身を尽くしても〜平安もののけ奇譚〜

緑山ひびき

身を尽くしても〜平安もののけ奇譚〜

 近衛少将は、宮中の廊を若い足取りで軽やかに渡った。冠の下のもとどりはきちっとしている。

 

 人の出入りが多い場所でも、女房たちの居るあたりへ近づくと、空気が変わる。


 御簾が垂れた一画があった。下から色の違う衣の裾が幾つも覗いている。華やかだが、少将が注目することはない。いつものことだ。


「少将様」


 呼ばれて、少将は立ち止まった。声は御簾の内からだ。人に聞かせる調子を知っている声。


「どなたの声だ」


「越後の命婦みょうぶにございます」


 御簾の下から、扇がひとつ差し出された。扇の上に畳んだふみが乗っている。


 少将は扇ごと受け取らず、文だけを抜き取った。指が紙に触れた。冷たくはない。ふつうだ。ただ、女の物ではないように見える。


「命婦殿か。久しいな……この文はどなたのものか」


「兄のものです。見ていただければ足ります。すぐお返しくだされば」


 この命婦には以前世話になったことがある。無下にはできない。少将には、恩を忘れない清潔さがあった。

 頷き、文を開いた。命婦の兄が詠んだという歌が書きつけてある。


 君ならで 誰にか恋ひせむ 難波なる

 身を尽くしても 共にあらなむ


 少将は眉をわずかに上げた。声には出さず、もう一度目で追った。

『直すべきところがあれば、教えてほしい』と添え書きがある。


「……まっすぐな歌だな」


 御簾の内で、衣擦れがひとつ起きた。笑ったのか、息を整えたのかは分からない。


「兄が先日、送って参りました。恋歌など無縁でしたのに」


 命婦の声が続く。


「兄に良き方が出来たのなら、それでよいと思いました。けれど、それきり音沙汰がございませぬ。文も遣わさず、使いも寄越さず」


 少将は紙を畳み直した。


「兄君は藤蔵人とうのくろうど殿だったな」


「さようでございます。——身内のこと、お恥ずかしいのですが」


「私にこれを見せてどうする」


 少将が言うと、御簾の内の気配が少し固くなった。


「兄は近頃……人の顔を見ぬ、と聞きます。——それだけでございます」


 少将は文を見下ろした。紙の上の歌が、やけに乾いている。


「蔵人殿が、文も遣わさぬ」


「……はい」


 本来なら、聞き流してもよい話だ。

 だが少将は、蔵人の穏やかな顔を思い浮かべた。この歌を詠むような何があったのか、聞いてみたい気もする。


 手の中の文を、扇の上へ戻した。

 扇が御簾の中へ引かれる。


「少将様。嵯峨の君はご健勝でいらっしゃいますか」


 命婦は話題をそらした。御簾の内の空気が、さっと揺れる。嵯峨殿の名は、多くの者の琴線を動かす。


「お籠りのまま、と。けれど、あの方が居ると思えば、都も少しは安心いたします。元は……陰陽の道に連なるお方ですし」


「あれは、噂に乗るのを嫌う」


「少将様は、噂に乗らぬからこそ頼もしい」


 命婦の声が柔らかくなった。


「命婦の言葉にも、乗らないやもしれぬぞ」


「……この御簾の中から、外は何も見えませぬ」


 少将は御簾へ向き直った。御簾の下に幾つもの裾がある。どれが越後の命婦のものか、分からない。ため息交じりに言った。


「行く。今日のうちに」


 御簾の下から、今度は、布で包んだ小さな壺が二つ、押し出されてきた。


「お口汚しでございます。——甘葛あまづらにございます」


 御簾の下の裾が静かに揃った。女房たちの気配が引く。


 壺を受け取り、少将はその場を離れた。


 ⸻


 藤蔵人の邸は、都の中でも騒がしすぎぬあたりにあった。門は高くないが、手入れが行き届いている。蔵人の家らしい堅さがある。


 名を告げると、取次の者が慌てて頭を下げた。


「少将様……このようなところへ」


