この手と剣道と――今の僕

はる❀

第一話 僕と剣道

 今、僕は大事な剣道の試合を目前に控えている。漸く、ここまで来たんだ。

 剣道個人戦の、全国大会……準決勝戦。

 一度、深呼吸をする。会場の窓から見える鈍色の空は、今にも雨が降り出しそうな暗い雲に覆われていた。


伊月いつき


 隣からした声に、視線を戻す。彼は剣道部のチームメイトで幼馴染の、越前えちぜん つかさ。小学生のときから竹刀を交わし続けてきた仲間で、ライバルでもある。


「いよいよじゃな」

「うん」

「今日、むねさん来るって?」

「用事終わらせてから、後で応援来てくれるって」

「それは心強いな」


 宗さんというのは、僕の四つ上の兄のことだ。小学生から同じ剣道場に通っていた為に、彼も兄と面識がある。


 僕は自分の手をじっと見る。何度もマメが潰れては、硬くなった手。

 ……司と、兄。ここまで続けてこられたのは、彼らの存在が大きい。


「勝てよ」

「うん……がんばる」


 すっと出された越前の手のひらと、乾いた音を立ててハイタッチを交わす。手に、交わした熱と痺れの余韻が残る。全国大会、準決勝の大舞台。自分一人じゃ、きっとここまで来られなかった。

 僕と、剣道。僕は次に準決勝が行なわれるコートを見ながら、過去の弱かった自分と、そんな僕を支えてくれた人たちに、思いを馳せる。





 僕は、昔から小さくて体も弱かった。

 周りと比べれば一回りは小さい背。幼いころは気管支が弱くて、ちょっとした風邪でも気管支炎から肺炎を起こすことも多々あり、その度に入院することもしばしばだった。


 白い天井と、薬の匂い。幼心にもなんとなく病院は怖くて、入院の度によく泣いていた。


 だけど、そんな僕を励ましてくれたのが、父さんや母さん、そして……兄ちゃんと司だった。特に、四つの頃――僕が剣道を始めるきっかけをくれた兄の手は、何よりも大きくて、かっこよく見えた。

 普段の兄は優柔不断で、どこかパッとしない。けれど、いざという時は誰よりも格好いい、僕の憧れだ。


 そんな兄は、僕が物心ついたころには剣道を始めていた。母に連れられて一緒に行った剣道の稽古で見た兄は、物凄くかっこよかったのを、今でも覚えている。

 紺色の道着に、紺色の袴。それから竹刀の音と、汗ばんだ道場の匂い。記憶の一番最初にある剣道場はものすごく広くて、ピシッと張ったようなその空気に圧倒された。


「すごぉい……」


 マスクをしたままの口から漏れた、純粋な感想。その時、まだ四歳の僕の心に何触れたのか……理屈ではない、その剣道場の空気は胸に深く刺さる何かがあった。


 その日、僕は母の膝に座りながらも、剣道の稽古に目が釘付けだった。

 竹刀を構える姿も、すっと姿勢よく歩く姿も、大きな声に床を踏む音も、全部がかっこよく見えた。


「こほ、こほっ……」


 退院して安定しているとはいえ、少しの空気の乾きや塵にも敏感だった。

 体調も崩しがちで体力のなかった僕は、よくお昼寝をする子だったらしい。


 だけどこの時は、驚くほど集中して稽古を見ていた。

 竹刀を振る姿、試合形式の練習、道場に響く声と、竹刀の音。すべてが僕の小さな心を支配した。

 

「ぼくも、やりたい」


 水飲み休憩で近くに来た兄を見ながら、ふっと零れた言葉。水筒から口を離した兄は驚いたような顔をしたけれど、口許をごしごしと拭くなり、僕に手のひらを見せてきた。


「見て、あきら。マメ」

「うわぁ……」

「潰れた。痛そうじゃろ」

「いたそう」


 兄はケケッと笑うと、「頑張っとる証の手じゃぁ~」と、少し自慢げだった。

 その時の僕には、どうして痛いのが嬉しいのか不思議だったけど、兄が楽しそうなことだけは、伝わってきた。

 「あらあら」と苦笑する母に、兄はテーピングをしてもらいながら、僕をまっすぐに見た。


「晃だって、できるよ」

「……ほんまに?」

「うん。なんだって、できる」

「なんだって……できる……」


 兄の言葉をなぞってみるも、そのころの僕は、子供なりに自分の身体に不安を覚えていた。

 『キカンシエン』。息が苦しくなって、このまま呼吸がとまってしまったら。

 それがもっと悪くなると、『ハイエン』というのになるらしい。もっと、もっと辛いときは、大体これだという。……そんなよくわからない言葉は、まさに呪いの言葉のように僕の心を昏くした。

 いつか、息ができなくなって死んじゃったら。もう二度と、おとうさんやおかあさん、にいちゃんに会えなくなっちゃったら……どうしよう。


 漠然とした不安が過った僕の瞳を覗き込み、兄は続ける。


「剣道やったら、心も体も強ぉなるって、先生が言いよった」

「……!」

「晃、一緒にやろう」

「やる……!」

「なぁお母さん、ええじゃろ?」


 その時の母は一瞬眉を下げて困ったような顔をしたけれど、僕があまりにせがむから、「お医者様に相談してみてからね」とふわりと笑った。


 それが――僕の剣道の始まりだったんだ。

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