寒椿の指先
snowdrop
凍える手に宿るぬくもり
葉牡丹の葉に、雪の名残が光っていた。
松の内が終わる頃。郵便受けを開けると、一枚の年賀状が入っていた。 かじかんだ手で、差出人の名を確かめる。
懐かしい。敬愛する師匠からだった。いまも現役で活躍されているとは、本当に頭が下がる。
葉書を握る自分の手に視線が落ちた。
『手洗い後はこまめにクリームを塗って、ケアせなあかん』
かつての教えが不意に蘇り、冷え切った耳たぶがいっそう痛んだ。
白魚とはいわないまでも、もう少し細かったはずの指先が、今はグローブのように赤黒く腫れ上がっている。ユースキンをいくら塗り込んでも、一向に良くなる気配がない。
しつこい「しもやけ」と仲良くなった原因は、師走も半ばを過ぎた、息つく間もない一日にあった。
年末。U24杯の総評と選評の最終確認を終え、パソコンをシャットダウンした。モニターの光が消えるのを確かめて席を立つ。
時計を見ると、ちょうど午後三時。
階段を降りると、リビングとキッチンがひと続きになった部屋のテーブルで、母が漢字パズルを解いていた。ペン先が紙を擦る音が、曇り空の光の中に静かに響いている。
冷蔵庫を開けると、前日に買っておいた栗蒸し羊羹の包みが見えた。封を切っていない羊羹をまな板に載せた瞬間、インターフォンの呼び出し音が響いた。
壁に取り付けられた小さなモニターには、見慣れたご近所の顔が映っていた。
「はーい」と返事をして玄関へ向かう母の背を目で追いながら、私は古新聞を取りに階段を上がった。
ありがたいことに、ご近所さんからは野菜をよくいただく。とくに物価の高い今冬は、本当に助かる。いただいたときにはお返しを欠かさない。年の瀬は少し改まって渡すため、あらかじめ品を買って用意している。
リビングの隣、仏間に置かれた手提げ袋を玄関へ運ぶ。母が扉を開けたところで、手渡した。
中身を確かめてから外に出て、
「いつもありがとう、助かります。今年もいろいろお世話になりました」
明るい声が扉の向こうから聞こえた。
私は古新聞を広げて床に置き、キッチンへ戻った。シンクのまわりを片付け、すぐに玄関へ引き返す。
畑からの産地直送は新鮮だけど、玄関先に置いたままにはしておけない。とくに年末は誰しも、今年のことは今年のうちに、と考えるもの。他のご近所さんが立て続けて訪ねてくるかもしれない。
「冷える前に終わらせないとね」
私は母と手分けして片付けていく。
軽トラックで運ばれてきた野菜は種類が多く、まだ土がついている。
母が外の水場で泥を落とし、私は洗い終えた野菜を古新聞の上に載せてはシンクへ運び、もう一度水を流して洗い直す。
大根や蕪は葉と根を切り落とし、白菜は根元をそぎ落として水気を拭く。
それぞれ新聞紙で包み、人参は袋に入れる。キャベツは十字に切り、芯の部分を削ぎ落としてラップに包んだ。
包み終えた野菜を冷蔵庫の野菜室にしまうころには、手の感覚が薄れていた。
「水が、つーっめたい」
外から戻った母の震える声が聞こえる。
「よく拭いて、クリーム塗らないとだめだよ」
私は刻んだネギを袋に入れ、冷蔵庫の野菜室と冷凍室に入れた。
「葉ものは全部ゆでてお浸しにするから。里芋はどうする?」
「泥が多いから、私が洗う」
母がシンクの前に立とうとした瞬間、インターフォンが再び鳴った。
「はーい」と答えながら通話ボタンを押し、母はリビングを出ていく。
モニターには、さきほどとは違うご近所さんの顔が映っていた。
玄関に古新聞を置き、私はキッチンに戻って葉ものの洗いに取りかかる。
ほうれん草、小松菜、春菊を二度三度と洗い、土を落とす。
冷たい水が指を包み、感覚が少しずつ遠のいていった。
鍋に湯を張り、ゆで上がった葉をざるに上げる。