「蔵人殿に会いに来た。居るか」


 取次は言い淀んだ。逡巡が短く、そして重い。


「……居ります。けれど、近頃は——」


「案内しろ」


 少将が言うと、取次はそれ以上口を開かなかった。屋敷の者にとって、少将を止める力はない。


 廊を進む。障子の向こうに人の気配が薄い。家の中が働いていないというより、声を殺している。


 座敷の前で止まり、取次が声をかけた。


「殿。近衛少将様が——」


 返事がない。


 取次がもう一度言いかけた時、内側から声がした。明るい声ではない。けれど、怒気もない。妙にやわらかい。


「……入れ」


 少将は障子を開けた。


 藤蔵人が座にいた。身なりは整っている。髪も乱れていない。ひどく痩せたように見えるが、顔色も、病人ほどではない。


 ただ、目が動かない。少将が入って来たのを見ているのに、見ていないような目だ。

 かろうじて、深い礼をとる。


「久しいな」


 少将が言うと、藤蔵人の口角が上がった。笑いの形を作っただけで、頬は動かない。


「少将……わざわざのお運び、ありがとうございます。東三条様はご健勝でございましょうか」


 少将の父、東三条の右大臣について型どおりに尋ねる。


「ああ。……越後の命婦から話を聞いた。文も見た。——返事を出していないのか」


 蔵人は頷いたのか、首が揺れただけなのか判然としない。


「……忙しかったものですから」


「忙しくても一行は書ける」


 少将が軽く言っても、蔵人の表情は変わらない。蔵人は、少将の肩のあたりを見ている。


 少将は座敷を見回した。特に変わった飾りはない。香炉も、目立つ位置にはない。几帳も普通だ。


 それなのに、部屋の片隅が落ち着かない。


 蔵人の視線が、そこへ向いていたからだ。


 少将が目を向ける。


 仏像があった。観音像だ。


 台に置かれ、布をかけられている。大きさがある。家に元からある古仏、という置き方ではない。置いたばかりの形だ。周りが整っていない。


 少将は蔵人を見た。


「……それは、いつからある」


 藤蔵人は答えない。口だけが動く。


「観音様」


 誰に言っているのか分からない。少将の背中に、屋敷の者たちの気配が集まっている。皆、息を殺している。


 少将は蔵人の前へ膝を寄せた。


「蔵人。私を見ろ」


 蔵人は視線を動かさない。そのかわり、口元がもう一度上がった。


「身を尽くしても……」


 少将は言葉を止めた。蔵人が口にしているのは、あの歌だ。


 少将は立ち上がった。


 越後の命婦が危惧していたのはこのことだったか。あるいは知っていたか。

 この場で問い詰めても、蔵人は戻らない。ここで何かを壊せば、命婦が避けた「騒ぎ」になる。


 少将は取次へ向き直った。


「今は、蔵人殿を外へ出すな。独りにもするな。飯は食わせろ。水も。——越後の命婦へは、私から文を出す」


 取次は青ざめたまま、深く頭を下げた。


 少将は蔵人へ目を戻した。彼はまだ仏像を見ている。口が動く。


 少将はそれ以上聞かなかった。


 座敷を出たところで、少将は足を止めた。


 ここからは、この蔵人の家の中では片付かない。


 少将は踵を返した。


 ——嵯峨野へ。


 切れ長の鋭い目が、脳裏に浮かぶ。


 ⸻


 嵯峨野へ向かう道は、都の音が背から離れていく。牛車の輪が砂利を噛み、やがてそれさえ遠くなる。


 山荘は昼でも薄暗い。木立の下、庭の砂は踏まれていない。門の内に入ると、香の匂いが漂っていた。


 少将が名を告げると、案内は短く、言葉はない。通された先に、嵯峨殿がいた。姿勢も、手元も、動かない。後ろで無造作に縛った黒髪が静かに下がっている。見ているのかどうか分からない視線が、硯の縁に置かれていた。


