エリンギは裂くものであって、切るものではない!
夜桜 灯
第1話 繊維の恋、指先の熱
1
午後三時。ランチ営業の慌ただしい喧噪が去り、けだるい西日が店内に差し込むこの時間が、私――
私が店主を務める「キッチン実里」は、商店街の路地裏にひっそりと佇む、カウンター七席、テーブル二つの小さな定食屋だ。メニューは日替わりが中心。私の気まぐれと、その日の安売り食材によって献立が決まる。
だが、ここ数ヶ月、私の献立決定プロセスには、ある重大なノイズが混入していた。
――今夜、あの人は何を食べたいだろうか。
あの人。名を、
年齢は、おそらく私と同じか、二、三歳上だろう。近くのデザイン事務所に勤めているらしく、三ヶ月ほど前から、七時半きっかりに店へ顔を出すようになった。
常に少し疲れた顔をしている。けれど、私が「お疲れ様です」と水を出すと、ふわりと目尻を下げて「ああ、生き返るなあ」と呟くのだ。その、無防備な笑顔の破壊力たるや。
彼はいつも「今日のおすすめで」と注文する。私はその言葉を聞くたびに、料理人としての矜持と、恋する乙女としての媚びへつらいの間で激しく揺れ動くのだった。
「さて……」
私はエプロンの紐を解き、店の裏口を出た。夕方の仕込みの前に、商店街のスーパー「ヤオマサ」へ買い出しに行かねばならない。
今日の相馬さんの顔色はどうだろうか。昨日は少し顔が青白かった。ビタミンB群が必要だ。豚肉? いや、昨日は生姜焼きを出したばかりだ。もっとこう、胃に優しくて、でも噛みごたえがあって、食べた瞬間に「ん?」と目を見開いてくれるような、そんなインパクトのある食材は――。
スーパーの自動ドアをくぐり、冷気と共に野菜コーナーへ足を踏み入れる。
キャベツ、高い。大根、重い。トマト、まだ青い。
目利きモード全開で棚を流し見していた私の足が、きのこコーナーの前でピタリと止まった。
特売のポップが踊っている。
そこに鎮座していたのは、白く、太く、堂々たる風格を漂わせた「森のホタテ」こと、エリンギだった。
「……良い形」
思わず声が漏れた。
私はトレイに手を伸ばす。パックの上からでも分かる、その弾力。軸の太さは親指二本分ほどもある立派なものだ。傘の開き具合も控えめで、鮮度は申し分ない。
エリンギ。
ヒラタケ科の貴公子。癖のない味わいと、アワビにも似た独特の食感。加熱しても目減りせず、和洋中どんな味付けにも染まる懐の深さ。それはまるで、私の理想とする男性像そのものではないか。
「今日は、君に決めたわ」
私はエリンギのパックを二つ、カゴに入れた。
その瞬間、私の脳内にはすでに完成予想図が浮かび上がっていた。エリンギのバター醤油ソテー。シンプルイズベスト。しかし、ただのソテーではない。相馬さんを唸らせるための、究極の調理法で挑むのだ。
――そう、私は「裂く」女だから。
2
ここで、全人類に問いたい。
あなたはエリンギを、包丁で切ってはいないだろうか?
まな板の上に寝かせ、冷徹な金属の刃で、トントントンと輪切りに、あるいは短冊切りにしてはいないだろうか?
