実質賃金マイナスの名探偵・氷室は、今日も眠れない~12連勤の果て、有給2連の自己暗示(IQ280)で殺人事件を爆速解決して寝る~
@cross-kei
【短編一話完結】約6500文字
【第一幕:終電の執行者】
金曜、午後11時50分。
北部線、下り最終電車。
車輪がレールを刻む単調な振動音だけが、深夜の車内に響いている。
車両の連結部で、駅員の佐藤(56)は、胸元の古びた鉄道時計を見つめていた。
秒針が進む音は、自身の鼓動よりも大きく聞こえる。
この車両は20年以上前に製造された旧型だ。
最新の防犯カメラなどという気の利いた代物は、影も形もない。
その「設備投資のなさ」という企業怠慢が、今夜だけは佐藤にとって唯一の幸運だった。
佐藤はゆっくりと、制服の首元に手をかけた。
息苦しさを紛らわせるためではない。
これから行う「作業」のために、規定で着用が義務付けられているネクタイを緩め、音もなく引き抜く。
それを丁寧に折りたたみ、両手でしっかりと端を握りしめた。
その座席では、ターゲットの女が深く首を垂れて眠っている。
毎週金曜日になると必ず、安酒の臭いをプンプンとさせ、だらしなく口を開けて眠りこけるこの女。
彼女こそが、12年前に私の娘を連れ去った誘拐犯だ。
皮肉なものだ。
12年前、警察ですら掴めなかった尻尾を、日々の退屈な業務の中で掴むことになるとは。
先月、彼女が泥酔して落としたスマホを拾い上げた時、待ち受け画面を見て全身が震えた。
そこには、成長することのなかった、あの日のままの娘の笑顔があったのだ。
その瞬間、今日の処刑計画は確定した。
佐藤は業務の見回りを装い、足音を忍ばせて女の前に立つ。
躊躇はなかった。
手にしたネクタイを、眠るターゲットの首へと回す。
直接手で触れれば痕が残るかもしれない。
だが、幅の広い布ならば、圧力を分散させつつ、血流だけを確実に遮断できる。
的確に、静かに、絞める。
女は一度も覚醒することなく、抗うこともなく、静かに絶命した。
佐藤は素早く凶器となったネクタイを丸めると、バッグへと放り込んだ。
佐藤は女の耳から外れかけていた派手なイヤリングを抜き取ると、隣の席へ視線を移した。
そこには、死んだように爆睡しているサラリーマン――氷室が一人。
佐藤は氷室の胸元を一瞥した。
安物のスーツに、少し緩んだストライプのネクタイ。
どこにでもいる、疲れ切った企業戦士の姿だ。
(……悪いな、サラリーマン。だが、こっちは仕事しているのに、泥酔して正体不明になっている君が悪いんだぞ)
佐藤はその男のネクタイを外し、被害者の首に巻いた。
そして、ヨレたコートのポケットへ、盗んだイヤリングを滑り込ませた。
カメラのない密室。
駅員という社会的信頼。
そして、酔っ払いの曖昧な記憶をこの「冤罪」で上書きする。
計画は完璧だ。
【第二幕:マイナスの目覚め(心理戦)】
「お客様! 大丈夫ですか! ……おい、君!」
激しい揺さぶりと共に、鼓膜を叩く怒声。
氷室は泥のような、あるいは沼の底のような深い眠りから、無理やり現実へと引きずり上げられた。
「……ん?」
重い瞼をこじ開けると、視界のピントが合わない。
目の前には制服を着た駅員(佐藤)。
その背後、向かいの席には怯えたように口元を押さえる「コートの女」。
そして隣には――事切れた女性の遺体が、人形のように転がっていた。
「君、ずっと隣にいただろう! この女性が亡くなっているぞ!」
「ええ、私も見ていました……!」
コートの女が、演技がかった震える声で同意する。
「このサラリーマンの方、さっきから不審な動きを……あ、ポケットから何か」
氷室が反射的に自分のポケットを探ると、チャリ、と乾いた音がした。
死んだ女のイヤリングが、床に転がり落ちる。
(は……? なんだこれ)
氷室の思考が凍りつく。
寝起きの脳には処理しきれない情報量だ。
だが、理不尽な状況への恐怖よりも先に、ある絶望的な事実が脳裏をよぎった。
――警察。事情聴取。拘束。
その単語が連想させるのは、「12連勤後の休日」がガラガラと音を立てて崩れ去る映像だ。
貴重な休日なんだ。
それだけは。それだけは、何があっても阻止しなければならない。
