たくさんの★を本当にありがとうございました。
ひとつひとつの応援が大きな励みになり、ここまで書き続ける力になりました。
感謝の気持ちを込めて、御礼の番外編を公開します。
短い小話ですが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
これからも「シウアルマ」をよろしくお願いいたします。
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【侍女の休息】
白檀の香が、部屋の空気に静かに溶けていた。
香炉から立つ細い煙が、朝の光の中で揺れている。
朝の光が透ける帳の向こうで、セレナは鏡台の前に座っている。
リサは髪を梳き、束ねた髪を指先で整えながら、いつもの癖を思い出す。
――セレナ様は、結い上げの高さが少しでも違うと、鏡越しに首を傾ける。
叱られはしない。けれど、あの小さな角度だけで「違う」と分かる。
「……この位置で、よろしいですか」
リサが問うと、セレナは鏡の中でふっと笑った。
「ええ、申し分ないわ。ありがとう、リサ」
その一言に、胸の奥が少し温かくなる。
帯を締め、袖の皺を伸ばし終えたところで、セレナがさらりと言った。
「今日は午後の予定がないわ。
リサ、少し休んでらっしゃい」
「えっ……ですが、セレナ様」
反射で口にしてから、リサは自分の声音が硬いことに気づく。
主を一人にするのが、怖い。
後宮は静かでも目がある。
セレナは鏡から視線を外し、リサのほうへ向いた。
「あなたも休まないと。最近、目が赤いわよ」
「寝不足ではありません。大丈夫です」
言い訳は弱い。昨夜も灯を落とすのが遅かった。
座の帳面を読むために、文字を追って――気づけば夜更けになっていた。
セレナは柔らかな声で続ける。
「昨夜も、灯を消すのが遅かったでしょう。
偉いけれど……大丈夫な顔の人ほど倒れるのよ」
リサは唇を結び、視線を落とす。
「……字を少し。座の記録を読むのに、必要かと思いまして」
「必要ね。だからこそ、今日は休みなさい」
セレナは扇を畳み、膝に置いた。
「私のほうは書き物を少しするだけ。誰か呼ぶから。
あなたがいなくても、半刻くらいは困らないわ」
その“誰か”が誰なのか、あえて口にしないのがセレナ様らしい。
リサは小さく頭を下げた。
「……では、少しだけ」
◆
小庭の東屋は、午前の陽がやわらかかった。
侍女たちが小さな盆を囲み、薄い茶の香りと焼き菓子の甘さが漂う。
「リサ、珍しい。姫様の側を離れるなんて」
年上の侍女が目を丸くする。
リサは膝の上で指を揃え、声を落とした。
「……セレナ様が、休めと」
「優しい主を持つと、身も心も助かるわねえ」
別の侍女が、羨ましそうに笑った。
「うちはね、朝から“髪が重い”って三回言われたの。
重いのは髪じゃなくて、お気持ちのほうよって喉まで出たわ」
「それ、レイラ様のところでしょう」
「そう! それに衣装替えも三回よ。三回!」
「言ったら首が飛ぶわよ」
くすくすと笑いが起きる。
「アシェラ様のところも大変らしいわよ」
「宴の準備?」
「それもあるけど、楽師の手配とか舞姫とか。
侍女が走り回ってるって」
「娯楽座だからね」
茶を口にしながら、別の侍女が肩をすくめた。
「でも分かる。主の“癖”ってあるよね。
うちの姫様、湯の温度にうるさくて……少しぬるいと、黙って指先だけ水盤に入れて、こっちを見るの」
「それ、アナヒータ様?」
「分かる! 何も言わないのが一番怖い」
リサも思わず頷きかけて、慌てて口を結ぶ。
……セレナ様にも癖はある。けれど、それを笑い話にしていいのか迷う。
そんな時、侍女の一人がふっと話題を変えた。
「それにしてもさ。
新人と古参を組ませるやつ。導入してから、空気変わったよね」
「変わった変わった。新人が泣かなくなった。
ひとりで放り出されないだけで、ぜんぜん違う」
「……でも、当たり外れはあるわよ。
教え方が上手い人に新人が集まって、あの人、ずっと走ってる」
「褒賞が出るのはいいのよ。形で残るの、後宮では強いもの」
「その形がまた揉めるのよねぇ……。
“私も教えてるのに”って顔する人、増えたし」
茶器が小さく鳴り、沈黙が一拍落ちる。
「でも、前より揉め事は減ったわ」
別の侍女が、少し真面目に言った。
「誰が何をするか決まったから。ほんと、やりやすくなった」
「そうよね」
リサは湯気の立つ茶を見つめた。
……セレナ様が提案した制度だ。
口に出せば、自慢に聞こえるかもしれない。
それでも、ほんの少しだけ誇らしかった。
その沈黙を、年上の侍女が悪戯っぽく破った。
「ねえ、リサ。
セレナ様って……弱点とか、ないの? ふふ」
「え……」
「あるでしょ。完璧すぎて、逆に怖いもの」
「いいじゃない、ひとつくらい」
「……ないです」
侍女たちは一斉に「えー」と不満げに笑った。
「つまんない!」
「侍女のくせに、口が堅いのね」
「それ、褒めてるのよ」
笑い声が東屋の天井にふわりと跳ねる。
リサは小さく息を吐き、湯気の向こうを見た。
……セレナ様。私、守りましたよ。
頭に浮かんだのは、夜更けの光景だ。
寝台で、セレナ様がなぜか斜めに転がって、裾を巻き込み――
朝には枕が床に落ちていた。
寝相がすごい、だなんて。
後宮で口にした瞬間、どんな形で広がるか分かったものではない。
リサは湯呑みを口に運ぶ。
茶の温度は、ちょうどよかった。
――セレナ様が好む温度だった。