第5話:短波無線
それから一晩中、額を冷やし、薬湯を飲ませ、呼吸を確かめた。何度繰り返したか数えていない。いつからか苦しげな息遣いが深い寝息に変わっていた。
それを見届けて、張り詰めていた肩の力がするすると抜けていく。
気がつくと、部屋の中は好きな冴え冴えとした空気になっていた。外からはのどかな小鳥の声が聞こえ、日は空高く上っている。夜が明けたのだ。
寝ぼけ眼をこすりながら、もう一度、熱を確かめようとした。こんなにころころ変わったらたまったものではないが、手を伸ばさずにはいられない。
ベッドに歩み寄り、ヒースの額に手を当ててみる。昨夜の灼けるような熱は消えていた。むしろ自分の体温が高いのか、彼の肌が冷たくて気持ちよかった。
ペタペタ触っているうちに、ヒースが戸惑ったような顔でこちらを見つめていた。
「君は何をしているんだ」
「生きてるなぁ……って」
ヒースはこちらを見ず、窓を眺めながら言った。
「不思議な人だな」
その言葉に、ヒースの困惑が肌に伝わってくるようだった。
「……世話をかけた」
ルディアナは彼から手を離し、ようやくほっとしたように微笑んだ。
「昨夜、うなされてたけど、大丈夫?」
「ああ、だいぶ良くなった」
「うん、今度は本当に大丈夫そう。がんばったね」
「君のおかげだ」
熱は下がったものの、それで終わりではない。傷口を覗くと、赤黒く膿んだ部分が残っていた。機械なら壊れた部品を取り換えれば済むが、人の体はそうはいかない。処置が甘かったのだ。
このまま放っておけば、また熱がぶり返す。そうなったら、今度は自分の体が持たないだろう。
申し訳なさそうに、ルディアナは言った。
「ヒース、ごめんね。ちょっと処置が甘かった部分があるから、膿を追加で取り除かせて」
「わかった。頼む」
鍋に水を張り、ナイフとピンセットを煮沸する。水が泡立ち始め、金属の匂いがしてきた。
処置の準備を終え、ベッドに近づくと、痛みに顔をしかめながらヒースが上半身を起こそうとしていた。
「動かないで。私が支えるから」
「すまない」
彼が身を起こすのを手伝ったあと、ルディアナは清潔なタオルを差し出す。
「舌を噛まないように、これを噛んでて」
ヒースは黙ってタオルを口にくわえた。
「……いくよ」
消毒した刃先を傷の縁に当てた。
「……っぐ」
シーツを握る手の筋と血管が浮き、額に脂汗が吹き出る。手を止めず、膿んだ部分を少しずつ取り除いていく。
傷口を清め、新しい布を巻き終え、タオルを口から外した。どのくらい時間が経ったのかはわからなかった。
だけど、ヒースの顔には痛みを耐え抜いたあとのような、清々しさがあった。
前回は意識がないときに処置をしたが、今回は違った。それなのに、彼は暴れもせず、こちらを信じてくれた。どんな経験をすれば、そんな強い意志を持てるのだろうか。
いつか聞いてみたいと思いつつ、今は耐えてくれたことに感謝した。
「ほとんど取れた。あとは塞がるのを待つだけ」
「……はぁ……さすがだな……ほんとうに」
「そんなことないよ。ヒースもお疲れ様」
ルディアナはヒースを横にしたあと、道具を片付けながら、薬棚を見た。麻酔もなしに何度も刃を入れてしまった。自分の傷はすぐに治るから、鎮静作用のあるハーブなど必要ないと思っていた。
雪解けが来たら、種を取り寄せて育ててみよう。
そんなことを考えながら、玄関脇の小部屋へ向かった。この部屋は家で唯一、外と繋がる場所だった。壁には短波無線機が据えられ、その下には古い金庫もある。
最後に開けたのはいつだっただろうか。思えば、これを開けるときは何かしら切迫しているときだった気がする。
金庫を横目に、無線機のダイヤルを回し、送信ボタンを押す。
しばらくすると、雑音の向こうから聞き慣れた声が返ってきた。
「ルディお姉ちゃん? 珍しいね、急にどうしたの?」
「ジョシュ、急ぎで届けてほしいものがあるの」
「こんなに早く? 何が要る?」
「医薬品と食料。それと、生活用品をたくさん」
ルディアナは机の上を指でトントントンと叩いた。
「了解。どのくらい急ぎ?」
「できるだけ早くお願い」
送信を切らないまま、ジョシュが誰かと話している。声は聞き取れないが、確認しているような調子だった。
「お待たせ。正直に言うとさ、こっちもピンチなんだよね。王都からの便が止まってて、町に回す分で手一杯っていうか」
思わず返答に詰まった。いつものジョシュなら、なんとかしてくれるだろうという考えが甘かった。
平静を装って、ルディアナは答えた。
「そう……」
「最短で二ヶ月。ごめんね、それが限界」
森で原生生物を仕留めれば、しばらくは食いつなげるかもしれない。でも、肉ばかりでは体が持たない。野菜も穀物も要る。山を降りれば手に入るが、それはできなかった。手段がないのではない。降りてはいけないのだ。
「わかった……無理言ってごめんね」
