「ピアノ」(1話完結・短編)

ナカメグミ

「ピアノ」(1話完結・短編)

 固いクッション地。その茶色い椅子に座る。開いた楽譜を、譜面台に置く。

 ブルグミュラー。18の練習曲。13曲目。「大雷雨」。

リビング。壁沿いに置くピアノの前に1人。静謐な時間。

 目を閉じる。開ける。黒と白の世界。指を静かに置く。深呼吸。弾き始める。

 

 この曲を作ったブルグミュラーは天才だ、と思う。

 雨雲が見える。雨が降り出した。雷が鳴り始めた。激しさを増す。

雨と雷。嵐。荒れ狂う。地鳴りのように響く。

 雷、鳴った。息、ひそめる。また鳴った。一段と激しく。おさまった。

空に晴れ間が見えた。青空。よかった。もう大丈夫だよ。

 

 鍵盤から離した指を、そっとひざの上に置く。息を吐き出す。

1人で好きな音を、好きなように奏でる。幸せ。小学6年生だった。


****


 6歳のときに自殺した父は、亡くなる少し前に、いろいろと買い物をした。

今、振り返るに、生と死の間での心の揺れ。

 

 自身への鼓舞か。いすゞジェミニの新車を買った。

 死への予感か。中島みゆきの「わかれうた」のレコードを買った。

A面の「わかれうた」、B面の「ホームにて」。レコードプレイヤーで、2曲を繰り返し聴いていた。 

 そして、おそらく1人娘への準備。カワイのピアノ。茶色い木目の猫足だ。鍵盤の上に「KAWAI」の文字。釧路の北大通にあったカワイのピアノ販売店に行き、買ってくれた。おそらく家、車の次に、我が家では高額な買い物だった。

 

 そして家とピアノを残して、父は車ごと海に逝った。家とピアノが残った。


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 「衣食住」の「住」。ローンの団体保証に入っていたから、家は残った。

父の命は生命保険金に代わった。その金は、いざというときに備えて、絶対に残すべきものだった。母が働けなくなったときの生活費、私の学費として。

 

 だから日常の「衣」「食」は、母が働いた金が頼り。質素な生活を心がけた。

私が母に頼んだ、唯一のわがままがあった。「ピアノを習いたい」。


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 大好きだった父が、最期に残してくれたピアノ。父が聴いていた中島みゆきの「わかれうた」や「ホームにて」、当時流行っていた久保田早紀の「異邦人」。耳で覚えたメロディーを、たわむれに弾いてた。

 それだけでは、ピアノの良さがわからない。

 

 父が元気だったころ。休日によく足を運んでいたパチンコ店の隣り。小さな雑居ビルの2階に、当時、カワイのピアノ教室があった。近所の子が通っていた。

 バレエなどに比べて、高額な月謝ではなかった。

 「絶対にひとりで通う」という条件で、習わせてもらった。


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 バーナム、バイエル、ツェルニー。定番の練習曲は、正直、退屈極まりなかった。

ブルグミュラー「25の練習曲」、「18の練習曲」、ソナチネ。直に耳になじんだ、やさしめの古典の曲へと進んだ。

 

 ベートーヴェン「エコセーズ」「エリーゼのために」、ショパン「子犬のワルツ」「黒鍵のエチュード」「葬送行進曲」、ハチャトゥリアン「剣の舞」。

 奏でる曲が、だんだん増えていく喜び。

長調よりも、断然、短調。バラードよりも、ひたすらに叩きつける激しい曲。

弾く曲の好みが、持ってうまれた性格で絞られていく。「三つ子の魂百まで」か。


 ピアノが好きだった私にとって、唯一、そして大きな悩み。発表会だ。


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 発表会は、教室に通うものにとって、絶対参加であった。当時、釧路の出世坂近くにあった公民館。年に1度、そのステージに立つ。

 そもそも、人前で弾くのは好きではなかった。大勢の聴衆を前に、緊張しない人間はいるのか。きっといるのだろう。私はとても、緊張した。

 

 発表会の数カ月前から、ピアノ講師と相談して曲を決める。譜面を読む。弾きまくる。暗譜する。ステージに立つ所作の練習。リハーサル。そして本番。

 ピアノの楽しさは、なりをひそめて、特訓の場となってしまう。


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 小学校高学年から習った講師は、音楽大学を出ていた。厳しかった。手の形が、彼女の理想でなければ、容赦なくひっぱたかれた。そういう時代だった。

 手首の角度、曲の解釈、強弱のつけ方。感情表現。たちまち楽譜は、赤いペンの書き込みで覆われた。


 当時の私。小学校や地域の子供コミュニティの付き合いもあり、スピードスケート部とバレーボール部に入っていた。週に1度の書道は、月謝も安い。将来的に、字が上手な方がよいという、母のたっての希望であった。

 

 高学年。小学校の人間関係も複雑さを増した。毎日が精一杯。

そこに加わるピアノの発表会は、体力とは別に、窒息しそうな息苦しさを覚えた。


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 母は生来の負けず嫌いであった。


 中国大陸の満洲国(当時)から、2歳ほどで、家族で日本に引き揚げてきた。5人きょうだいの長女。北海道の海沿いの小さな町で、家族の世話を一手に引き受けた。

 

 「私にできないことはない」。強い自負がある。高校卒業後は、和洋裁の学校で学んだ。その母は、ピアノの発表会というと、俄然、張り切った。私とちがう意味で。


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 まず、北大通の有名な布の販売店に行く。服を縫う布地を買いに行く。

