エリンギは裂くものであって、切るものではない!

夜桜 灯

第1話 繊維の恋、指先の熱


 1


 午後三時。ランチ営業の慌ただしい喧噪が去り、けだるい西日が店内に差し込むこの時間が、私――井ノ原 実里いのはら みのり、二十六歳の思考がもっとも危険な領域に達する刻限である。


 私が店主を務める「キッチン実里」は、商店街の路地裏にひっそりと佇む、カウンター七席、テーブル二つの小さな定食屋だ。メニューは日替わりが中心。私の気まぐれと、その日の安売り食材によって献立が決まる。

 だが、ここ数ヶ月、私の献立決定プロセスには、ある重大なノイズが混入していた。


 ――今夜、あの人は何を食べたいだろうか。


 あの人。名を、相馬そうまさんという。

 年齢は、おそらく私と同じか、二、三歳上だろう。近くのデザイン事務所に勤めているらしく、三ヶ月ほど前から、七時半きっかりに店へ顔を出すようになった。

 常に少し疲れた顔をしている。けれど、私が「お疲れ様です」と水を出すと、ふわりと目尻を下げて「ああ、生き返るなあ」と呟くのだ。その、無防備な笑顔の破壊力たるや。

 彼はいつも「今日のおすすめで」と注文する。私はその言葉を聞くたびに、料理人としての矜持と、恋する乙女としての媚びへつらいの間で激しく揺れ動くのだった。


「さて……」


 私はエプロンの紐を解き、店の裏口を出た。夕方の仕込みの前に、商店街のスーパー「ヤオマサ」へ買い出しに行かねばならない。

 今日の相馬さんの顔色はどうだろうか。昨日は少し顔が青白かった。ビタミンB群が必要だ。豚肉? いや、昨日は生姜焼きを出したばかりだ。もっとこう、胃に優しくて、でも噛みごたえがあって、食べた瞬間に「ん?」と目を見開いてくれるような、そんなインパクトのある食材は――。


 スーパーの自動ドアをくぐり、冷気と共に野菜コーナーへ足を踏み入れる。

 キャベツ、高い。大根、重い。トマト、まだ青い。

 目利きモード全開で棚を流し見していた私の足が、きのこコーナーの前でピタリと止まった。


 特売のポップが踊っている。

 そこに鎮座していたのは、白く、太く、堂々たる風格を漂わせた「森のホタテ」こと、エリンギだった。


「……良い形」


 思わず声が漏れた。

 私はトレイに手を伸ばす。パックの上からでも分かる、その弾力。軸の太さは親指二本分ほどもある立派なものだ。傘の開き具合も控えめで、鮮度は申し分ない。

 エリンギ。

 ヒラタケ科の貴公子。癖のない味わいと、アワビにも似た独特の食感。加熱しても目減りせず、和洋中どんな味付けにも染まる懐の深さ。それはまるで、私の理想とする男性像そのものではないか。


「今日は、君に決めたわ」


 私はエリンギのパックを二つ、カゴに入れた。

 その瞬間、私の脳内にはすでに完成予想図が浮かび上がっていた。エリンギのバター醤油ソテー。シンプルイズベスト。しかし、ただのソテーではない。相馬さんを唸らせるための、究極の調理法で挑むのだ。


 ――そう、私は「裂く」女だから。


 2


 ここで、全人類に問いたい。

 あなたはエリンギを、包丁で切ってはいないだろうか?

 まな板の上に寝かせ、冷徹な金属の刃で、トントントンと輪切りに、あるいは短冊切りにしてはいないだろうか?