氷室は大きく、深く、深呼吸を一つした。
そして、震える指でこめかみに装着したスマートグラスのフレームをなぞり、電源ボタンを押す。
唇だけで、流暢な英語を紡いだ。
「Watson, boot up. Emergency mode. ......Save my holiday.」
(ワトソン、起動。緊急モードだ。……私の休日を死守しろ)
『了解(Copy)。緊急モードで起動します』
骨伝導スピーカーから響くAIの無機質な応答。
それを確認すると、氷室はまだ眠そうな目をこすりながら、あえて弱々しい、疲弊した会社員を演じて見せた。
「……ちょっと待ってください。私が、殺したというのですか?」
「見ただろう! ポケットから証拠も出た!」
佐藤が居丈高に怒鳴る。
「ええ、見ました。怖くて声も出ませんでした」
女もそれに追従する。
「なるほど……」
氷室はよろよろと立ち上がり、ふらつく足取りで女の方へ顔を向けた。
「ところで、目撃者の女性の方。……あなたは、どの駅で乗車されたんですか?」
唐突な質問に、女が一瞬、戸惑いの表情を見せる。
「え? ……あ、阿佐ヶ谷駅からですが……それが何か?」
「阿佐ヶ谷から終点の尾張原駅まで、特別快速なので途中の停車駅なし。30分以上前ですよね」
氷室は視線を隣の佐藤(駅員)に移し、また女に戻した。
「30分間。私が隣の女性を殺して、ポケットにイヤリングを入れるまで、ずっと見ていた」
「え、ええ。不審だと思っていましたから」
「じゃあ、不思議ですね」
氷室の瞳から、わずかに眠気が消える。
「なぜ、悲鳴を上げなかったんですか?」
「っ!」
「不審な男が隣の客の首を絞めている。普通の神経なら叫びますよ。なのにあなたは、駅員さんが来るまで無言だったと? 細かいことを確認してすみません。しがない会社員なもので、上司の指示が曖昧だと気になって質問してしまうんです」
「そ、それは……! 怖くて、声が出なくて……」
女がしどろもどろになりながら弁明する。
「そうですか。声が出なかった……と」
氷室はゆっくりと視線を動かし、女のすぐ横の壁にある赤いボタンを指差した。
「じゃあ、なぜその『SOSボタン』を押さなかったんですか?」
車内の空気が凍りついた。
「あなたの席の目の前だ。指を伸ばせば1秒で押せる。声が出なくても押せますよね? ……なぜ、押さずに黙って見ていたんですか?」
「あ、うぅ……ボタンに気づかなかったんです」
女の顔色がみるみる青ざめていく。
視線が泳ぎ、過呼吸のように肩が小刻みに上下し始めた。
「はぁ、はぁ……」
その時。
苦しむ女を見て、駅員の佐藤が血相を変えて動いた。
「おい、大丈夫か! 落ち着け!」
佐藤はとっさに女のバッグを掴み上げると、迷わず外側の「サイドポケット」のファスナーを開け、中から「薬のピルケース」と「小型水筒」を取り出して女に握らせた。
「ほら、薬だ! 早く飲め!」
「いい加減にしたまえ! この女性だってパニックだったんだ! 揚げ足を取るな! この酔っ払いめ!」
佐藤が氷室を睨みつける。
その過剰な擁護と、あまりに自然な介抱を見た瞬間。
氷室の中で、散らばっていた全ての「違和感」が一本の論理回路で繋がりだした。
「駅員さん。私は酔っていません。疲労で意識を失っていただけですよ。私の体からお酒の匂い、しませんよね?」
「……え、いや……とにかく。お前が殺したんだろ。警察を呼ぶから覚悟しろ」
氷室は口の端をわずかに歪め、小声で相棒に告げた。
「……ワトソン、被害者の推定死亡時刻と凶器の分析を」
『了解。……顎関節に死後硬直の兆候が全く見られません。目撃証言から、死後1時間以内と推定。遺体の首に「指の圧迫痕」が見られません。凶器はネクタイの可能性が高いです』
「……ワトソン、あの女性が口元を押さえているハンカチをスキャンしろ」
『完了。……ロゴの形状から、北部電鉄が10周年に配布した「記念品」と特定しました』
「……ワトソン、駅員の制服をスキャン。北部電鉄の標準仕様と比較」
『……Warning。規程で着用が義務付けられているネクタイを着用していません。この年代の制服着用規定における重大な違反です』
「……ワトソン、駅員と目撃者女性の顔で画像検索。主に過去のニュースを洗え」