ところ狭しと棚に並ぶ布地を見る母は、いきいきとしていた。

 店の鏡の前。私の体にさまざまな布地をあてる。言えない本音。


  母よ。せっかくの休日。私、ピアノの練習した方がいいと思うし。

  当日の服なんて、なんでもいいし。恥ずかしくさえなければ。

 

  そもそも私、服にまったく、興味ないし。

  あなた、いつも言ってるじゃない。私、みっともないって。

 

  みっともないのに、手作りの服、着せられても、うれしくないよ。

  私、当日、ステージでピアノ弾くだけで、せいいっぱいだよ。


張り切る母を前に、言えない本音。口にした途端、不機嫌になり怒り出すことが、わかっている。2人暮らし。逃げ場がないからこそ、言えない本音。

 

 この時期のルーティン。1人だけの逃げ場にこもる。くらもちふさこ先生の漫画「いつもポケットにショパン」の世界へ。

 主人公のプレッシャーは、私のこんなものじゃない。自分を奮い立たせる。


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 布地を買ったあとに始まる狂想曲。服作り狂想曲。

 メジャーで、体のあちこちを採寸する。型紙をつくる。布を断つ。仮縫い。着てみる。お直し。また着てみる。絶えず鳴り響くミシンの音。試着のたびに呼び出される。ピアノがある1階から、ミシンがある2階へ。中断されるピアノの練習。


 今年の服は、白いワンピースだという。丸い襟付き。半袖。腰をサッシュで縛る。

「服、脱いで」。

 当日、最も美しく見えるジャストサイズの服を。母に妥協はなかった。

下着姿になる。ワンピースを着る。全身鏡の前に立つ。

「いいね」。満足気な母。

 

  なにがいいんだよ。なんも、よくないよ。こんな真っ白い服。

  本番前に、行く途中、バスの中で汚したら、どうすんだよ。

  うち、車ないから。考えてる?。そういうこと。

  当日、ピアノ弾くだけで、いっぱいいっぱいだから。

  余計なこと、考えたくないんだよ。


言わない本音。鏡の中の私。直視できない。発表会はすぐそこだ。


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 当日。故郷特有の冷たい雨が降った。半袖のワンピースの上に、カーディガンを羽織る。白い靴。雨で汚れてはいけない。長靴を履いて歩く。バスに乗る。薄手の白いタイツに、泥のはねがとんだ。茶色い染み。でも大丈夫。ふくらはぎの後ろ側だ。おそらく前から見えない。


 会場に着く。靴を履き替える。簡単なリハーサル。家族が客席に座った。


 舞台袖で順番を待つ。生きた心地がしない時間。5つほど並んだいすに座る。

指先は冷たい。なのに汗をかく。矛盾。こわばる。こすり合わせる。 

 

 私の前の小学5年生男子。演奏を始めた。ブルグミュラー「大雷雨」だ。

力強い鍵盤の音。叩く。雷鳴。叩く。鳴る。彼は今、強くて激しい。

一瞬、聴き惚れる。一瞬だけ。次は私だ。


 呼ばれた。怖い。足が震える

 ステージに出る。中央に進む。お辞儀。いすの周りをまわって腰掛ける。

 ひざに置いた手。指先の汗を、太ももの白い布地で拭う。弾き始めた。

 

散々だった。


****


 この年、講師が選んだ曲。シューマンの「子守唄」。私のピアノは、とにかくタッチが荒い。雑だ。「大雷雨」のような激しい曲調なら合う。講師は1度徹底的に、緩やかな曲を、丁寧に弾く練習をした方がいい、と選んだ。


 講師が手本を弾いた。最初に聴いたときから、大嫌いだと思った。私にとって、静かなメロディーは弾きがいがない。練習すれども、タッチが荒い。

 

 本番。序盤でとちった。あとは総崩れ。立て直せない。子守唄、ではなかった。


****

 

 終演後。ピアノ講師はこわばる笑顔で、「よかったね」と言った。

「すみませんでした」。謝る私。泣きたい。


 帰り道。数メートル先を歩く母は、ひとことも口をきいてくれなかった。


  なんで私、こんな嫌いな白いワンピース着て、歩いてるんだろう。

  なんで、とちったんだろう。なんで、大嫌いな曲、弾いたんだろう。


家に着いた。涙が出た。

「さっさと脱ぎなさい!」。母の声が響いた。

階段を昇る。ミシンがある2階奥の母の寝室に入った。ワンピースをハンガーにかけようとした。目に入った。手に取った。階段を降りた。


 母はリビングのソファで頭を抱えていた。

  

   今日、おまえが弾いたんじゃないだろ。疲れたふり、すんなよ。


母がこちらを向いた。持ち上げた。左手で掲げた。母が縫った白いワンピース。

まだ私の体温が残る。なまあたたかい。


 右手に、母愛用の裁ちばさみ。ワンピースを切っていく。ザクザクザク。心地よい音。布を裁つ心地よい手応え。道具は大切だ。裁ちばさみは、ほれぼれするほどよく切れた。

 薄手の白い布。ウエストで、まっぷたつに切れた。更に細かく切っていく。ランダムに。グチャグチャに。ただの布きれに。

 目を見開いた母の顔。信じられないものを見た、驚きの表情。


    私ね、ずっと、あなたのその顔、見たかった。

 

 腹の底の底から、こみ上げる笑い。アハハハハ。気づいたら、泣きながら笑っていた。ここで2つ目のわがままね。


「新しいジャージ、買ってよ!!」


ひざが、つぎはぎだらけなんだよ。1日しか着ない服なんて、いらないから。

(了)

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「ピアノ」(1話完結・短編) ナカメグミ @megu1113

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