もしそうなら、あなたはエリンギの魂を殺しているに等しい。
今すぐその包丁を置き、懺悔室へ行くべきだ。
エリンギという食材の真髄は、あの縦に走る強靭かつ繊細な「繊維」にある。
包丁の刃は、繊維を無慈悲に断ち切る。断面はツルツルになり、舌触りは滑らかになるかもしれないが、同時に味の浸透を拒絶する「壁」を作ってしまう。
だが、手で裂くとどうだ。
自然の摂理に従い、繊維の流れに沿って引き裂かれた断面は、微細な凹凸に満ちている。その無数のささくれが、ソースを、バターを、醤油を、全霊で受け止めるのだ。
そして何より、食感である。
包丁で切ったエリンギが「クニッ」という食感なら、裂いたエリンギは「シャキッ、キュッ、ジュワッ」である。繊維一本一本が口の中で踊り、弾ける。その快楽を知らずして、エリンギを語ることなかれ。
スーパーからの帰り道、私は買い物袋を抱えながら、うっとりと夢想にふけった。
(相馬さん、いつも疲れてるから、今日は噛むことでストレス発散してほしいな……)
想像する。
カウンターに座る相馬さん。出された皿を見て、「お、エリンギですか」と言う。
箸で一本をつまみ上げる。裂かれたエリンギは、野趣あふれる見た目をしている。口に運ぶ。
咀嚼した瞬間、バターの香りと醤油の焦げた匂い、そしてエリンギ自身の持つ甘い汁が口いっぱいに広がる。
『……すごい。なんだろう、この食感。いつも食べてるのと違う』
彼は驚き、私を見るだろう。
『実里さん、これ、どうやって作ったんですか?』
私は少しはにかんで、こう答えるのだ。
『ふふ、秘密です。でも、相馬さんのために、心を込めて一本一本、裂いたんですよ』
「……ぶふっ」
路地裏で一人、私は不気味な笑い声を上げてしまった。
危ない、完全に危ない人だ。だが止まらない。
裂く、という行為には、どこか背徳的な響きがある。普段は包丁を操る料理人が、あえて道具を捨て、素手で食材に向き合う。その野性。プリミティブな衝動。
私の指先がエリンギの肌に触れ、力を込めると、抵抗しながらも素直に身を任せて裂けていくあの感触。
それはまるで、頑なな相馬さんの心の鎧を、私が優しく、しかし強引に解き放っていくメタファーのようではないか!
「いけない、早く戻らなきゃ」
妄想がよからぬ方向に転がり落ちる前に、私は足を速めた。
今日の私は、エリンギの伝道師であり、愛の狩人なのだ。
3
店に戻ると、時刻は午後五時を回っていた。
米を研ぎ、味噌汁の出汁を引きながら、主役の準備に取り掛かる。
ステンレスの調理台の上に、買ってきたばかりのエリンギを並べた。
美しい。白磁のような白さ。
まずは石づきを切り落とす。ここだけは包丁の出番だ。許せ。
さあ、ここからが本番だ。
私は深呼吸をし、一本のエリンギを手に取った。
ひんやりとして、しっとりとした手触り。
傘の裏側に親指を差し込む。
そこにある「裂け目」の糸口を探る。無理に力を入れてはいけない。エリンギが「こっちだよ」と囁くポイントがあるのだ。
見つけた。
私は親指にぐっと力を込め、軸の底へ向かって一気に引き下ろす。
――サクゥゥ……ッ。
指先に伝わる、小気味よい振動。
耳を澄ませば聞こえる、繊維がほどける微かな音。
裂けた断面は、まるで降り積もったばかりの雪のように白く、毛羽立っている。
「いいわ……すごくいい」
私はトランス状態に入っていた。
半分になったエリンギを、さらに半分に。太いものはさらにその半分に。
包丁では絶対に出せない、不揃いな形。太い部分はジューシーに、薄い部分はカリカリに焼けるだろう。このコントラストこそが「裂きエリンギ」の真骨頂。
二パック分のエリンギをすべて裂き終えたとき、私の指先には心地よい疲労感と、きのこの芳醇な香りが染み付いていた。
山盛りのエリンギを見つめ、私は満足げに頷く。
これを、強火のフライパンで焼き色がつくまでいじらずに焼き付け、最後にバターと醤油、隠し味に少しの酒とレモン汁。
完璧だ。相馬さんの胃袋は、今夜、エリンギに征服される。
時計を見ると、六時半。
開店の看板を出す時間だ。