「よく来た」


 嵯峨殿は、それだけ言った。


「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」


 少将は座につき、手短に説明する。


「越後の命婦の兄が妙だ。藤蔵人。文を遣さぬ。恋歌を詠んだ。ひどく痩せたように思う。邸に観音像があり、そこへ話しかけるようだった」


 嵯峨殿の目が、硯から少将へ移った。真正面ではない。少将の顔の少し脇に据えるような見方だ。


「像は、いつから」


「家人は言わない。本人も、答えが崩れていた」


「ならば、命婦に聞け」


 嵯峨殿は即座に言った。


「もとからある物か、近頃入った物か」


 少将は頷いた。


 嵯峨殿は視線を戻さずに続ける。


「近頃なら、拾ったものだ。縁が新しいぶん、深い」


 少将は息を置いた。


「どうする」


「預けろ」

 嵯峨殿は言った。

「寺へ。烏丸の僧都のところにしろ。格のある所へ置け」


 少将は頷き、懐から布包みを出し、座の端に置いた。


「甘葛だ。越後の命婦から」


 嵯峨殿は包みに触れない。けれど視線は一度、そこへ落ちた。


「乱れている」


 嵯峨殿が言って、少将の襟を一度整えた。触れたのは短い。


 少将はわずかに身を固くした。嵯峨殿の指先が冷たかった。


「……蔵人のことで、焦ったか」


 少将は答えない。答えないことが、答えだ。立ち上がった。


「命婦に聞く。——答えによっては、寺へ運ぶ」


 ――


 翌日、少将は再び宮中の廊を渡った。女房たちの居るあたりへ近づくと、昨日と同じように、声が沈む。衣擦れが騒ぐ。


 少将は、御簾の外に控えていた小舎人ことねりへ顎をしゃくった。

「越後の命婦に。少し、言づてを通せ」


 小舎人が女房に取り次ぐ。女房は頷いて、御簾の内へ消えた。


 しばらくして、御簾がわずかに揺れた。内側に人が動いた気配がする。裾が静かに揃う。


「少将様」


 越後の命婦の声だった。昨日と同じ調子だが、今日は硬い。


「昨日の続きだ」

 少将は御簾を見たまま言った。

「兄君の邸にある観音像のこと。――あれは、元からあったか」


 御簾の内で、衣擦れがひとつ起きた。息を吸う音が近い。


「存じませぬ」

 命婦は即座に言った。

「兄の邸に、そのような像はございませんでした。兄は、仏様に興味のない人です」


 少将は目を細めた。

「なら、近頃だな」


「……はい」

 命婦の声がわずかに揺れた。

「誰かが持ち込んだのでしょうか。兄が拾ったのでしょうか。――分かりませぬ。分かりませぬが……兄が、自分から求めるとは思えませぬ」


 少将は一拍置いた。御簾の内の気配が、言葉の続きを待っている。


「命婦は、動くな」

 少将は声を落とした。廊を行く足音に紛れる程度に。

「兄君のことは、私が見る。命婦は宮中に居ろ。余計な口も出すな」


 御簾の内が静まった。返事が遅れる。命婦が何かを噛み潰している沈黙だ。


「……少将様」

 命婦がようやく言った。

「兄は……戻りますか」


 少将は、すぐには答えなかった。御簾の下の裾を見ないまま、言葉だけ置いた。


「戻す」


 命婦の息が小さく漏れた。笑いではない。泣きでもない。ただ、堪えた音だ。


「……お願いいたします」


 少将は踵を返した。

 御簾の向こうの気配が、少し近くなった気がしたが、振り向かなかった。


 ――


 少将はその日のうちに動いた。


 藤蔵人の邸へ戻ると、取次の者が顔を上げた。昨日よりも暗い。


「蔵人殿は」


「……座敷に。変わらず……あの像のそばに」


 少将は頷き、供の者に短く言った。


「牛車を。寺へ運ぶ」


 取次が目を見開く。


「寺へ……?」


「預ける。——烏丸からすまの僧都のいる寺だ。手配は済ませた」


 少将が言うと、取次の肩がほんのわずか落ちた。救いの言葉に似ている。だが、その救いが屋敷の主の望みではないことも知っている顔だった。


 座敷へ入ると、蔵人は同じ場所にいた。観音像の前。視線がそこに縫い留められている。


 少将は、座敷の空気を吸ってから声を出した。


「蔵人殿。寺へ行く」


 蔵人の目が動いた。少将ではなく、像へ。口元がゆっくり上がる。


「観音様を、お移しするのか」


「預ける。——しばらくの間」


 蔵人は頷いた。拒む気配はなかった。


「なら、私が持つ」


 少将は一瞬、言葉を選び損ねた。蔵人の声は穏やかだった。


「重いぞ」


「構いませぬ」


 藤蔵人は立ち上がり、布を外した。観音像の姿が現れる。木肌の古さはない。艶がある。新しいものが、古いふりをしている。


