第2話
石造りの館は、夕闇の中で静かに、巨大な獣のように佇んでいた。
見上げるほど高い塀と、威圧的な鉄格子の門。
本来ならば、この地を治める領主の威光を示すための重厚さが、今のイリスにはただ恐ろしかった。
まるで、一度飲み込まれたら二度と外の世界には戻れない、別世界の入口のように見える。
イリスは、門の前で思わず足を止めた。
靴底が、石畳に張り付いたように動かない。
(……ここ、に……?)
隣を歩くアレインを見上げる。
彼は迷うことなく門へと歩を進めていた。その背中には微塵の躊躇いもない。当然だ。ここは彼の城であり、帰るべき場所なのだから。
けれど、自分は違う。
泥と手垢にまみれた、路地裏の住人だ。
こんな立派な場所に足を踏み入れていいはずがない。
逃げ出したいという衝動と、逆らってはいけないという染み付いた習性が、胸の中で激しくせめぎ合う。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
だが、アレインは歩調を緩め、イリスが追いつくのを無言で待った。
急かすわけでも、叱るわけでもない。ただ、イリスが自分で一歩を踏み出すのを、静かに待っている。
その視線から逃げられないことを悟り、イリスは震える足を引きずるようにして門をくぐった。
ギギィ、と重い音を立てて門が開く。
その先には、整列した使用人たちが待機していた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
一斉に頭が下げられる。
その光景に、イリスは小さく悲鳴を上げそうになり、身を縮めた。
自分のような人間に、こんな丁寧な態度は向けられたことがない。
罵声か、無視か、嘲笑。それが世界の全てだった。
だから、丁寧な所作であればあるほど、裏にある(とイリスが思い込んでいる)侮蔑を感じてしまう。
――汚い娘だと思われている。
――なんでこんなゴミを連れてきたんだと、思われている。
視線を地面に縫い付けるように俯くイリスに、アレインが声をかけた。
「……イリス」
ビクリと肩が跳ねる。
「怯えなくていい。誰も、君を責めない」
その言葉が、なぜか一番怖かった。
責められない場所など、この世にあるはずがない。
期待させて、あとから突き落とすための嘘ではないか。
そう疑ってしまう自分が、さらに惨めに思えた。
館の中は、外よりも静かだった。
高い天井、磨き上げられた廊下。
歩くたびに、アレインの革靴はコツ、コツと硬質な音を響かせるが、イリスの古い靴はペタペタと情けない音を立てる。
その音の違いが、決定的な身分の差を突きつけてくるようで、イリスは無意識に息を止めていた。
「……ここに、いろと言ったな」
アレインの声が、前方から落ちてくる。
「は、はい……」
小さく返事をしながらも、心の中では別の言葉が渦巻いていた。
(いつまで……? いつ追い出されるの……?)
大きな館だ。きっと、使用人部屋か、物置のような場所へ連れて行かれるのだろう。
それならまだ分かる。自分は下働きだ。掃除や洗濯なら、言われれば何でもする。
そう思っていた。
だが、案内されたのは、どう見ても使用人が立ち入るような区画ではなかった。
廊下の絨毯が、より厚く、上質なものに変わっていく。
壁に飾られた絵画。装飾された照明。
――間違いだ。
――すぐに、何か言われる。「ここからは入るな」と怒られる。
そう身構えた瞬間。
「今日は、ここだ」
アレインが重厚な扉を開け放った。
中を見た瞬間、イリスは息を止めた。
広すぎる部屋。
中央には、大人三人が寝ても余るほどの巨大な天蓋付きの寝台。
床には足首まで埋まりそうな柔らかな毛布が敷かれ、暖炉にはすでに火が入っており、部屋全体をオレンジ色の温かい光で満たしている。
「……ここは……」
「私の部屋だ」
「…………え?」
頭が、理解を拒んで真っ白になった。
領主の部屋。主人の寝室。
それは、最も神聖で、最も侵してはならない場所のはずだ。
「だ、だめです! 私が、そんな……!」
イリスは弾かれたように後ずさった。
泥だらけの服で、こんな場所にいてはいけない。
空気を吸うことさえ罪に思える。
汚してしまう。怒られる。殺されるかもしれない。
パニックになり、きびすを返して逃げようとした瞬間。
アレインが、イリスの前に立ち塞がった。
壁のように、逃げ道を塞ぐ。
「逃げるな」
叱責ではない。
命令でもない。
ただ、絶対に逃がさないという、鋼のような意志を含んだ声だった。
イリスは立ちすくむ。アレインの胸元が目の前にある。
見上げると、彼の瞳は静かに、けれど深くイリスを捉えていた。
「君は、夜が一番不安になる」
図星だった。
なぜ分かるのか、イリスには理解できなかった。
「眠っている間に、捨てられる。朝になったら、ここに居てはいけないと言われる。あるいは――目が覚めたら、またあの路地裏に戻っているのではないかと」
心臓が、強く跳ねた。
言葉にされた恐怖は、あまりにも的確で、鋭かった。
「……違うか」
否定できなかった。
「……はい」
絞り出すような声。喉が震える。
アレインは、小さく息を吐いた。呆れではなく、安堵のような吐息だった。
「だから、今日は一緒に過ごす」
「……え……?」
「食事も、睡眠も」
淡々とした口調だった。それが当然の理であるかのように。
「“朝になっても、君はここにいる”と、身体で理解するまでだ」
