第9話
彼は包丁を自分の喉元に深く突き刺した。
血痕が畳に広がる速度が異常に遅い。
救急車を呼ぼうと伸ばした腕が虚しく空を切る。
「待って!まだ早いよ!」
叫んでも届かない。
代わりに彼の半透明な姿が現れ、自分の手を握る。
冷たさと熱さが同居する不思議な感覚だ。
仏壇の扉がひとりでに開き中から小さな位牌が転がり出て、床に当たってコトンと鳴った。
「お父さん」
呼びかけると、生前の姿より若返った父親が微笑む。
押入れの衣装ケースから浴衣が飛び出し、空中でひらひら舞い、祭りの夜の懐かしい匂いが漂ってくる錯覚を覚える。
「ごめんね、心配ばっかりかけて」
謝ると、首を横に振られる。玄関の呼び鈴が鳴り、配達員の声が聞こえる。現実と幻想の境界が曖昧になっていく。
「お母さんに会いに行こうか」
握った手の感触が薄れては蘇る。
雨上がりの湿気が肌にまとわりつく。
「わかった」
答えながら靴紐を結ぶ手が震える。
門柱の郵便受けに差さった不在通知票が風に翻る。
「お父さん肩車して」
言い終わらないうちに、彼の輪郭がさらに薄くなる。
押入れの奥から取り出した旅行カバンには、中学時代の修学旅行のしおりが挟まっていた。
目的地の項目に丸印が付けられている。
目的地は《おばあちゃんち》田んぼに囲まれた田舎で私が旅にでたお母さんの居る家だ。
バス停までの道順を思い出す。
曲がり角に立つ桜の木が目印だ。
玄関の鍵をかける際、ドアノブに残った彼の指紋がくっきり見える。消えかけた指がそっと撫でる仕草をした。蝉の抜け殻がコンクリートの上でカラカラ回る。
夏の終わりを告げるように。
孤独な冒険 早乙女 @marunokatsuo
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