 蔵人は像を抱え上げた。腕の中で、像が妙に静かだ。



 寺の門前に出ると、迎えの僧がすでに立っていた。声をかけずとも通じる、という顔をしている。


「近衛少将殿」


 牛車を下りると、僧が頭を下げる。少将も浅く返す。


「烏丸の僧都は」


「お待ちでございます」


 僧に導かれ、堂の奥へ進む。沈んだ匂いだ。人の足音が吸われる。


 奥に、僧都がいた。


 僧都は像を見た。少将ではない。蔵人の腕の中を見る。


「……こちらへ」


 声は小さい。けれど、堂の空気がそこで切れた。


 蔵人は、にこやかに首を傾けた。


「では、このまま持ち帰ります」


 少将は思わず、蔵人を見た。言葉は丁寧なのに、筋が通っていない。口角が上がっている。


「蔵人殿」


 少将が名を呼ぶと、蔵人は少将を見ない。像の頬のあたりへ言葉を落とす。


「……すぐ戻る。すぐ」


 僧都がもう一度言った。


「像はこちらへ」


 僧が一歩進み、像へ手を伸ばした。


 その瞬間だった。


 蔵人の肩が跳ねた。穏やかさが、急に破れる。像を抱えた腕に力が入り、布が軋んだ。


「触るな」


 声が変わった。低い。怒りというより、押し返す力がある。


 僧が手を引きかけた。だが蔵人はそのまま後ろへ下がろうとする。堂の柱に背が当たり、像の台座がかすかに鳴った。


 少将は踏み込んだ。


「蔵人!」


 返事はない。蔵人の目が、像の顔を追う。口が動く。


「遠くまで悪かったですね。帰りましょう」


 少将は蔵人の背後へ回り、腕を取った。羽交い締めにする。抱えた像が傾く。供の者が支えようと手を出しかけたが、少将は声で止めた。


「像には触るな」


 供の者二人が蔵人の腕を押さえた。蔵人が暴れる。貴族の暴れ方ではない。衣が乱れ、息が荒くなる。けれど声は上がらない。声のない叫びがある。


 僧都が動いた。歩みは遅い。遅いのに、堂の誰もが道を空ける。


 僧都は像に手を添えた。掴むのではない。押さえるでもない。ただ、そこに触れた。


 蔵人の身体が一度、強く反った。


「——」


 声にならないものが喉で砕ける。次の瞬間、力が抜けた。膝が折れ、少将の腕の中へ落ちる。


 気絶だ。貴族らしい、落ち方だった。息はある。目は閉じたまま、口の端だけがわずかに上がっている。


 少将は蔵人を床へ横たえ、顔を覗いた。呼吸は整い始めている。汗が冷たい。


 僧都は像を受け取った。抱え上げるのではない。僧が脇に付き、台座ごと堂の奥へ運ぶ。


 少将は立ち上がり、僧都へ向き直った。


「頼む」


 僧都は頷いた。


「預かります」


 それだけだ。


 少将は蔵人を抱え上げた。軽くはない。だが生きた人の重さだ。供の者が手を貸し、蔵人を牛車へ乗せる。


 帰り道、車輪の音がやけに大きい。都へ戻るほど、人の声が増える。増えていくのに、少将の耳には入らない。


 蔵人は眠ったままだった。

 少将はその顔を見下ろし、指先の感覚を確かめた。


 僧都の手が像に触れた瞬間の、堂の空気。

 蔵人が落ちたときの、あっけなさ。


 少将は、蔵人の邸の門が見えたところで、息をひとつ吐いた。


 ——ここからだ。


 ⸻


 蔵人の邸へ戻ると、屋敷の者たちは忙しく動いた。


 蔵人は座に寝かされ、息をしていた。目は閉じたまま、まぶたの下で眼がわずかに動く。


 少将は座敷の隅を見た。


 像は、ない。


 台だけが残っている。布もない。その空が、座敷の形を変えている気がした。


 少将は供の者を下がらせた。

「離れすぎるな。廊の端にいろ」

 それだけ言う。命令というより、頼みの調子になったのが自分でも分かった。


 座敷には、少将と蔵人だけが残った。


 少将は座に腰を下ろし、待った。何を待つのか分からないまま、待つしかなかった。


 しばらくして、蔵人の喉が鳴った。息の道が戻る音だ。まぶたが震え、ゆっくり開く。


「……少将」


 声が出た。人の声だ。薄いが、筋がある。


「気がついたか」


「はい……」


 蔵人は起き上がろうとし、すぐ止めた。頭が重いのだろう。首が前へ落ちる。髪が乱れた。


 少将は手を出しかけ、出さなかった。触れた瞬間に、何かが変わる気がした。


「寺へ行った。僧都に預けた。像は——もうここにはない」


 蔵人は少将を見ない。少将の肩のあたりを見ている。昨日と同じだ。


「……観音様は」


 言い方が丁寧すぎた。蔵人の言葉が、自分の言葉ではないように聞こえる。


「預けた」


 少将は同じ言葉で返した。繰り返すしかない。


