第2話:三メートルの孤独

 私立鳳凰学園、一年A組。

 本来であれば、そこは共学化の希望に満ちた、瑞々しい十代の語らいの場となるはずだった。しかし、今のこの教室を支配しているのは、深海のような静寂と、肌を刺すような緊張感である。


 白河凛は、教室の最後列、窓際の席で小さく身を縮めていた。

 彼女の周囲、半径三メートル。そこには机も椅子も存在しないかのような、不自然な空白地帯が広がっている。クラスメイトたちは、まるで猛獣の檻を遠巻きに眺める見物人のように、壁際に固まって彼女を伺っていた。


(……やっぱり、そうだ)


 凛は膝の上で握りしめた拳を、さらに強く食い込ませる。

 視界の端に映るクラスメイトたちの顔は、どれも一様に強張っている。昨日の「四天王全滅事件」は、すでに学園専用の掲示板やSNSを通じて、尾ひれどころか翼や角が生えたような状態で拡散されていた。


『一期生の女子、四天王を瞬殺。所要時間〇・五秒(※実際は〇・八秒だが、噂の中で短縮された)』

『素手で校舎の壁を貫通させた模様。現在、学校側は「補強工事」という名目で隠蔽中』

『彼女が流した涙は、倒した強者への鎮魂歌。その瞳を見つめすぎると、精神が破壊される』


 凛には、そんな声が聞こえてくるような気がした。

 本当は、ただ怖かっただけなのだ。男の人たちが、あの大きな体で、自分を囲むのが。その恐怖から逃げたくて、身体が勝手に、お父様に叩き込まれた「生存術」を選んでしまっただけなのに。


(みんな、私を怖がってる。……当然だよね。あんな、化け物みたいなことしちゃったら。女の子扱いなんて、もう一生、無理なんだ……)


 凛の視界が、じわりと涙で滲む。

 彼女が悲しみに耐えかねて、ふっと弱々しく俯いた。その瞬間、教室の空気が目に見えて「震えた」。


「……見たか、今の首の角度」

 壁際で息を殺していた男子の一人が、震える声で囁いた。

「四十五度……。あれは、いつでも頸椎を刈り取れる、居合の構えだ。悲しんでいるんじゃない。隙を見せて、俺たちの誰が最初に動くか試してやがるんだ」

「なんて恐ろしい……。泣いているように見えるのは、殺気を隠すための擬態か。美しすぎて、逆に死の予感しかしないぜ……」


 男子たちは、凛の「絶望」を「極限の戦闘態勢」と定義した。

 彼女が小さく溜息をつけば、それは「呼吸法による自己暗示」と解釈され、彼女が窓の外を見れば、それは「退路の確認と増援への警戒」と受け取られた。


 凛が震える手で筆箱からシャーペンを取り出そうとしただけで、男子数名が反射的に「防御(ガード)」の姿勢を取った。プラスチックが机に当たる「カチッ」という小さな音さえ、彼らには爆発物の起爆音のように響いた。


(……もう、ダメだ。学校、休もうかな。でも、初日にあんなことをして、二日目から欠席なんてしたら、ますます『不気味な暗殺者』みたいに思われちゃう……)


 凛は必死に涙を堪え、石像のように固まった。

 彼女の孤独は深まるばかりだった。自分を普通の女子高生だと思ってくれる人間など、この学園には一人もいない。ここは、男性恐怖症の自分にとっては、ただの「広すぎる檻」でしかないのだと、彼女は確信した。


 その時だった。


 ガタッ、と、この静寂の聖域を冒涜するような、無造作な音が響いた。

 凛の心臓が跳ね上がる。クラス中の視線が一箇所に集中した。


 一人の男子が、購買部で購入したと思われる「焼きそばパン」の袋をガサガサと鳴らしながら、凛のすぐ隣――あの『三メートルの空白』を平然と踏み越えて、自分の席に座ったのだ。


 佐藤ハル。

 昨日、血の海(実際は気絶した四天王)の真ん中で、凛と目が合ったあの少年だ。

 彼はクラスメイトたちが凍りついていることにも、凛から放たれている(と周囲が勝手に感じている)凄まじいプレッシャーにも、全く気づいていない様子だった。


 ハルは、椅子に深く腰掛けると、隣で固まっている凛の方をひょいと見た。

 凛の格闘家センサーが、急速に情報を処理する。

 重心のブレ、筋肉の弛緩、闘争心の欠如、そして何より、自分に向けられた視線に含まれる「毒」のなさ。

 

 ――凪。

 彼女の脳内にある防衛システムが、初めて『非対象』のラベルを貼り付けた。


「……あの、さ」


 ハルが口を開いた。教室中の男子が「終わった」と確信し、目を逸らした。あるいは、伝説の目撃者になろうと、まばたきを忘れて注視した。


「昨日、すごく泣いてたけど……大丈夫だった? その……保健室、行ったほうがいいかなって、ずっと思ってたんだけど」


 その声は、驚くほど弱々しく、そして温かかった。

 凛は、目を見開いた。

 自分を「最強の怪物」としてではなく、「昨日泣いていた、体調の悪そうな女の子」として扱ってくれる言葉。


「……え、あ……」


 凛の喉が震える。返事をしなければ。でも、男の人の声が、こんなに近くで聞こえるだけで、指先が勝手に「貫手」の形になりそうになる。

 彼女は懸命に、自分の右手を左手で押さえつけた。


「だ、だいじょう、ぶ……です。ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 反射的に謝罪が口を突いて出る。

 ハルは不思議そうに小首を傾げた。


「謝ることないよ。共学って、緊張するしね。俺も、女子と話すの慣れてないから、さっきからパンの袋開けるだけで手が震えてるし」


 そう言って、ハルは本当に少し震えている指先を見せて、へらりと笑った。

 その隙だらけの笑顔を見た瞬間、凛の中で、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。


(この人……怖くない。……私を、怖がってない?)


 だが、二人のこの「奇跡的に穏やかな時間」を、周囲の観衆は全く別の視点で捉えていた。


「おい、見たか……。あいつ、あの至近距離で、彼女に『自分も手が震えている』と伝えたぞ」

「……なんて高度な心理戦だ。『俺も貴様と同じ、人殺しの手を持っている』という暗号か……?」

「しかも、彼女は自分の右手を左手で抑えた。あれは……自らの衝動を抑えきれないほどの、殺意の共鳴ッ!」


 ハルという「異物」の登場により、凛の神格化はさらなる混迷へと突き進む。

 凛はハルの優しさに救われかけ、男子たちはハルの(自称)命知らずな行動に戦慄し、そして物語の因果構造は、誰も予想だにしない方向へと、大きく「補正」され始めていた。


 凛はまだ知らない。

 自分の隣に座ったこの少年が、これから学園中の男子から「神の隣に立つ使徒」として崇められ、結果として彼女の「普通の女の子への道」を、物理的に、かつ徹底的に塞いでいくことになることを。


「……あ、あの。消しゴム、持ってたりする?」


 ハルの能天気な問いかけに、凛が再びガタガタと震え出したのは、それから数秒後のことだった。

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男性恐怖症だけど、元男子校に入学させられた件 五平 @FiveFlat

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