『……ヒットしました。12年前の未解決誘拐事件の画像に一致情報あり』
「……ワトソン、マイルストーンだ」
『……と、言いますと?』
「ステークホルダー(犯人)が判明した。スコープ(事件概要)も確定した。一気に仕掛ける」
【第三幕:覚醒の儀式】
「……やるか」
氷室は懐に手を入れた。
取り出したのは、コンビニで売っている安物の栄養ドリンク。
カチリ、とキャップをひねる乾いた音が静寂を破る。彼はそれを一気に喉へ流し込んだ。
飲み干した瓶を、流れるような動作でスーツのポケットへしまい込む。
ポイ捨てなどしない。それが彼の、悲しい習性(サガ)だ。
顔を上げる。
その瞳から、人としての生気が消え失せる。
「必殺、有給自己暗示。……奥義、2連休の初日午後」
世界が凍りつき、視界に入るノイズが「論理」へと変換されていく。
疲労も、感情も、全て遮断。残るはタスクの消化のみ。
「……氷餓鬼(ひょうがき)の脳細胞を働かせろ」
IQ280。思考のオーバークロック、完了。
「……情報整理完了。謎は全て融けた」
【第四幕:論理の解剖】
「駅員さん。……答え合わせをしましょう」
覚醒した氷室の声は、精密機械のように冷たく、正確だった。
「彼女がSOSボタンを押さなかった理由。それは『押す必要がなかった』からです。彼女は知っていた。『すぐにこの車両に、あなたが来る』ということを」
「妄想だ! 証拠はあるのか!」
佐藤が吠える。
「……この車両には防犯カメラがない。だから強気に出たんでしょうが、それが裏目に出ましたね」
氷室は冷徹に見下ろした。
「カメラがないからこそ、あなたは『目撃者』を用意する必要があった」
「な、何を……」
「先ほど、あなたは迷わなかった。彼女が苦しみ出した瞬間、あなたはバッグのメインポケットではなく、外側の小さなサイドポケットを一直線に開け、そこから薬を取り出した」
氷室の言葉が、鋭利な刃物のように空気を切り裂く。
「他人のバッグの、どのポケットに何が入っているか。なぜ一介の駅員が知っているのですか? ……それはあなたが、毎日そのバッグを見ている『家族』だからです」
佐藤の顔面が蒼白になる。
とっさの介抱。妻を心配するあまりに出た、無意識の「愛」。
それが致命的なミスだった。
「それに、その女性が大事そうに使っているハンカチ。……ずいぶんと年季が入っていますが、貴重なものですよね」
女がビクリと肩を震わせる。
「ワトソンのデータベースによれば、その刺繍のロゴは、この鉄道会社が10年前に『創業100周年』を記念して作ったものだ。一般販売はされていない。当時の永年勤続社員とその家族だけに配られた、非売品の記念品だ」
佐藤の膝が震え始める。
支えを失った人形のように。
「なぜ、ただの乗客である彼女が、10年前の社員限定グッズを持っている? ……それを持っている理由は一つしかない」
「くっ……!」
論理の逃げ場は塞がれた。佐藤は歯噛みする。
「そうだとも……! 彼女は私の妻だ。だが、それだけだ。たまたま座っていただけでお前が殺したという事実は変わらない!」
「往生際が悪いですね。……では、最後の質問です」
氷室は、被害者の首に巻かれた「自分のネクタイ」を冷ややかに見下ろし、佐藤に向き直った。
「私のネクタイは、そこにありますね。……では駅員さん。『あなたのネクタイ』は、どこへ消えたんですか?」
「……っ!?」
佐藤の手が、無意識に自分の首元へと伸びる。
そこにあるはずの布地がない。
氷室が一歩、詰め寄る。
「被害者の首にある私のネクタイには、強く絞め上げた時にできる『結び目の硬直』や『シワ』がない。ただ、ふわりと巻いただけだ。……つまりそれは偽装工作。本当の凶器は、あなたが隠したネクタイですね」
「あ、ああっ……」
「凶器になったネクタイは、まだ奥さんのバッグの中でしょう。警察が来る前に奥さんと証拠を逃がす計画なんでしょ? でなければ、夫婦であることが露見する。つまり……今DNA鑑定にかければ、まだ被害者の皮膚片と、あなたの汗が検出されるはずです」
「くっ……!」
佐藤がその場に崩れ落ちる。
ネクタイという動かぬ証拠。そして、それを妻に預けたという事実が、二人を逃れられない共犯の鎖で縛り付けていた。
