32 - ネバーランド -

藍詩

32 - ネバーランド -


――――あーあーあーあー


ザーと音を立てて進むフェリーのすぐ傍を旋回する海猫。

甲板の手すりに身体を預けた僕の視界の中を落ち着きなく通り過ぎては、思い出したような鳴き声を上げる。ディーゼルエンジンの振動。偶に重なって、それぞれがリズムを取っている様に妄想する。――いち、にー、さん、しっ


「っつー……さっぶ」


風が吹いて、キュウと身を縮ませる。

めったにこういうものに乗らないからと景色を見に甲板に出て来たはいいものの、気温と相まった海上の風が細かく突き刺さるようで直ぐに体が震えてきた。

どうやら席のある船内は意外としっかり暖房が効いていたようだ。


船尾の方向へ目を向ければ、乗船した港は荒い画像のドットのように白いピクセルとなって、薄っぺらくなった陸地に張り付いている。


――――あーあーあーあー


また海猫が鳴いた。

白いパイプのような冷たい柵に、ダウンの袖を挟んでもたれかかる。

雲の少ない午後の空に何羽かの海猫が代わる代わる現れる。


――――あーあーあーあー


トン、トン、トン、トン。と、人差し指でリズムを取りながらそれを眺める。


子供の時分、駆け回った小さな島。思い起こされる風景には、どことない興奮と活気の手触りが浸み込んでいる。


「ゆ、う、やーけ……こやけ、えの」


波音にかき消されるような小さな鼻歌。

今日行った保育園で、子供たちが歌ってくれた歌だ。


縁あって毎年一回か二回、ピアノの調律でお邪魔する保育園。

そこではいつも、整えたてのピアノの音を確かめる体で、子供たちが習っている合唱の曲を弾かせてもらっている。

今年は、『赤とんぼ』だった。


――――ソ、ド、ド


弾き始めると、ピアノの周りに集まった子供たちも一斉に歌い出す。

皆こちらを囲うように並んで歌うので、甲高くて可愛らしい歌声が包み込むように耳いっぱいに広がる。


――――ゆうやーけこやけぇのあかとーんーぼー

おわれーてみたのぉわぁいつのぉひぃかー


一生懸命に楽しそうに歌う子、眉間にしわを寄せて口を大きく開けて歌う子、恥ずかしそうに後ろ手に手を組みながらふらふらと歌う子……。

毎年、あの風景に元気をもらう。

つい何時間か前の出来事だったろうに、先ほどまで思い出していた故郷と同じような色をした景色を反芻して、一瞬寒さを忘れ、口角が緩む。


――――ギュギュ


庇になっているシートの結合部が、風に煽られて、ゴムの擦れる嫌な音を立てた。


プールサイドのようなザラザラとした床の質感。

何歩か毎にザっとつま先を引っ掻けながら、硝子のスライドドアを開き、船内に入って、暖房設備に感謝しながら飲みかけのお茶に口を付ける。

人もまばらな座席の先頭の方には、学校にあるような備え付けの時計が設置されている。まだ到着には時間が掛かりそうだ。


スマホで今日の宿を確認する。

今回の帰省の目的は、ずいぶん前に空き家にしたままの祖父母が使っていた家の様子を見に行く事だ。例年両親がこの時期に掃除しに行っていたが、父は繁忙期が動いて仕事、母もぎっくり腰をやって、それならばと今年は僕が引き受ける事にした。