 もしそうなら、あなたはエリンギの魂を殺しているに等しい。

 今すぐその包丁を置き、懺悔室へ行くべきだ。


 エリンギという食材の真髄は、あの縦に走る強靭かつ繊細な「繊維」にある。

 包丁の刃は、繊維を無慈悲に断ち切る。断面はツルツルになり、舌触りは滑らかになるかもしれないが、同時に味の浸透を拒絶する「壁」を作ってしまう。

 だが、手で裂くとどうだ。

 自然の摂理に従い、繊維の流れに沿って引き裂かれた断面は、微細な凹凸に満ちている。その無数のささくれが、ソースを、バターを、醤油を、全霊で受け止めるのだ。

 そして何より、食感である。

 包丁で切ったエリンギが「クニッ」という食感なら、裂いたエリンギは「シャキッ、キュッ、ジュワッ」である。繊維一本一本が口の中で踊り、弾ける。その快楽を知らずして、エリンギを語ることなかれ。


 スーパーからの帰り道、私は買い物袋を抱えながら、うっとりと夢想にふけった。


(相馬さん、いつも疲れてるから、今日は噛むことでストレス発散してほしいな……)


 想像する。

 カウンターに座る相馬さん。出された皿を見て、「お、エリンギですか」と言う。

 箸で一本をつまみ上げる。裂かれたエリンギは、野趣あふれる見た目をしている。口に運ぶ。

 咀嚼した瞬間、バターの香りと醤油の焦げた匂い、そしてエリンギ自身の持つ甘い汁が口いっぱいに広がる。

『……すごい。なんだろう、この食感。いつも食べてるのと違う』

 彼は驚き、私を見るだろう。

『実里さん、これ、どうやって作ったんですか?』

 私は少しはにかんで、こう答えるのだ。

『ふふ、秘密です。でも、相馬さんのために、心を込めて一本一本、裂いたんですよ』


「……ぶふっ」


 路地裏で一人、私は不気味な笑い声を上げてしまった。

 危ない、完全に危ない人だ。だが止まらない。

 裂く、という行為には、どこか背徳的な響きがある。普段は包丁を操る料理人が、あえて道具を捨て、素手で食材に向き合う。その野性。プリミティブな衝動。

 私の指先がエリンギの肌に触れ、力を込めると、抵抗しながらも素直に身を任せて裂けていくあの感触。

 それはまるで、頑なな相馬さんの心の鎧を、私が優しく、しかし強引に解き放っていくメタファーのようではないか!