「……そして、犯行動機は、この事件でしょうか」
氷室は懐から私用のスマートフォンを取り出し、画面を佐藤の目の前に突きつけた。
【第五幕:12年目の証明】
スマホの画面には、12年前のニュース記事が表示されていた。
見出しには『幼女誘拐事件、懸命の捜索続く』の文字。
そして写真には、駅前でビラを配り、頭を下げる若い夫婦の姿があった。
「……どう見ても、あなたたちだ」
氷室の指摘に、佐藤とコートの女――恵子は、息を呑んで画面を見つめた。
写真の中の若き日の二人は、やつれてはいるが、希望を捨てずに必死に世間に訴えかけていた。
今の、殺意に澱んだ瞳とは違う、悲痛な親の顔がそこにあった。
「12年前、娘さんを誘拐されたご夫婦。……この被害者の女性は、当時の犯人だったのではないですか?」
氷室は静かに尋ねた。
恵子が、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「……あの子を奪ったこの女が悪いのよ……っ!」
佐藤もまた、膝をつき、震える手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。
「法律は……あいつを裁かなかった。警察も頼りにならない。この女は、俺達から子供を奪って、自分の子供として育てた悪魔だっ! だから私たちが……!」
【第六幕:溶けない氷の審判】
車内に重苦しい沈黙が落ちる。
復讐の動機は、あまりにも重く、悲しい。
「……お二人の苦悩と怒りの日々は、理解できます」
氷室の声は、低く、重い。
「しかし、同じ苦悩と怒りの日々でも、我々就職氷河期世代は耐えることを選びました。……あなた方のように、憎しみをストレートにぶつけることをせず、不条理に耐えながら、今も生きています」
「……っ!」
「無実の人間に罪を着せようと行動する身勝手な情熱では、その氷を溶かすことは、できません。……プロジェクト終了です。ワトソン、警察へ全データを送信」
【終幕:名探偵の残業】
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
不吉な赤い光が、車窓を照らした。
氷室はスマートグラスを操作し、ワトソンに指示を出した。
『通話ログ、及び検索データを県警サーバーへ転送完了』
「……まったく。カメラの一つも付いていない車両を走らせるなよ」
氷室は天井を見上げ、誰に言うでもなくぼやいた。
「セキュリティホールだらけのアナログ現場だった。……おかげで、無駄な残業が増えた」
氷室はスマートグラスを外すと、猛烈な倦怠感に襲われながら座席に沈み込んだ。
自己暗示が解け、12連勤の疲労が利子をつけて押し寄せる。
「……ああ、結局。……明日の休みも、警察署の冷たいベンチで事情聴取か」
実質賃金マイナスの名探偵は、二度と戻らない安眠を求めて、また重い瞼を閉じた。
ポケットの中の空き瓶が、カチリと小さく、虚しい音を立てた。
(完)
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【作者あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
人生初のミステリー執筆でした。「実質賃金マイナスの名探偵」、
いかがでしたでしょうか?
実はこの作品、皆様からの「★(星)評価」や「フォロー」の反響が良ければ、
シリーズ化して連載を続けたいと考えております。
皆様の応援が、氷室の数少ない「実質賃金(執筆の原動力)」となります。
「こいつをもっと事件に巻き込んで困らせたい」
「もっと活躍(残業)を見たい」と思っていただけましたら、
ぜひ画面下の「★」や「フォロー」で応援していただけると嬉しいです!
氷室の次回休暇(次回作)のために、何卒よろしくお願いいたします。
実質賃金マイナスの名探偵・氷室は、今日も眠れない~12連勤の果て、有給2連の自己暗示(IQ280)で殺人事件を爆速解決して寝る~ @cross-kei
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