母からのメッセージには、圧縮袋に入れた羽毛布団が仕舞ってある場所や、灯油とガソリンの購入場所、発電機の動かし方などが書かれている。

それから、「床、窓、庭……」のようにいつも掃除している場所とその手順なんかも。

読むほどに、重労働をやらせていたなぁと眉が寄ってくる。


――――「しっかりした建物だから、ストーブが効けばちゃんと温かいよ。たまに換気して使いなさいね」


追加で送られてきていたメッセージに返事をして、スマホを置く。

着ていたジャケットを脱いでひざ掛けにし、ぼんやりフェリーの駆動音と籠った波の音を聞きながら目を閉じる。

次第にうつらうつらとして、自分の呼吸の音が段々と大きく、その他が遠のいていく――




ふっと目が覚めて、控えめに伸びをする。


――――カコン


時計の短針が大仰な音を立てて動いた。


うっすらと開けた目に入る光は先ほどよりも幾分か落ち着いて、徐々に赤みがかってきているようだ。

座ったまま寝たので、身体はどんより温かく、空調を効かせる為に密閉した空気がほのかに気怠かった。

スマホを見ると、


――――「着くの夕方頃でしょう。気を付けなさいね」


と母から連絡が入っていた。

「幾つだと思って……」と少し可笑しかった。


席を立って、外の空気を吸いに扉を開けると、やはり激しい寒さが風に乗って頬を刺す。

それでも、温んだ身体には幾分か心地よく感じられた。


――――グゥー。ギュ


不意にこのゴムの音を聞くと、油性マジックの擦れる音を聞いた時のようにウゥと鳥肌が立つ。

甲板まで戻ってきて辺りを見渡すと、もう本州は見えなくなっていて、気付かない内に水平線を越えたんだなと妙に感慨深く思える。

ふらっと移動した船首の先、刻刻と浮かび上がる故郷の輪郭を捉えると、なんだか懐かしいような、不安感に似た高揚で浮足立つようにふぅと息を漏らした。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


ゴゥンゴゥンと音を立てて、船の速度が緩んでいく。


――――お客様にご案内申し上げます。本船は間もなく着岸いたします。


雑音が多く聞き取りづらい音声アナウンスがそれを知らせて、窓の外に見える景色の流れも徐々に緩くなっていって、ゆらゆらと船が波止場に到着する。


上着を着なおしてリュックを背負い、キャリーケースの取手を伸ばし、窓を眺めて待機する。


――――お車、二輪車のお客様、歯止めの取り外し作業に少々お時間を頂きますので、お席でしばらくお待ちください。それ以外のお客様は前方デッキ側のお出口からご下船をお願いします。


慣れた人々の流れに追従して通路を歩き、キャリーケースを庇いながらスロープを下る。


降り立ったコンクリートの波止場で思い切り伸びをすると、吸い込んだ空気は、潮と土の匂いでいっぱいで、寒すぎて直ぐに鼻の奥がツンとした。


視線の先には特段大きくもない鬱蒼とした山。道路を挟んだ向かいにはすぐにトタン屋根のガレージとそこに駐車された軽トラック、平屋の古ぼけた民家。

観光地でも何でもない田舎の島。

フェリーを利用するのは、殆どが本州にある中学校に通う子供か、たまの買い物に出かける島民だけで、キャリーケースを転がしているのは僕くらいのものだ。


海を振り返ってみれば、もう空は随分と赤らんで、水面に太陽がまん丸く浮いている。


僕がこのフェリーを使っていたころ、迎えに来た母が歌っていた鼻歌を思い出す。

きらきら星をドレミで歌う母は軽やかで、柔らかい声で「おかえり」と微笑んでくれた。


ふと、フェリーから来る人の流れの中に、ブレザーを着た男の子の姿が見えた。


――この時間? あ、部活やってないのか


「わーどこ中のだっけあれ……」なんて考えて、ふと自分の通っていた小学校を見てみたくなった。

一度家に帰れば真っ暗になってしまうだろうし、ついでに商店を見て、通学路を辿りながら帰って……


「よし」


午前中までの仕事と長距離の移動で多少疲れは感じたが、「よし」と呟いて、波止場の荒れたコンクリートから、踏み固められた土の道に歩き出した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


車道より一段上がった歩道の、分厚い石の溝蓋にキャリーケースのタイヤを取られながら、道路沿いの軒先に無防備に干し並べられた衣類や干物を眺めて歩いていく。


――――サパーン。シャー


堤防の先からは、浜に波が打ち寄せる音が聞こえている。軽い音は、引き潮の音。満潮の時はもっと近くで聞こえるんだよなと思い出をなぞる。


緩く曲がった一本道をしばらくすると、商店が見えて来た。

日用雑貨から駄菓子なんかも置いてあるここか、自動販売機くらいだ。灯油やガソリンもここに買いに来る。

店先には、季節外れの浮き輪が日焼けしたままに飾られていたり、電池で動くクマのぬいぐるみが座らされていたり、古めかしい映画のポスターが張りっぱなしになっていたり、なんとも雰囲気のある店だ。