その言葉は、理屈ではなかった。
甘い囁きでもなかった。
それは――生存の約束だった。
夕餉は、部屋の中に運ばれてきた。
白いクロスが敷かれた円卓に、湯気を立てる料理が並ぶ。
肉のロースト、野菜のスープ、焼き立てのパン。
どれも、イリスが一生かけても口にできないようなご馳走ばかりだ。
だが、イリスは椅子に座らされているだけで、生きた心地がしなかった。
目の前の銀のフォークが、武器のように重く感じる。
カチャリ、と微かな音を立ててしまっただけで、心臓が縮み上がった。
「……食べないのか」
向かい側に座るアレインが、手を止めて尋ねる。
「……私には、もったいなくて……」
こんな高価なものを食べたら、あとで何を要求されるのか。その恐怖が食欲を上回っていた。
「それに、汚してしまいます……」
「イリス」
名を呼ばれ、びくりとする。
アレインは、じっとイリスの手元を見て、それから目を見て言った。
「君の価値は、皿の値段で決まらない」
その一言で、喉が詰まった。
皿よりも、食べ物よりも価値がないと、ずっと思ってきた。
割れた桶の代金よりも、自分のほうが安いと思っていた。
「……食べていい、ですか」
「君のために用意させたものだ」
イリスは、震える手でスプーンを握りしめた。
少しずつ、スープを口に運ぶ。
温かい液体が、冷え切っていた喉を通り、胃袋へと落ちていく。
野菜の甘みと、肉の旨み。
味が分かるまで、時間がかかった。
「……おいしい……です」
零れた言葉は、涙声になっていた。
アレインは、それを見て深く頷いた。
「それでいい」
そして、夜が来た。
使用人が食器を下げ、部屋の灯りが落とされると、本当の静寂が訪れる。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く中、イリスは寝台の前で立ち尽くしていた。
アレインは当然のように寝台へ向かう。
イリスは、おろおろと視線を彷徨わせ、絨毯の隅へと向かった。
「……私は、床で……」
「却下だ」
即答だった。
アレインは振り返り、眉をひそめる。
「ここで眠る」
「……で、でも……こんな、綺麗なシーツ……」
先ほど、入浴させてもらい、清潔な寝間着に着替えたとはいえ、身の縮む思いだ。
「私が寝たら、臭いがつきます……」
「つかない」
「つきます……!」
「私が隣にいると言っている」
それ以上、何も言わせない声だった。
アレインは手招きすらしない。ただ、イリスが来るのを待っている。
観念して、イリスは寝台の端、落ちそうなほどのギリギリの場所に潜り込んだ。
シーツは滑らかで、布団は雲のように柔らかい。
けれど、背中には鉄板が入っているかのように緊張していた。
アレインが横になる気配がする。
距離は保たれている。触れられない。
それでも。
人の体温が、すぐ近くにある。
規則正しい呼吸音が聞こえる。
暗闇の中で、イリスは目を開けていた。
天井は見えない。
恐怖が、波のように押し寄せる。
――安心するのが、怖い。
この温かさに慣れてしまったら。明日、冷たい路地に戻されたとき、もう耐えられないかもしれない。
「……怖いか」
闇の中から、アレインの声がした。
起きていたのだ。
「……はい……」
正直に答えてしまったことに、自分で驚く。
いつもなら「大丈夫です」と嘘をつくのに。
「それでいい」
アレインの声は、低く、穏やかだった。
夜の静寂に溶けるような、優しい響き。
「怖いままでいい。だが、独りではない」
しばらく、沈黙が降りる。
隣から伝わる熱が、イリスの凍りついた心を少しずつ溶かしていく。
独りではない。
その事実が、じわりと胸に染み込む。
まぶたが重くなる。
強烈な睡魔が襲ってきた。安心できる場所などなかったから、ずっと気を張っていた反動だ。
けれど、眠るのが怖い。
目が覚めたら、夢が終わっているのが怖い。
「……あの……」
「何だ」
「……朝になっても……」
声が震える。
聞かずにはいられなかった。
「いる」
即答だった。
迷いも、揺らぎもない、断定。
「君は、ここにいる。私がここにいるのと同じように」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
目尻から、熱いものが溢れ出し、枕を濡らす。
「……ごめんなさい……」
「謝るな」
「……でも……」
「君は、生きているだけでいい」
アレインは、それだけ言って目を閉じたようだった。
涙は止まらなかった。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
イリスは、丸くなるように身を縮め、布団を握りしめる。
隣に、人がいる。
守ってくれる人がいる。
その体温を感じながら、イリスは初めて――
「明日はどうなるのだろう」という不安に塗りつぶされることなく、深い眠りの底へと落ちていった。
アレインは、隣から聞こえてくる寝息が整うのを確かめ、暗闇の中で静かに目を開けた。
怯えきった小動物のような少女。
彼女が心から安心するには、まだ時間がかかるだろう。
一晩では足りない。
ならば、何度でも繰り返すまでだ。
この少女が、朝を迎えることを怖がらなくなるまで。
領主アレイン・フォン・グラードは、声に出さずにそう誓い、再び目を閉じた。
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