『神田の空、秋田の風~美月と拓哉の物語~』

花木次郎

第1話 針を置いて、神田へ

 二十年使い込んだ裁ちばさみをケースに収める時、指先が微かに震えた。 「美月さん、君の縫製の腕は一級品だ。でも……デザイナーとしてのセンスは、もう今の時代には追いつけないんだよ」 西新宿の狭い事務所。所長の言葉は、静かだが残酷な死刑宣告だった。 四十二歳。独身。人生の半分を捧げた「新新宿スタイル」を退職日は、あっけなく訪れた。 私は何も言い返さなかった。ただ、白くなるほど強く、唇を噛み締めて、二十年分の荷物をまとめた。

 一ヶ月後。私は神田駅のガード下にいた。 新しい職場は、古びた雑居ビルに入る繊維商社。職種は「事務員」だ。 デザイナーとしての再就職は叶わなかった。ポートフォリオを広げるたび、「この年齢で、このセンスでは……」という無言の空気に押し潰された結果だった。

「美月さん、電話! 三番、早く取って!」 事務所に響く、ベテラン事務員・佐藤さんの鋭い声。 「あ、はい……お電話ありがとうございます、株式会社東日本繊維」の 社名を噛みそうになりながら、必死に受話器を握る。二十年間、布の重みと糸の張りに神経を研ぎ澄ませてきた指先にとって、プラスチックの受話器はひどく冷たく、そして軽すぎた。

 神田の事務所は、常に誰かの怒鳴り声と、重い煙草の匂いが漂っている。 パソコンの画面に並ぶ無機質な数字。伝票の山。 「……何やってんの。入力、そこじゃないでしょ」 背後から飛んでくる溜息。私はただ「すみません」と頭を下げるだけの機械になったような気がした。

 昼休み。一人で神田駅近くの古い喫茶店に入り、冷めたコーヒーを啜る。 窓の外には、都会の埃を吸い込んだような灰色の空が広がっている。 (私は、ここで何をしているんだろう……) ふと、店内の鏡に映った自分を見た。 夢に破れ、不慣れな仕事に追われ、すっかり生気を失った女の顔。

 けれど、私はその鏡の中の自分を見つめ返した。 (いいえ、まだ終われない。私は、逆境には強いはずよ) 徳島の田舎を飛び出し、たった一人でこの街を生き抜いてきた自負が、胸の奥で小さな火を灯す。

 事務所に前に着いた時、後ろから来た男性が声をかけてきた。

「貴女が西内さんですか」「はい、西内美月です。」「私は西村拓哉です、秋田本社から昨日、転勤して来ました、仲良くしてください」「有難うございます」何気ない言葉をかけてもらい美月は、胸が熱くなった。

 それから度々声をかけてくれる拓哉さんが心の支えになつた。

 孤独な私の前に、一人の男性が静かに現れたことを喜んだ。

 この時、私はまだ知らなかった。 この灰色の神田の空が、やがて秋田の真っ白な雪へと繋がっていくことを。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る