そろそろ目の前まで来たという時、何時ごろまで開けているかなとふと気になって、立ち寄っておくことにした。この寒い中、一晩でもストーブを使えないのは非常事態だ。

シャッターが解放された店の中にはアルミホイルの塊がいくつか乗った白いだるまストーブが焚かれていて、幾分か温かい。

店内には誰もいなくて、玉暖簾の掛かった上がり端に向かって声を掛ける。


「すいませーん」


すると少しして、建物の奥の方から「はーい」という小さな返事が聞こえ、襖の開く音がした。恐らくはテレビ番組のがやがやとした音声が漏れ聞こえてくる。

スタスタと足音が近づいてきて、上品な老齢の女性が暖簾の間から顔を出した。


「あら、いらっしゃい」

「あぇ、お久しぶりです」

「へ? 」


素っ頓狂な声が出た。随分と皴が増えたように思うが、僕が通っていた時からこの商店をやっていたおばあさんだった。

亡くなっているとまでは思わなかったが、考えるともなく代変わりしているんだろうくらいに思っていて、少し驚いた。

おばあさんの方も目を丸くして、なんなら少し怪訝な表情すら浮かべてこちらを見ている。


「あの、あ、僕、小さい頃よくここに来てて」

「へ? あーちょっと待ってちょうだい」


上がり端のすぐ横にある棚から老眼鏡を取り、それを掛けてまたまじまじとこちらを見る。


「あら? ××ちゃん? 」

「え! 覚えてくれてるんですか? 」

「何言ってるのよ忘れるわけないじゃないの。××さんとこの、ね? 」

「あ、はい! そうです」

「子供は島の宝物よ。でも、そう……大きくなったわねぇ……」

「あはは」

「それで、どうしたのよ」

「あ、それがその……」


おばあさんは驚いたことに僕を覚えていたようで、帰省の事情を話すと、「あらそう、感心したわぁ。立派ね」と嬉しそうに色々と質問を投げかけられた。

幾つになったか、何の仕事をしてるのか、結婚は? などと聞かれて、親戚付き合いのない僕にはとても新鮮な時間だった。

「灯油とガソリンが欲しくて……」と営業時間を聞くと、「私が寝ちゃう前に買いにおいで」と言われて思わず笑ってしまった。


「小学校って、僕らの時からもう一クラス分くらいしかいませんでしたよねぇ」

「あら、そうよ、今も昔もずっとそう」

「え、じゃあまだあの小学校あるんですか? 」

「そうよぉ、決まってるじゃないの」

「へぇー。あ、そうなんだ。じゃあまだ子供たちは駄菓子買いに来るんですね」

「来るわよぉ。まあでも私も年だからねぇ、いつまで続けられるかわからないけれど」

「えぇ、ここ無くなったら島の人たちみんな困っちゃいますよね」

「うぅん……そうねぇ」


昔話に花が咲いて、一通り笑ったり、ストーブに焼べてあった焼き芋をもらったりした。


――――チリンチリンチリンチリン


すると突然、遠くから自転車のベルを無茶苦茶に鳴らす音が聞こえだした。


――――わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!


それに重ねて、男性の叫び声が聞こえた。

しかもそれは、どうやらこちらに近づいてきているようだった。


――――わぁぁぁぁぁぁぁぁぁチリンチリンチリンぁぁぁぁぁぁチリンチリンぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁチリンチリンチわリンぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!


僕はこの声に聞き覚えがあった。

どんどん、どんどんと近づいて来る。

ストーブの傍に用意してくれた木製の丸椅子に座ったまま、商店の目の前の道路から目が離せなくなる。


――――チリンチリンチリンわぁぁチリンぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁチリンチリンチリンぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁチリンチリンチリンチリンぁぁぁぁぁぁ!