私は一度顔を洗い、化粧を直した。特にチークは念入りに。厨房の熱気でどうせ落ちるけれど、彼が来るその瞬間だけは、一番可愛い私でいたい。
ガラガラと引き戸を開け、暖簾をかける。
夜の商店街の空気が流れ込んでくる。
さあ、来い、相馬さん。
私のエリンギが、あなたを待っている。
4
七時半。
その時間は、迷うことなく正確にやってきた。
引き戸が開き、カウベルがカランカランと鳴る。
「こんばんは」
低く、少し鼻にかかった声。
相馬さんだ。
紺色のスーツ。ネクタイは少し緩んでいる。片手には使い込まれたビジネスバッグ。
いつもの席、カウンターの一番奥、通称「指定席」に彼は腰を下ろした。
「いらっしゃいませ、相馬さん。お疲れ様です」
私は努めて平静を装い、お冷とおしぼりを出す。心臓はすでに早鐘を打っているというのに、私の声はプロの定食屋の女将のそれだった。
「ああ……今日も疲れた」
彼は顔をゴシゴシとおしぼりで拭くと、ふぅ、と長い息を吐いた。
「なんとか今週の山場は越えましたよ。実里さんのご飯だけが生きがいです」
ドクン、と心臓が跳ねた。
さらりと言うのだ、この人は。それが社交辞令だと分かっていても、私の脳内変換機能は「実里さんが生きがいです」と勝手に編集してしまう。
「そ、それは良かったです。……で、ご注文は?」
私は手元のメモ帳を構える。
さあ、言ってくれ。「いつもの」あるいは「おすすめで」と。
相馬さんは壁のメニュー札をぼんやりと眺めたあと、私に向き直った。
「そうだなあ……今日はなんだか、食欲はあるんだけど、何を食べていいか分からない感じで。……実里さんのおすすめ、お願いしてもいいですか?」
キタ!
心の中でガッツポーズをする。
「分かりました。今日は……ちょっといいエリンギが入ったので、食べ応えがあって、でもさっぱり食べられる『エリンギのバター醤油ステーキ定食』にしますね」
「エリンギかあ。いいですね、きのこ好きなんですよ」
彼は無邪気に笑った。
勝った。すでに勝負あった。
「少々お待ちくださいね」
私は厨房に戻り、フライパンに火を入れた。
熱したフライパンにオリーブオイルを引き、裂きに裂いたエリンギたちを投入する。
ジュワァァァァァ……!
威勢のいい音が店内に響き渡る。
私は菜箸を持ったが、すぐには動かさない。じっと我慢だ。エリンギの表面にこんがりとした焼き色がつくまで、触れてはいけない。ここでいじり回すと水分が出てしまい、あの「キュッ」とした食感が失われてしまう。
背中で相馬さんの視線を感じる。
カウンター越しの調理は、一種のショーだ。
香ばしい香りが立ち上り始めた。今だ。
私はフライパンを煽る。空中に舞うエリンギたち。焼き目は完璧なキツネ色。
そこにバターを一欠片。溶け出したバターが泡立ち、エリンギに絡みつく。最後に鍋肌から醤油を回し入れる。
ジュワッ! ジューーー!
焦げた醤油とバターの魔性の香りが爆発的に広がり、換気扇の処理能力を超えて客席へとなだれ込む。
「うわ、すごい匂いだ……」
相馬さんの喉が鳴るのが聞こえた気がした。
仕上げに黒胡椒を挽き、レモンをひと絞り。青ネギを散らす。
千切りキャベツを添えた皿に、山盛りのエリンギステーキを盛り付ける。
完成だ。
私はお盆にご飯と味噌汁、小鉢、そしてメインの皿を乗せ、カウンターの向こう側へ運んだ。
「お待たせしました。エリンギのバター醤油ステーキです」
「おお……!」
相馬さんは目を輝かせた。
だが、次の瞬間、彼は小首を傾げた。
「あれ? これ、エリンギですよね? なんか形が……」
気づいた。
そう、単なる輪切りではない。荒々しく裂かれたその姿に。
ここからが、私の食育……いや、愛の授業の始まりなのだ。
次回は、明日21:15に更新予定です。
次の更新予定
2026年1月17日 21:15
エリンギは裂くものであって、切るものではない! 夜桜 灯 @yozakura_tomoshi
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