第3話

 朝を告げる鐘の音よりも早く、イリスは目を覚ました。

 意識が浮上した瞬間、身体が跳ね起きそうになる。


 ――遅刻した。

 ――寝過ごしてしまった。


 背筋を冷たい汗が伝う。

 使用人として酷使されていた頃の習性が、骨の髄まで染み付いているのだ。

 早く起きて、水桶を汲まなければ。床を磨かなければ。

 そうしなければ、拳が飛んでくる。罵声が降ってくる。


 だが、イリスの身体を包んでいたのは、薄汚れた藁布団でも、冷たい板の間でもなかった。

 雲のように柔らかく、温かい羽毛の感触。

 鼻をくすぐる、干したばかりのリネンの清潔な香り。


 目を開けると、見慣れない高い天井があった。

 窓の隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。塵が光の中で踊るほど静かな朝だった。


(……あ……)


 記憶が、ゆっくりと蘇る。

 路地裏。救いの手。

 そして、この領主館。


 夢ではなかった。

 安堵よりも先に、新たな恐怖がイリスを襲う。

 こんな贅沢な寝台で、太陽が昇るまで眠りこけてしまった。その事実が、たまらなく恐ろしい。


 恐る恐る、隣を見る。

 そこには、アレインがいた。

 規則正しい寝息。彫刻のように整った横顔。

 彼がそこにいるという圧倒的な事実が、昨夜の出来事が幻ではないと証明している。


(起こして、謝らないと……)


 イリスが青ざめた顔で身じろぎした、その時だった。

「……起きているな」

 低い声が、鼓膜を震わせた。

 アレインの瞳が、静かに開かれている。


「……っ、ご、ごめんなさい……! 私、寝坊して……その、すぐに起きますから……!」

 反射的に身体が強張る。

 布団を剥いで土下座しようとするイリスの肩を、大きな手が制した。


「謝るな」

 即座に返る声。

 そこに怒気は一切含まれていない。

「目が覚めた。それだけだ」

 その言い方が、あまりにも自然で、拍子抜けするほど淡々としていた。

「……あの……私、何か……水汲みとか、掃除とか……」

「何もするな」

 アレインは、ゆっくりと上体を起こす。

 鍛え上げられた背中が、朝の光を受けて輪郭を際立たせていた。


「今日は、何もしなくていい日だ」

「……え……?」

「昨日も言ったはずだ」

 アレインはイリスを見下ろし、諭すように告げた。

「安心する練習をする、と」


 イリスは、言葉を失った。

 練習。

 剣の練習や、掃除の手順を覚えるための練習なら知っている。

 けれど、「安心」に練習が必要だなんて、考えたこともなかった。


 朝食は、寝室にある小卓に運ばれてきた。

 使用人がワゴンを押して入ってくると、イリスは反射的に立ち上がり、給仕を手伝おうとする。

 だが、アレインの視線がそれを止めた。


「座っていろ」

「で、でも……」

「使用人が用意した。君の仕事ではない」

 先回りするように言われ、イリスは小さく頷くことしかできない。

 椅子に腰掛け、小さくなっている間に、テーブルの上には見たこともない料理が並べられていく。


 焼き立てのパンの香ばしい匂い。

 湯気を立てる野菜のポタージュ。

 新鮮な果実と、蜂蜜の入った紅茶。


 どれもがキラキラと輝いて見えた。

 アレインがパンを手に取るのを待ってから、イリスも恐る恐る手を伸ばす。

 一口かじる。バターの風味が口いっぱいに広がった。


 おいしい。

 けれど、喉を通るたびに、胸が締め付けられるような罪悪感が湧き上がる。

 ――私は、何もしていないのに。

 ――働かず、役に立たず、ただ与えられるだけなんて。


 何度もアレインを盗み見た。

 彼は優雅な所作で食事を進めている。

 イリスが食べているか、無理をしていないか、時折視線だけで確認してくるが、食事を強要することはしない。


 同じものを食べ、同じ時間を過ごしている。

(……どうして)

