第8話
「いかないで...」
彼は子供のように鼻水を垂らしながら涙で頬を濡らし私の身体を力強く抱きしめる。
彼が背中に回した手が震えている。
シャツの生地越しに伝わる体温が、なぜか懐かしい感触だ。
「私、ずっとここにいたいよ...」
本音が漏れる。
仏間の灯籠が揺らめき、壁に揺れる影が二つ重なった。
ふと押し入れの奥に隠された小さな箱を見つける。中には使いかけのノートと鉛筆が入っている。
表紙には「サナエの秘密基地」と書かれている。
ページをめくると、意味不明な落書きの合間に
「パパだいすき」
と何度も繰り返し書かれている。
鉛筆の芯が折れたまま放置されている。彼の嗚咽が耳元で波打つ。
「お願いだから」
絞り出すような彼の声に胸が痛む。窓辺に止まった赤とんぼが羽根を震わせている。夕焼け空の茜色が室内を染め始めた。終わりが来る予感が、部屋の空気を重くしていく。
「俺も連れて行ってくれ....」
彼の言葉が耳朶に刺さる。
仏壇の蝋燭が長く伸びた炎を揺らしている。
「一緒に行く方法があったらいいのに」
呟くと、自分の声が他人のもののように聞こえる。
押し入れの奥から引っ張り出したリュックサックには、小学校時代の給食帽子が丸めて詰め込まれている。
帽子のゴムバンドが劣化して千切れそうだ。
ふと鏡台に目をやると、背後にぼんやり映る父親の輪郭が透けている。指先で触れると冷たいガラスの感触しかない。
「もうダメなんだ...」
理解していても受け入れがたい現実が重い。廊下の電球がちらつき始めた。
停電の前兆か、それとも別の何かか。
オルゴールのネジがひとりでに回りだし、途切れがちな音色が流れる。
彼の肩に置いた手のひらで私の存在が徐々に希薄化していくのを感じる。
彼は突然立ち上がり台所へと走り料理用の包丁を手に私の元まで走って戻り、包丁を自分の首へと向けた。
刃先が皮膚に触れる寸前で止まる。冷や汗が背筋を伝う。
「やめて!」
叫ぶ声が裏返る。
流し台に置かれた包丁の柄に、トマトの汁の染みが付いている。日常の痕跡がなぜか痛々しい。
「私のためにそんなことしちゃダメ」
駆け寄って手首を掴むと、彼の脈拍が異常に速い。
冷蔵庫のドアに貼ったマグネットが次々と落下する。
猫の形をした磁石がコロコロと転がり、棚の陰に隠れた。押入れの襖が風もないのにガタリと音を立てる。
「お母さんに怒られちゃうよ」
宥める口調で言うと、彼の目尻に新しい涙が浮かぶ。
窓の外で雷光が一瞬走り、雨粒がガラスを叩き始めた。
雨戸を閉めるべきか迷うが、足が動かない。この瞬間を少しでも引き延ばしたくて。
「父さんも...母さんに会いたいよ...」
雨音が激しさを増す。雨漏りのシミが天井に広がり始めた。
「お母さんはね」
話し出そうとして詰まる。
仏壇の位牌が微かに傾いているのに気づく。
倒れれば割れてしまいそうな危うさだ。
押入れの奥から古いアルバムがはみ出している。
開くと、母親らしき人物の笑顔が切り取られている。背景に写り込んだ看板の店名──「写真館サナ」とある。
偶然にしては出来すぎた符合だ。
冷蔵庫の側面に貼られたメモ用紙に
「母さんの誕生日」と走り書きしてある。
日付は今日から数えて三日後だ。
「約束しようか」
提案する声が震える。
「絶対にまた会いに来るから」
嘘かもしれないが、彼の安堵した表情を見たかった。雨戸の隙間から稲妻が走り、一瞬部屋全体が青白く照らされた。
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