疲れたので、降りました。
福嶋莉佳
第1話
婚約破棄の理由は、あまりにも些細だった。
「リュシエンヌ。君は、いつも不機嫌そうだ。眉間に皺を寄せてばかりで、場が和まない」
ユリウス王太子は困ったように笑い、彼女の肩を抱き寄せた。
「もっと、可愛く笑ってくれればな。彼女のように」
リュシエンヌは瞬きをして、横に立つ令嬢を見る。
ふわふわのドレスに、砂糖菓子みたいな笑顔のマルティナ伯爵令嬢。
「嬉しいです……わたしを選んでくださるなんて…!」
「ほら、こういう明るさだよ――もっと努力してくれればよかったのに」
ユリウスは満足そうに頷いた。
その光景を見せつけられてもなお、
怒りも悲しみも、湧いてこない。
浮かんだのは、ただ一つ。
(……疲れた)
――それが、長年の婚約の終わりだった。
◆
王宮の廊下を、ふらふらと歩く。
すると背後から、足音が近づいてきた。
王太子の近衛、アデル・グレンフォード。
平民出身で数々の功績により、
数年前に男爵位を与えられた人物だ。
政務の調整や社交の裏方を、
リュシエンヌと分担し、王太子を支え続けてきた。
彼は深く頭を下げる。
「……失礼いたします」
リュシエンヌは足を止めた。
「アデル。……殿下は、あの方と……いつから?」
アデルは一瞬、言葉を探した。
「……昨年の、冬のはじめ頃からです」
淡々とした声だったが、どこか申し訳なさが滲んでいる。
「リュシエンヌ様が……お忙しかった時期です。
政務も式典も増え、社交の調整に追われていた頃……」
「私が……忙しくしていた時に……?」
「殿下は、慰めを求めておられたのだと思います。
簡単に笑い、甘い言葉を返してくれる相手を」
「そう……」
「……これまで殿下がお務めを果たせたのは、
あなたが裏で整えていたからです。
人間関係も、揉め事も……」
「……」
窓に映った自分を見る。
目の下の隈。
張りつめた表情。
(誰のせいでこうなったと思ってるのよ)
今さら怒りが込み上げるが、顔には出さない。
妃候補として、感情を隠す癖だけは身についていた。
「こんな時にも、学んだことが離れないのね」
アデルが何か言いかけた、その前に。
「もういいの」
リュシエンヌは静かに首を振った。
それだけ告げて、彼の前を去った。
◆
数日後、リュシエンヌは夜会に招かれた。
欠席すれば、あらぬ憶測を呼ぶ。
何を言われるかわからない――だからこそ、行かないわけにはいかなかった。
会場に入ると、すぐにアデルが近づいてくる。
「……あなたがいなかったから、準備は大変でした」
「そう……まあ、想像通りね」
「無理をなさらないでください。
周りは、思っている以上に無神経ですから」
「……ありがとう」
そのとき、場を裂くように明るい声が飛んできた。
「リュシエンヌ! 来てくれたんだね」
ユリウス王太子が、新しい連れ――マルティナを伴い、にこにこと近づいてくる。
「君がいなくなって、ほんとうに大変だったよ」
ユリウスは周囲に同意を求めた。
貴族たちは笑って頷く。
マルティナは首を傾げ、甘い声でつけ足す。
「リュシエンヌ様がいらっしゃらなくなってから、
皆さん少し、困っているみたいなんです」
王太子はうんうんと相槌を打った後、
思いついたように口を開いた。
「いっそのこと、君がアデルと結婚したらどうだ?
君の家は公爵家なんだし、
後継ぎにアデルを立てればいいだろう?」
リュシエンヌは、思考が追いつかないまま立ち尽くした。
何を言っているの、この人は。
怒りより先に、眩暈がした。
「え、あの近衛って元平民でしょう?」
「釣り合わないわ」
「公爵家? 冗談でしょう……」
周囲から囁き声が飛び交う。
どの声も、リュシエンヌを削っていった。
味方はいない。
誰も、助けてくれない。
リュシエンヌは、目の端でアデルを見た。
彼は固まったまま、視線で訴えていた。
――断ってください。
「アデル……」
その目を見て、はじめて気づいた。
私を気遣い、
私の心を支えてくれたのは、
この人だけだった。
リュシエンヌは、ゆっくりと息を吸った。
「……お受けします」
ざわめきが走る。
アデルの目が見開かれた。
「よかった!」
ユリウスは満足そうに笑う。
リュシエンヌは、にっこりして続けた。
「ただし、わたくしが嫁ぎます」
「……え?」
間の抜けた声が、いくつも重なった。
周りの人々は、笑顔を浮かべたまま沈黙した。
アデルは言葉を失い、彼女を見つめた。
「本気ですか……?」
「本気よ。……あなたは、嫌?」
一瞬の沈黙のあと、アデルは答えた。
「……いいえ。
私には、過ぎた話です。
それでも――あなたが望むなら」
リュシエンヌは目を細めた。
差し出された彼の手を取り、
その場に残された人々を後にした。
◆
それから彼女は、王都を離れた。
実家のことは、すでに片がついていた。
後継は王命で定められているから、心配はない。
アデルの家に嫁ぎ、地方の小さな領地で暮らす。
華やかさはない。
「それがいいのよ」
紅茶を飲みながら、リュシエンヌは笑った。
「夜会ばっかりで、正直しんどかったもの。もうこりごり」
隣には、アデルがいる。
アデルは近衛を退き、迷うことなく一緒に領地へ来てくれた。
机の端には新聞が置かれていた。
王都から届いたものだ。
見出しには、
『王太子ユリウス失脚』と書かれている。
回らなくなった公務。
噴き出した不正と失策等々……。
リュシエンヌは新聞を畳んだ。
アデルが、こちらを見る。
「……後悔は、ありませんか」
「あるわけないでしょう」
リュシエンヌはカップを持ち上げ、紅茶の香りを吸い込む。
「こうして、誰かと紅茶を味わえる。
それだけで、充分よ」
アデルは、口元を緩めた。
そして、ほんの少し距離を縮めて座り直す。
「……では、これからも」
リュシエンヌは微笑んで、頷いた。
私にはこれで充分だ。
疲れたので、降りました。 福嶋莉佳 @shiu-aruma
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