中探しても君しかいない」
栞は何も言わず、ただ静かに頷いている。その表情からは、感情の色が読み取れない。
ただ、微かに頬が紅潮しているようにも見えた。
健太はテーブルの上で握りしめていた拳を開き、意を決して言った。
「俺たち、運命だと思うんだ。……好きです。付き合ってください」
店内の音楽がふっと止まったかのような静寂。
マスターがカップを拭く音さえも消え失せたような、永遠にも似た数秒間。
健太は祈るような気持ちで、栞の唇が動くのを待った。
やがて、栞はゆっくりと、本当にゆっくりと、蕾がほころぶような笑みを浮かべた。
それは、健太が今まで見たどの笑顔よりも甘く、そしてどこか妖艶な響きを帯びていた。
「はい」
鈴の音のような声。
「ずっと待っていたわ、健太くん」
栞の手が伸び、テーブルの上に置かれた健太の手に重ねられた。
彼女の手は冷たく、滑らかで、驚くほど柔らかかった。
健太はその感触に痺れながら、全身を駆け巡る歓喜に震えた。
やった。
想いが通じた。
高嶺の花である彼女が、俺を選んでくれたのだ。
「ありがとう、綾小路さん」
「ふふ、栞でいいわ。これからは、もっと近くにいられるのね」
栞は健太の手を、愛おしそうに撫でた。
その指先が、健太の手首の内側、脈打つ血管の上をなぞる。ぞくり、とした快感が健太の背筋を走った。
「健太くんが完成するのを、私、ずっと楽しみにしていたのよ」
「え?」
健太は聞き返した。
完成?
栞は小首を傾げ、無邪気な瞳で健太を見つめ返す。
「ううん、なんでもない。……珈琲、冷めないうちにいただきましょう」
「あ、ああ、そうだな」
健太はカップを持ち上げた。
幸福感で頭がふわふわしていたせいで、彼女の言葉の微かな違和感を見過ごしてしまった。
『ずっと楽しみにしていた』という言葉の重み。
『完成』という奇妙な表現。
そして何より、彼女が自分の手首を掴む力が、華奢な見た目とは裏腹に、決して逃がさないとでも言うような強さを秘めていたことに。
二人は祝杯のように珈琲を口にした。
苦味の奥にある甘い香り。
健太は信じて疑わなかった。これが、二人で歩む幸せな未来の始まりだと。
自分が主役のラブストーリーが、最高のハッピーエンドを迎えたのだと。
だが、彼はまだ気づいていない。
物語は終わったのではなく、ようやくプロローグが終わったに過ぎないことを。
栞はカップの縁越しに、健太を見つめていた。
それは恋人たちの甘いシルエットであると同時に、蜘蛛の巣にかかった蝶のようにも見えた。
(続く)
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