第2話 第2話:神田の雨、北へ向かう風
神田の事務所での日々は、静かな針の筵(はむしろ)に座っているようだった。 二十年間、布の目を読み、ミリ単位の誤差を修正してきた私の指先は、キーボードを叩くという単純な作業にどうしても馴染まない。
「美月さん、また入力ミス。これじゃ検算が合わないわよ」 佐藤さんの溜息が、事務所の加湿器の音よりも重く響く。 「すみません……」 謝る声が、自分でも驚くほど小さかった。 デザイナーとして働いていた頃、私はもっと自分の言葉に誇りを持っていたはずだった。今はただ、神田の煤けたビルの中で、自分という存在が摩耗していくのを感じるだけだ。
十一月の末、冷たい雨が神田の街を濡らしていた。 退社間際、支店長に呼ばれた。応接室の空気は、暖房が効きすぎていて息苦しい。
「美月さん。秋田の本社で事務員が怪我をしてね、完治まで人手が足りないんだ。期間は一ヶ月。……君、行ってくれないか、正月前に帰れるよ」
支店長の目は笑っていなかった。 事務スキルが低く、持て余されている私への、事実上の「追い出し」だ。 「嫌なら辞めてもいいんだよ」という言葉が、行間に透けて見えた。
事務所に戻ると、佐藤さんたちがこちらを伺うように見ていた。 (ここで辞めれば、彼女たちの思う通りになる……) 私はぐっと唇を噛み締め、自分のデスクの引き出しをゆっくりと閉めた。
「わかりました。秋田、行かせていただきます」
佐藤さんたちが驚いたように顔を上げた。 美月さん、秋田はもう雪よ。徳島育ちのあなたに耐えられるの? そんな声が聞こえた気がしたが、私はあえて微笑んで見せた。
「雪、見たことがないんです。楽しみです」
それは強がりだった。けれど、この灰色の神田に留まって、自分を嫌いになり続けるより、真っ白な雪の世界に身を投じる方がずっとましだと思えた。
駅へ向かう道で、出先から帰える時拓哉さんが来た、「今日、支店長から、1ケ月秋田本社に行くように言われました」「返事はしたのですか」「はい、行きますと答えました」「それは良かった、秋田は良い所です、私の故郷ですから」拓哉に励まされ笑顔になった。
私は北へと続く線路を想った。 この決断が、私の人生にどんな「朝」を連れてくるのか、この時の私はまだ知る由もなかった。
『神田の空、秋田の風~美月と拓哉の物語~』 花木次郎 @minami-nishi
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