「いけない、早く戻らなきゃ」


 妄想がよからぬ方向に転がり落ちる前に、私は足を速めた。

 今日の私は、エリンギの伝道師であり、愛の狩人なのだ。


 3


 店に戻ると、時刻は午後五時を回っていた。

 米を研ぎ、味噌汁の出汁を引きながら、主役の準備に取り掛かる。


 ステンレスの調理台の上に、買ってきたばかりのエリンギを並べた。

 美しい。白磁のような白さ。

 まずは石づきを切り落とす。ここだけは包丁の出番だ。許せ。

 さあ、ここからが本番だ。

 私は深呼吸をし、一本のエリンギを手に取った。

 ひんやりとして、しっとりとした手触り。


 傘の裏側に親指を差し込む。

 そこにある「裂け目」の糸口を探る。無理に力を入れてはいけない。エリンギが「こっちだよ」と囁くポイントがあるのだ。

 見つけた。

 私は親指にぐっと力を込め、軸の底へ向かって一気に引き下ろす。


 ――サクゥゥ……ッ。


 指先に伝わる、小気味よい振動。

 耳を澄ませば聞こえる、繊維がほどける微かな音。

 裂けた断面は、まるで降り積もったばかりの雪のように白く、毛羽立っている。

「いいわ……すごくいい」

 私はトランス状態に入っていた。

 半分になったエリンギを、さらに半分に。太いものはさらにその半分に。

 包丁では絶対に出せない、不揃いな形。太い部分はジューシーに、薄い部分はカリカリに焼けるだろう。このコントラストこそが「裂きエリンギ」の真骨頂。


 二パック分のエリンギをすべて裂き終えたとき、私の指先には心地よい疲労感と、きのこの芳醇な香りが染み付いていた。

 山盛りのエリンギを見つめ、私は満足げに頷く。

 これを、強火のフライパンで焼き色がつくまでいじらずに焼き付け、最後にバターと醤油、隠し味に少しの酒とレモン汁。

 完璧だ。相馬さんの胃袋は、今夜、エリンギに征服される。


 時計を見ると、六時半。

 開店の看板を出す時間だ。

 私は一度顔を洗い、化粧を直した。特にチークは念入りに。厨房の熱気でどうせ落ちるけれど、彼が来るその瞬間だけは、一番可愛い私でいたい。


 ガラガラと引き戸を開け、暖簾をかける。

 夜の商店街の空気が流れ込んでくる。

 さあ、来い、相馬さん。

 私のエリンギが、あなたを待っている。


 4


 七時半。

 その時間は、迷うことなく正確にやってきた。

 引き戸が開き、カウベルがカランカランと鳴る。


「こんばんは」


 低く、少し鼻にかかった声。

 相馬さんだ。

 紺色のスーツ。ネクタイは少し緩んでいる。片手には使い込まれたビジネスバッグ。

 いつもの席、カウンターの一番奥、通称「指定席」に彼は腰を下ろした。


「いらっしゃいませ、相馬さん。お疲れ様です」

 私は努めて平静を装い、お冷とおしぼりを出す。心臓はすでに早鐘を打っているというのに、私の声はプロの定食屋の女将のそれだった。

「ああ……今日も疲れた」

 彼は顔をゴシゴシとおしぼりで拭くと、ふぅ、と長い息を吐いた。

「なんとか今週の山場は越えましたよ。実里さんのご飯だけが生きがいです」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 さらりと言うのだ、この人は。それが社交辞令だと分かっていても、私の脳内変換機能は「実里さんが生きがいです」と勝手に編集してしまう。


「そ、それは良かったです。……で、ご注文は?」

 私は手元のメモ帳を構える。

 さあ、言ってくれ。「いつもの」あるいは「おすすめで」と。


 相馬さんは壁のメニュー札をぼんやりと眺めたあと、私に向き直った。

「そうだなあ……今日はなんだか、食欲はあるんだけど、何を食べていいか分からない感じで。……実里さんのおすすめ、お願いしてもいいですか?」


 キタ!

 心の中でガッツポーズをする。


「分かりました。今日は……ちょっといいエリンギが入ったので、食べ応えがあって、でもさっぱり食べられる『エリンギのバター醤油ステーキ定食』にしますね」

「エリンギかあ。いいですね、きのこ好きなんですよ」

 彼は無邪気に笑った。

 勝った。すでに勝負あった。


「少々お待ちくださいね」

 私は厨房に戻り、フライパンに火を入れた。

 熱したフライパンにオリーブオイルを引き、裂きに裂いたエリンギたちを投入する。

 ジュワァァァァァ……!

 威勢のいい音が店内に響き渡る。

 私は菜箸を持ったが、すぐには動かさない。じっと我慢だ。エリンギの表面にこんがりとした焼き色がつくまで、触れてはいけない。ここでいじり回すと水分が出てしまい、あの「キュッ」とした食感が失われてしまう。


 背中で相馬さんの視線を感じる。

 カウンター越しの調理は、一種のショーだ。

 香ばしい香りが立ち上り始めた。今だ。

 私はフライパンを煽る。空中に舞うエリンギたち。焼き目は完璧なキツネ色。

 そこにバターを一欠片。溶け出したバターが泡立ち、エリンギに絡みつく。最後に鍋肌から醤油を回し入れる。


 ジュワッ! ジューーー!

 焦げた醤油とバターの魔性の香りが爆発的に広がり、換気扇の処理能力を超えて客席へとなだれ込む。


「うわ、すごい匂いだ……」

 相馬さんの喉が鳴るのが聞こえた気がした。


 仕上げに黒胡椒を挽き、レモンをひと絞り。青ネギを散らす。

 千切りキャベツを添えた皿に、山盛りのエリンギステーキを盛り付ける。

 完成だ。

 私はお盆にご飯と味噌汁、小鉢、そしてメインの皿を乗せ、カウンターの向こう側へ運んだ。


「お待たせしました。エリンギのバター醤油ステーキです」

「おお……!」


 相馬さんは目を輝かせた。

 だが、次の瞬間、彼は小首を傾げた。


「あれ? これ、エリンギですよね? なんか形が……」


 気づいた。

 そう、単なる輪切りではない。荒々しく裂かれたその姿に。

 ここからが、私の食育……いや、愛の授業の始まりなのだ。



 次回は、明日21:15に更新予定です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月17日 21:15

エリンギは裂くものであって、切るものではない! 夜桜 灯 @yozakura_tomoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画