「待って、お姉ちゃん。何かあった?」
「別に……」
「嘘。声でわかる。誰かいるでしょ」
ルディアナは答えなかった。説明が面倒だったし、ヒースの存在をどう伝えるか、まだ整理できていない。
ジョシュは何かを察したように言った。
「いいよ、聞かない。でも、本当にやばくなったら連絡して。意地張って倒れるの、禁止ね」
「気をつける」
「信用してないけど、今回は信じとく。それよりも、やっぱりこっちにこれないの?」
身を案じて言ってくれているのだろうが、答えは変わらなかった。隣の部屋にいる男ひとりに対してですら、どう接すればいいかわからないのに、もう一度社会に戻るなんてできるはずがなかった。
「ごめん、それは無理」
「……そっか。僕もなんとか頑張ってみるから、無理はしないでね」
送信を切り、マイクを戻した。
小窓から外を眺めると、灰を被ったような景色が広がっていた。ヒースの熱は下がったし、傷も塞がりつつある。順調なはずなのに、さらに先を考えると悩みの種は尽きない。
それでも、あの川で綱を手放さなかった責任は最後まで果たそうと思った。食料をどうするか、国へ送り届ける方法も見当がつかない。
だけど、ヒースと一緒ならなんとかなる気がした。
居間へ戻ると、ヒースが身を起こして壁に背を預けていた。
「他に誰かいるのか?」
壁越しの声を聞いていたらしい。
「短波無線ってわかる? 離れた場所の人と話せる装置」
「魔力を使わずに?」
「そう。声を電気に換えて届けるの」
ヒースは興味津々のような顔に変わった。
「そういう仕組みだったのか」
「何が?」
「いや、アルベレオ軍は信号弾などを使わずに、遠い部隊と連携が取れていて、理由がわからなかったんだ。まさか、そんな技があったとは」
技術が戦争で使われる部分は嫌だったが、彼が技術を通じてアルベレオに興味を持ってくれるのは嬉しかった。
「戦争は詳しくないけど、もし他に気になることがあったらなんでも聞いてね」
「ありがとう。それなら、何を話していたか聞いてもいいか?」
彼にジョシュのことをどう伝えるかはまだ考えかねていたが、事実だけを伝えることにした。
「定期的に必需品を届けてくれるジョシュっていう人がいるの。今回は急ぎでいろいろお願いした感じ」
ヒースの顔がどこか暗く見えた。
「俺のせいか」
「今は考えなくていいよ。体調が戻ってから、話し合いましょ」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「何もできないのがもどかしい」
自分が知っている貴族なら己だけ生き残ることを考えるのに、ヒースは誰かを困らせることを気にしているようだった。やっぱりソルディアの人は、他人を思いやるのが得意なのだろうか。
それとも、彼が特別なのかはわからなかった。
「久しぶりの来客なの。遠慮しないで」
ヒースはまっすぐな目でこちらを見つめて言った。
「助かる」
「軍服は切ってしまったから、替えを用意するね。シーツで作れるだろうし」
「君は何でもできるんだな」
その声に、ルディアナは肩をすくめながら答えた。
「生きるために覚えただけ」
来客という言葉が出てきた自分に気づいていた。患者ではなく、来客。いつからそう呼ぶようになったのだろうか。
来客の次はなんだろう。知人か、それとも友人か。彼への印象が変わるたびに、未来は少しだけいい方向へ進んでいると思った。
台所へ移動し、床下から壺をいくつか取り出した。まだ開封するには早いが、今日くらいは許されるだろう。
ハルファの葉を刻むと、酸味のある香りがしてきた。燻製のソーセージを厚めに切り、一緒に鍋へ入れる。甘いシードをひとつまみ、木の実を砕いて加えると、脂に山菜の酸味が混じり、どこかで嗅いだことのある匂いになった。
針葉樹のそばで焚き火をしたときだろうか。確かあのときは食欲がなくて、気分転換に外で食べようとしたんだった。夜空に散らばる星たちが眩しかったのを覚えている。
鍋が煮え立つ前に、パンを切り分け、ボウルを二つ並べた。
料理を盛り付け、ヒースの前に運んだ。
「食べられそう?」
「美味しそうだな」
ヒースは嬉しげに言った。彼はフォークだけを握りしめ、ガツガツと食べ始めた。前回の泥スープと比べて、本当に美味しいのだろう。
「このソーセージ、うまいな」
「そう。まだあるからたくさん食べてね」
ヒースのボウルに自分用に盛り付けていた分を何本か移しながら言った。彼はそれを眺めてつぶやいた。
「あれ、さっきは……」
「いいの。今は考えても仕方ないから」
ルディアナも自分のボウルに残ったスープを見た。備蓄の計算や森で採れるもの、生活のことばかりが浮かんでくる。
雪山の技術者、敵国の魔法使いを拾いました 水越ゆき @mizukoshi_yuki
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