 疑問が、胸に浮かぶ。

 どうして、ここまでしてくれるのか。

 気まぐれにしては、あまりにも手厚すぎる。

 だが、その答えを口に出す勇気は、まだなかった。


 食後、使用人が食器を下げていくと、再び静寂が訪れた。

 アレインは窓際の椅子に深く腰掛け、書類に目を通し始めた。

 イリスは、暖炉の前で膝を抱えて座っていた。


 特別な会話はない。

 ただ、紙が擦れる音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。

 以前なら、この沈黙が息苦しくてたまらなかっただろう。

 「何か喋らなければ」「機嫌を取らなければ」と焦っていただろう。


 けれど今は、不思議と怖くなかった。

 アレインがいる。ただそれだけで、この空間が守られていると感じる。

 窓から差し込む陽光が、床に長い四角形を描いていた。

 その光の中で、塵がゆっくりと舞っているのを目で追う。


 穏やかだった。

 あまりにも穏やかで――だからこそ、不安になる。

 この時間が、いつか終わってしまうことが。


「……あの」

 イリスが、意を決して小さく声を出す。

 アレインの手が止まる。

「どうした」

 顔を上げた彼の瞳は、静かな湖面のように穏やかだ。


「……私は……いつまで……ここに、いていいのですか……?」

 問いは、震えていた。

 聞きたくない。でも、聞かなければならない。

 明日の朝には追い出されるのか。それとも、三日後か。

 期限を知っておかなければ、心を準備できない。


 アレインは書類を置き、イリスの方へ向き直った。

 すぐに答えはなかった。

 彼は少しだけ考え、言葉を選ぶように間を置いてから、口を開いた。


「君が、自分で“行きたい”と言うまでだ」

 即答ではなかった。

 だからこそ、その言葉には重みがあった。

 イリスは目を見開く。

「……行きたい、なんて……言いません」

「なら、ずっとだ」

 短く、断定された。


 イリスの呼吸が止まる。

 信じられなかった。そんな都合のいい話があるはずがない。

「お、追い出さない……ですか」

「追い出さない」

「……怒らない……ですか」

「怒らない」

「……役に立たなくても……?」


 最後の問いは、ほとんど囁きだった。

 消え入りそうな、祈るような声。

 それがイリスの中に巣食う、最大の呪いだったから。

 価値がないなら、捨てられる。

 役に立たないなら、愛されない。


 アレインは立ち上がり、イリスの目の前まで歩み寄った。

 そして片膝をつき、視線の高さを合わせる。

 大きな手が、イリスの震える手に重ねられた。


「役に立たなくても、だ」

 はっきりとした声が、イリスの心臓を貫く。

「君が何もしなくても、何もできなくても。私の考えは変わらない」


 イリスの視界が、急激に滲んだ。

 喉の奥が熱くなり、言葉にならない嗚咽が漏れる。

「……信じても……いいですか」

 問いではなく、すがりつくような願いだった。

 裏切られるのが怖い。

 でも、信じたい。


 アレインは、イリスの手を強く握り返した。

「信じろ」

 それは、命令の形をした、揺るぎない許可だった。


 イリスは、初めて――

 身体の芯から力を抜いて、深く、深く息を吸った。

 肺の隅々まで、温かい空気が満たしていく。

 ずっと張り詰めていた糸が、ふわりと緩んだ気がした。


 胸が、少しだけ軽くなる。

(……まだ、怖い)

 長年染み付いた恐怖は、そう簡単には消えない。

 明日になれば、また「捨てられるかも」と怯えるかもしれない。


(……でも……)

 この場所なら。

 この人の隣なら。

 怖いままでも、居ていいと言ってくれる。


 イリスは、涙で潤んだ瞳でアレインを見つめ返した。

 そして、胸の奥で小さく、けれど確かに芽生えた感情を自覚する。


 ――明日も、ここにいたい。


 今日を生き延びることだけではない。

 明日という未来を、この場所で迎えたい。

 そう願ってしまった自分を、イリスはもう、責めなかった。


 アレインは、少女の肩の力が抜けるのを感じながら、内心で静かに思考を巡らせていた。

(……やはり)

 言葉だけでは、まだ足りない。

 一晩の安らぎでは、彼女の傷は癒えない。


 この少女が、自分を責めなくなるまで。

 「居るだけでいい」と、疑いなく心から思えるまで。


 ――何度でも、繰り返す。

 食事を共にし、眠りを共にし、朝が来ても、そこにいると示し続ける。

 それが、彼女にとっての「当たり前」になるまで、何日でも、何年でも。


 アレインは、イリスの涙を親指でそっと拭った。

 その指先の優しさに触れ、イリスは小さく微笑もうとして――ぎこちなく頬を緩めた。


 溺愛は、静かに、深く根を張り始めていた。

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2026年1月15日 21:00
2026年1月16日 21:00
2026年1月17日 21:00

傷だらけの少女を拾った領主が、溺愛するつもりはなかった kuni @trainweek005050

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