ぬぅと視界を通り過ぎたのは、赤い幟を荷台に括り付けたかご付きの自転車を立ち漕ぎする全身緑色に身を包んだ年配の男性だった。


それが通り過ぎて、声が遠ざかっていく間、ただ固まって商店の出入り口から目が離せなくなって、声が随分小さくなった頃、やっと口を開く事が出来た。


「……あの」

「気にしちゃいけないよ。聞こえない、聞こえない」


おばあさんは僕が何かを言おうとするよりも前に、寧ろそれを制するかのようにそういった。

そうだった。確かに、あの頃から、あのおじさんはそういう扱いだった。

この人は、僕が幼いころからいた、この島の“あぁいう人”。

僕の記憶よりもえらく老け込んでいるが、あの頃と全く同じ行動を取っている。

煩いし恐ろしいが、ただそこに在る人。

触らぬ神に……という言葉もあるが、放っておけば今のようにいずれ何処かへ去って行く筈。少なくとも子供の僕らにとってはそういう存在だった。


「びっくり、しました。あはは。あの、それじゃ、暗くなる前に出ますね。あの、後でまた買いに来ます」

「うん。はいはい。それじゃあ気を付けていくんだよ」

「ありがとうございます」

「いいかい。聞こえない、聞こえないだよ。大人なんだからね」

「はい。そうですね。ありがとうございます」


商店を出て、バクバクと胸を打つ心臓の音を聞きながら、僕は何回か深呼吸をして、また歩き出した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


