この手と剣道と――今の僕
はる❀
第一話 僕と剣道
今、僕は大事な剣道の試合を目前に控えている。漸く、ここまで来たんだ。
剣道個人戦の、全国大会……準決勝戦。
一度、深呼吸をする。会場の窓から見える鈍色の空は、今にも雨が降り出しそうな暗い雲に覆われていた。
「
隣からした声に、視線を戻す。彼は剣道部のチームメイトで幼馴染の、
「いよいよじゃな」
「うん」
「今日、
「用事終わらせてから、後で応援来てくれるって」
「それは心強いな」
宗さんというのは、僕の四つ上の兄のことだ。小学生から同じ剣道場に通っていた為に、彼も兄と面識がある。
僕は自分の手をじっと見る。何度もマメが潰れては、硬くなった手。
……司と、兄。ここまで続けてこられたのは、彼らの存在が大きい。
「勝てよ」
「うん……がんばる」
すっと出された越前の手のひらと、乾いた音を立ててハイタッチを交わす。手に、交わした熱と痺れの余韻が残る。全国大会、準決勝の大舞台。自分一人じゃ、きっとここまで来られなかった。
僕と、剣道。僕は次に準決勝が行なわれるコートを見ながら、過去の弱かった自分と、そんな僕を支えてくれた人たちに、思いを馳せる。
◇
僕は、昔から小さくて体も弱かった。
周りと比べれば一回りは小さい背。幼いころは気管支が弱くて、ちょっとした風邪でも気管支炎から肺炎を起こすことも多々あり、その度に入院することもしばしばだった。
白い天井と、薬の匂い。幼心にもなんとなく病院は怖くて、入院の度によく泣いていた。
だけど、そんな僕を励ましてくれたのが、父さんや母さん、そして……兄ちゃんと司だった。特に、四つの頃――僕が剣道を始めるきっかけをくれた兄の手は、何よりも大きくて、かっこよく見えた。
普段の兄は優柔不断で、どこかパッとしない。けれど、いざという時は誰よりも格好いい、僕の憧れだ。
そんな兄は、僕が物心ついたころには剣道を始めていた。母に連れられて一緒に行った剣道の稽古で見た兄は、物凄くかっこよかったのを、今でも覚えている。
紺色の道着に、紺色の袴。それから竹刀の音と、汗ばんだ道場の匂い。記憶の一番最初にある剣道場はものすごく広くて、ピシッと張ったようなその空気に圧倒された。
「すごぉい……」
マスクをしたままの口から漏れた、純粋な感想。その時、まだ四歳の僕の心に何触れたのか……理屈ではない、その剣道場の空気は胸に深く刺さる何かがあった。
その日、僕は母の膝に座りながらも、剣道の稽古に目が釘付けだった。
竹刀を構える姿も、すっと姿勢よく歩く姿も、大きな声に床を踏む音も、全部がかっこよく見えた。
「こほ、こほっ……」
退院して安定しているとはいえ、少しの空気の乾きや塵にも敏感だった。
体調も崩しがちで体力のなかった僕は、よくお昼寝をする子だったらしい。
だけどこの時は、驚くほど集中して稽古を見ていた。
竹刀を振る姿、試合形式の練習、道場に響く声と、竹刀の音。すべてが僕の小さな心を支配した。
「ぼくも、やりたい」
水飲み休憩で近くに来た兄を見ながら、ふっと零れた言葉。水筒から口を離した兄は驚いたような顔をしたけれど、口許をごしごしと拭くなり、僕に手のひらを見せてきた。
「見て、
「うわぁ……」
「潰れた。痛そうじゃろ」
「いたそう」
兄はケケッと笑うと、「頑張っとる証の手じゃぁ~」と、少し自慢げだった。
その時の僕には、どうして痛いのが嬉しいのか不思議だったけど、兄が楽しそうなことだけは、伝わってきた。
「あらあら」と苦笑する母に、兄はテーピングをしてもらいながら、僕をまっすぐに見た。
「晃だって、できるよ」
「……ほんまに?」
「うん。なんだって、できる」
「なんだって……できる……」
兄の言葉をなぞってみるも、そのころの僕は、子供なりに自分の身体に不安を覚えていた。
『キカンシエン』。息が苦しくなって、このまま呼吸がとまってしまったら。
それがもっと悪くなると、『ハイエン』というのになるらしい。もっと、もっと辛いときは、大体これだという。……そんなよくわからない言葉は、まさに呪いの言葉のように僕の心を昏くした。
いつか、息ができなくなって死んじゃったら。もう二度と、おとうさんやおかあさん、にいちゃんに会えなくなっちゃったら……どうしよう。
漠然とした不安が過った僕の瞳を覗き込み、兄は続ける。
「剣道やったら、心も体も強ぉなるって、先生が言いよった」
「……!」
「晃、一緒にやろう」
「やる……!」
「なぁお母さん、ええじゃろ?」
その時の母は一瞬眉を下げて困ったような顔をしたけれど、僕があまりにせがむから、「お医者様に相談してみてからね」とふわりと笑った。
それが――僕の剣道の始まりだったんだ。
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