続いて大根と蕪の葉も湯がき、油揚げを加えて炒めた。
ひとと通り作り終えて玄関へ向かうと、洗い終えた大根や白菜のそばに、ビニール袋に入ったみかんが置かれている。それらを運び込み、もう一度軽く洗って葉を落とし、一つずつ新聞に包んだ。みかんは取り出して一つずつ拭き、新聞で包んだ大根や白菜と一緒に仏間のテーブルの上に並べた。
気づけば、日はもうすっかり落ちていた。
洗濯物を取り込み、休む間もなく夕食の支度に取りかかる。冬は毎日、具だくさん鍋と決めているので迷うことはない。
野菜を入れた鍋の隣で湯たんぽの湯を沸かすため、やかんに火をかける。
「こんなにたくさんの野菜をいただけるなんて、ありがたいね」
里芋の皮を剥いている母が笑う。
私も手を動かしながらうなずいたとき、三度目のインターフォンが鳴る。
母はモニターを確かめ、「はーい」と返事をして玄関へ向かった。
そんなふうに冷たい水に手を晒し続けた私と母の手は、数日後には赤黒く腫れ上がっていた。
「すっかりお友達ね」
母が苦笑いしながら、ユースキンの黄色いクリームを丁寧に刷り込む。年が明けても、よくなる気配はなかった。
葉書を手にしながらリビングに戻った私は、師匠の教えを思い出した。
『しもやけは血行不良が原因や。クリームを塗るだけやなくて、肩や肘を温めて、血の巡りをようせなあかん』
関西の地で、ひたすら他人の足裏と向き合い、施術を続けたあの日々。指先には無数の体温や鼓動が刻まれていた。人の人生の重みが伝わるたび、自分の中にも確かな熱が生まれていた。
「……あ、そうだ。お母さん」
私は電子レンジで温めたホットパックを取り出し、肌触りを確かめてからタオルに包み、母の肩にそっと当てた。
「しもやけは指先だけの問題じゃないよ。血の流れが悪くなってるから、まずは肩や肘を温めて太い血管を広げてあげたほうがいいの」
「あら、そうなの?」
「うん。元を温めれば、指先までちゃんと熱が届くから」
まぶたのあたりがふっと緩んだ母を見て、口元がほころぶ。
胸を突く郷愁に目を閉じれば、今も鮮明に思い出せる。ブリティッシュグリーンの色彩目立つガラス張りのサロンで、誰かの疲れを指先でほどいていたあの頃。師から教わった「手を慈しむは、人を慈しむこと」は、いまも胸の奥で温もりを帯びている。
私はスマホを手にすると、年賀の返信メールを作っていく。
件名:新年のご挨拶(年賀状のお礼)
師匠 新年あけましておめでとうございます。
ご丁寧な新年のご挨拶をいただき、誠にありがとうございました。
いまなお、第一線で歩み続けられていること、心から尊敬の念を禁じ得ません。その背中は、私にとって変わらぬ道標です。
私事ながら、昨年はカクヨムU24杯で審査員を務めさせていただきました。立場や環境は変わりましたが、慌ただしい日々の中で教えていただいた「セラピストの心」は、どこにいても、何をしていても、私の中から消えることはありません。
寒さはまだしばらく続きます。どうかご自愛のうえ、温かい御手で、これからも多くの人を癒やし続けてください。
本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
スマホの送信ボタンを押す。しばらくして画面が暗くなった。
かつての仲間たちは、それぞれの場所で誰かを支えているだろう。自分もまた、旅の途中にいる。けれど、指先に残る感覚と師匠から受け継いだ心があれば、どこへ行ってもやっていける。確信とともにスマホをポケットにしまい、冬空の広がる窓の向こうへ目を向けた。
寒椿の指先 snowdrop @kasumin
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