小学校方面へ向けて、島の外周を囲う道路から逸れる。

両脇に葉のない桜の植わったこの道は、車で送り迎えをしてもらう時に通った道だ。

大きな車は入るのを躊躇するような狭い登り坂。

海側の木々の隙間からオレンジ色に染まった日光が眩しいほど差し込んで、反対側の擁壁にまだら模様を作っている。


商店の通りよりも、更に少しだけ遠退いた波の音を聞きながら枯葉を踏んで歩いていると、やっと先ほどの緊張や驚きが落ち着いてきた。


「はぁ……あー、怖かった」


吐く息に乗せて呟いた。


山の地形に沿ったカーブを道なりに登っていくと、校舎正面に夕陽を一杯に受けた小学校の姿が見えて来た。

補修くらいはされているのだろう。特に古めかしくなった感じはしない。寧ろ記憶のままのようにすら思う。

ただ、思い出の中よりもずっと小さな建物に見えた。


――――タン、タン、タン


見るだけ見て、グラウンドを囲う柵に指の腹を当てながら、植木沿いに通り過ぎていく。すると、集団登校で通った通学路に入る。

何もない、車と小学生が通るだけの道だが、少し登ってきた関係で、植木の奥に見える景色は中々に美しい。

砂浜の先に細かく波を作る海は、ちらちらと夕日を反射させ、そのさらに奥に見える太陽は水平線に触れて輝いている。


わき見しながら歩いていると、正面に石の階段が現れた。

道なりにカーブを辿って行けば、さらにこの山の上へと向かっていくのだが、この石段を下りた先には八幡さんの社がある。

それなりに急な階段を、手すりを頼りに下って鳥居をくぐり、参道に入ってすぐ脇に砂利の敷かれた公園がある。ここを突っ切れば近道なのだ。


公園には、いつから置いてあるのだろうという褪せた簡易トイレと、遊ぶのも憚られるほど錆び付いた滑り台。同じく錆びの付いたブランコと鉄棒が設置されている。

簡素な場所だが、それでも、幾度となく遊んだ公園だ。

公園の隅にはひと際立派な桜が植えられていて、春にはここで花見をしたこともある。


がりがりと砂利を引きずりながら、公園敷地の中ほどまで来たところで、道路の向こうの民家に水色の乗用車が入ってきた。


――――ピー、ピー、ピー、ピー


駐車スペースを少し過ぎて、切り返し、狭いスペースに綺麗に駐車している。

運転席に人影があるのは分かるが、こちらからは光の反射で、運転手の顔までは見えない。


車のエンジンが切れ、ガチャっと中からウィンドブレイカーを着た男性が降りてくる。

バタンと扉を閉めながら、男性はこちらに顔を向けている。

きっと不審がっているのだろう。こんな場所でキャリーケースを引く人間など普段ならあり得ない。


「こんにちは」


僕は言い訳がましく挨拶をした。


「あ、こんにちはー」


挨拶を返してくれ、夕陽に照らされた表情は不信感を隠さないものから幾分か和らいで、少しほっとした。

そのまま通り過ぎようと歩みを進めると


「あれ? ××くん? 」


と名前を呼ばれ、立ち止まった。


「え、あ、はい」

「あ、ほんとに? 」

「はい、××です」

「あーほんとぉ……俺、ほら、×××の親父」

「あ、え、え? うわーお久しぶりです」

「えーなんでぇ、帰ってきたの? 」

「あいや、実は……」


男性は、中学校まで一緒だった同級生の父親だった。

大昔の話しで、ここが友人の家だったことはすっかり忘れてしまっていた。

帰省の事情を話して、また感心され、その後は商店で話したような内容とほとんど同じような会話をしたが、「立派になって」「大人になったねぇ」などと褒めてもらえるのが何となく誇らしくもあって、悪い気分はしなかった。


質問攻めの後は、同級生が今何をしているのかなど、少しの間話し込んだ頃、何処からか、ツツツとザッピングに似た音が聞こえた気がした。

続けて、音楽が鳴り始めた。

音源も荒ければスピーカーも古い、そんなピアノの音。


何ともなしに音の出所を探し、キョロキョロとするうち、何となく目がいった坂道の下から、ランドセルを背負った小学生がこちらへ歩いて来る。


「こんにちわ! 」


そうか、チャイムだ。指一本でドレミを追いながらゆっくりと弾いているような『赤とんぼ』。この島の夕方のチャイム――


「お。おかえり。早く帰んなさい」

「はぁーい」


元気に間延びした返事をして、その子は坂道を上へと登って行った。

照りのあるランドセルが柔らかい陽を反射させた、「よいしょ、よいしょ」と効果音を付けたくなるような後ろ姿を見ながら、田舎はいいなぁとため息が鼻から抜けた。


「はぁ、いいですね、子供、挨拶してくれて」

「あぁ、そうだな。東京の方じゃそうはいかないか」

「はい。僕いま、調律師の仕事してるって言ったじゃないですか」

「お? あぁ」

「今日も午前中は仕事に行ってたんです。お得意さんというか、贔屓にしてくれてる保育園があって、調律が終わると、試し弾きに、子供たちにいまなんのお歌練習してるの? って聞いて、弾かせてもらうんですよ」

「……」

「今日弾いたのも『赤とんぼ』で、みんな元気いっぱい歌うんです。山田耕作先生が手掛けた、三十一音の音の詩。懐かしくて……なんか……あ、すみません」


赤く染まる夕焼けの中で、チャイムの演奏が名残惜しいような最後の一音を響かせている。

自分が捲し立てるように語っている事に急に気が付いて、恥ずかしくなり、同級生の父親の顔を見た。


僕は一瞬その表情が理解できなかった。

彼は、顔を引きつらせて、眉毛を深く寄せて、今にも泣き出しそうな、歪み切った表情でまっすぐ僕を見ていた。


「へ……すいません。あの」


――――ポロン


突然、踏み外したような不協和音が鳴り響いた。

瞬間、不思議と背中から首筋にかけてサーっと鳥肌が立った。




真後ろで大きな音がして、ビクッと振り返ると、真っ赤な幟を付けたママチャリが道路に倒れている。そのすぐ傍で、緑色のおじさんが立ちすくんでいた。


緑色の全身タイツを着て深緑色のテンガロンハットを被り、ぼろぼろの茶色いハイカットブーツを履いた、年配の男性。


グゥーと口角を釣り上げて、満面の笑みを湛えている……。

その顔が赤に染まるように照らされていて、糸のように細めた目は、白目と黒目の区別がつかない。


――――ザ


一歩、おじさんがこちらに踏み出した。

続けて、こともなげにこちらへ歩み寄ってくる。


僕は気持ち悪くて、何かが込み上げてきて、せりあがってきて、吐きそうになって……。


目の前まで来たおじさんは、チャックが開けっぱなしになったウェストポーチに手を突っ込んで、ゴソゴソと中を探っている。


だんだんと、木々が、アスファルトが紅く、あかくなっていく景色の中で、

目の前のこうけいに目がはなせない。


しかいがぐにゃぐにゃと赤にまみれて、たっていられなくなったぼくに、


おじさんはたんさんでんちをさしだしてくれた。

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