第二話 幼馴染

「おぉー似合っとる」


 リビングに、明るい兄の声が響く。幼児用の道着に、ジャージ袴と呼ばれる簡易な袴を身につけた僕は、着慣れない袴を引き摺って、全身鏡の前に立つ。


「うわぁ……!」


 初めて剣道着を身にまとった僕は嬉しくて、思わず感嘆の溜息が出た。稽古がない日でもクローゼットから引っ張り出しては着ていたらしく、家でのそんな写真が何枚も残っている。


 こうして、僕と剣道の稽古が始まった。

 四歳で始めた僕は、基本的な礼儀作法や、遊びを交えて身体を動かしたりする中で、少しずつ剣道というものを知っていった。


 剣道を始めたからと言って劇的に僕の体調に変化が現れるなんてことはなかったけれど、外で思いっきり遊ぶことが少なかった僕には、とても良い刺激になっていたと思う。

 剣道の稽古が楽しみで、家でも兄に「剣道ごっこ」をして遊んでもらったり、時折思い出したかのように「あと何回ねたら、けいこ?」と兄に聞きまくっていたらしい。いつも僕の相手をしてくれる兄の手はすごく大きくて、強そうに見えたのが、今でも印象に残っている。


 そうしてその間も短い入退院を繰り返しながら、僕は小学生になる。

 小学生に上がってからは週三回、剣道の稽古に通っていた。そんな一年生になって一カ月ほどたった、学校でのことだ。


「あきらくん、剣道やりよるん?」


 話しかけるのは、僕より頭一つ分は大きな同級生――越前えちぜんつかさくん。運動神経もよく、クラスでも明るく誰とでも友達になれるような司くんは、いつも休憩時間は外に遊びに行ってしまうタイプで、室内で過ごす僕はあまり一緒に遊んだことがなかった。そんな太陽みたいな彼が、興味津々な目で僕を見ている。


「うん。やっとるよ」

「剣道、かっこえぇよな。どこに通いよるん?」

「学校の近くだよ。歯医者さんのところ」

「あぁーあっこあそこかぁ」


 すぐに場所がわかったらしい司くんはパッと顔を輝かせると、身を乗り出してきた。


「おれさ、剣道やりたいと思ってて」

「おぉっ」

「剣道、どう?」

「たのしいよ」


 大好きな剣道の事を聞かれてつい笑顔で話すと、司くんもつられたようににかっと笑う。


「へぇ……!」

「つかさくんも、一緒にやろう」

「やりたい……! 母ちゃんに話してみる」


 司くんが道場にやってきたのはそれからすぐのことで、一年生のゴールデンウィークが明けて少しした頃だった。

 司くんは、持ち前の明るさですぐに道場にも馴染んで行った。最初は防具をつけずに基本的な作法などから始めるも、挨拶や練習の時の声も上級生たちに負けないくらい大きく、同級生の中でもひときわ背が高くて運動神経も良かった司くんは飲み込みも早くて、先生にも筋が良いと褒められていた。

 ただ、正座は足が痺れると言って毎回逃げ出そうとするたびに、先生にじっと見られていたのが少し、可笑しかった。



 司くんが通い始めてから梅雨のじめじめした日が過ぎて、夏の蒸し暑い中での練習に終わりが見えてきた、秋のはじめのある日のことだ。 


「今日からおれも面つけて稽古だって!」


 嬉しそうに話す司くんの言葉に、一緒に嬉しくなる僕。

 そんな、彼の面をつけての打ち込み稽古は生き生きとしていて、すごく、楽しそうだった。同時に、同学年でありながらもその力強さに圧倒された僕は、純粋にすごいと思った。


 ぼくは、あんなふうにできているかな。


 人と比べるのは、よくない。だけど純粋に、いいなぁと思った。

 羨ましい、というよりは、かっこいい、という思いに近い。

 

 ぼくも、司くんみたいにがんばりたい……!


 同年代の司くんの存在は、僕の何かに火を点ける。

 勿論、兄もかっこいい。この時兄は小学五年生で、地域の小学生大会では準々決勝まで進んでいた。追いつこうと思っても遥か彼方をいく豆粒のように、その背中は遠かった。


 その大きな手も、豆ができては潰れ、さらに分厚くなっていた。


 兄ちゃんもすごい。司くんもすごい。みんな……すごい。だけど、思うだけじゃ、憧れてるだけじゃだめだ。


 僕は稽古から帰ると、テーブルに紙を広げ、マジックを走らせる。宿題の前に、いつも基礎練習でやっているような練習をする自分ルールを決めたのだ。リビングの見えるところに、「まいにち、けんどうのれんしゅう!」と、へたくそな字で書いた紙を張り付けて。やらなかったら、大好きなおやつを一つ減らすと決めた。


 その紙を見た兄は「こういうことをした方がええと思う」と、具体的な回数や内容のアドバイスをくれ、母は「無理はせんでね」と心配そうにしていた。が、次の稽古の時には自主練の内容を一緒に先生と相談してくれて、「無理ない範囲でやるんよ」と僕を応援してくれた。


 そうして具体的な練習メニューを、昨日の紙に書き足した。兄がくれたアドバイスが先生に聞いた内容とほぼ同じで、僕はまた「兄ちゃん、すごい」と思った。

 幸いにも大きく体調を崩すこともなく、僕は毎日続けた。おやつが懸かっているから必死だった……ということもあるけれど、純粋に「強くなりたい」という気持ちが、僕を突き動かした。


 そんな風にして、なんとなく気乗りしない日も、帰ってすぐにテレビを見たい気分の時も、ちゃんと気持ちを整えるところから……がんばって、自主練をした。

 稽古の日も、とにかく一つ一つを丁寧に、だけど全力でやることを心掛けた。


 今までだって、決して頑張っていなかったわけじゃない。それに、他にも同級生はいたけれど、僕の意識が変わるほどに、司くんの存在は大きかった。

 


 そして……秋も深まり、道場の床がひんやりと足を伝い始めたころの、打ち込み稽古の時の事だった。


「メェーーーンッッッ……っ、」


 手の中で何かが感覚がした。僕は痛みに顔を顰めながら小手を外し、自分の手のひらを見る。


「マメがつぶれとる……」


 左手の、小指の付け根。マメができていた部分の薄い皮がぺろりと剥けている。ジンとした痛みに、僕ははっとする。それは前に兄ちゃんが僕に見せた手のひらと、同じ場所にあった。

 あの時兄は『頑張っとる証の手じゃぁ~』と言って、笑っていた。

 

 ……「なんだって、できる」。同時に、兄のその言葉が胸に蘇る。


 痛い。だけど、この時の僕はそれ以上に、嬉しかった。


「晃どうした? おぉ、マメが潰れたんか」


 先生の声が降ってくる。先生は「晃も、頑張っとる証じゃなぁ」と言いながら応急処置バッグを取りに行った。『がんばっとる証』。左手の潰れたマメは、それが目に見えるような気がして、僕は思わずその手をぐっと握りしめていた。

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