 蔵人は頷いた。頷いたのか、首が揺れただけなのか、また分からない。けれど次の息が整っていくのが見える。


 だが蔵人は、口角を上げた。


 少将は、足の裏の感覚が変わるのを覚えた。


 まだ蔵人の焦点は、この世に戻ってきていない……。


 供の者の気配が廊の向こうにある。近いはずなのに遠い。


 少将は声を低くした。

「蔵人。私を見ろ」


 蔵人はゆっくり首を動かした。少将ではなく、その横を見る。少将の背の後ろだ。


 少将は、振り向かないまま、目だけを動かした。


 座敷の片隅。


 そこに、観音像があった。


 少将の息が止まった。


 蔵人は、安心したように目を細めた。安心という言葉に似ているのに、人のそれではない。


「……お戻りになった」


 少将は声が出なかった。喉の奥で言葉が詰まる。


 蔵人は像へ寄った。足取りはふつうだ。よろめきもしない。少将が止めるより早い。


 蔵人は像の前に膝をつき、顔を上げた。話しかける距離だ。声を落とす距離だ。


「置いてゆくから、戻られたのですね」


 少将は、ようやく息を吐いた。吐いた息が冷たい。座敷の中の温度がどこかずれている。


 蔵人は続けた。


「……もう、どこへもお移ししませぬ」


 少将は一歩動こうとして、足が止まった。自分の足なのに、言うことを聞かない。膝の裏が硬い。


 蔵人が、像に向かって小さく笑う。頬は動かない。口角が上がる。


「怒っておられますか」


 少将の背中に汗が浮いた。恐ろしいのは像ではない。何かの声が、像から返ってくる気がすることだ。返ってきていないのに、返ってくる気がする。


 蔵人が首を傾けた。像の沈黙へ耳を寄せる仕草だ。


「……そうですか」


 少将は、自分の舌が動くのを確かめるように言った。

「蔵人。その像に近づくな」


 蔵人は少将を見ないまま、静かに言った。

「少将には、分からぬでしょう」


 言い方が、蔵人のものではない。


 少将は袖の中の指を握った。爪が掌に食い込む。痛みで身体を繋ぎ止める。


 像は動かない。


 動かないのに、座敷に「いる」。


 少将は、廊へ向けて声を出した。自分の声が自分のものに聞こえない。


「人を——来い!」


 廊の気配が跳ねた。足音が走り寄る。


 その瞬間、蔵人が像へ額を寄せた。額が木に触れるか触れないかの距離で止まる。


「すぐ戻る、と申しました」


 少将の目が揺れた。寺の堂で、蔵人が何かを口にしていた。あのときの言葉が、いま座敷で続いている。


 障子が開く音がした。供の者が入ろうとする。


 少将は振り向かずに言った。

「入るな。そこにいろ」


 供の者の足が止まる。障子の隙が残ったまま、息が聞こえる。


 少将は、蔵人と像を見たまま、口の中で決めた。


 ここでは片付かない。


 嵯峨野へ。嵯峨殿のもとへ。


 ⸻


 牛車は嵯峨野へ向かって走った。

 夜に入る手前の道はまだ人の気配が残っているが、少将の耳には何も入らない。蔵人の邸で見たものが、まだ目の奥に張りついている。


 山荘の門前で、少将は車を降りた。名を告げる前に、戸が開く。いつもながら、嵯峨殿は、少将が来ることを分かっていたかのようだった。


 座に入ると、硯も紙もそのままだった。昼に別れた時と、何も変わっていない。


「……それほどか」


 嵯峨殿が、少将の顔を見てそう言った。

 少将は、返事の代わりに一歩前へ出た。


「戻っていた」


「仏像が?」


「ああ。寺へ預けた、その日のうちだ。——音もなく、蔵人の座敷に」


 嵯峨殿の目が一度だけ伏せられた。考えているのではない。確かめている。


「蔵人は」


「仏像に話しかけていた」

 少将は言葉を選ばなかった。

「……仏像に向ける声ではなかった」


 嵯峨殿は黙って聞いている。少将が言い終わるまで、口を挟まない。


「寺へ預けても戻る、か。——縁が、切れていない」


 嵯峨殿の声は低い。


「では、どうする」


 少将は真正面から問うた。


 嵯峨殿は少将を見た。今度は、肩の奥ではない。少将の顔を、はっきりと。


「燃やせば、あるいは」


 少将の喉が鳴った。

 仏像を燃やす。寺に預けるよりも、はるかに強い言葉だ。


「……それで、蔵人は助かるのか」


 嵯峨殿は、すぐには答えなかった。硯に残った墨を見る。


「蔵人次第だ」


 少将は唇を噛んだ。

「私は、助けたい」


 嵯峨殿は目を上げた。


「知っている」


 短い言葉だったが、否定はなかった。

 嵯峨殿は静かに言った。


「力の強い者を用意させろ」


 少将は一瞬目を伏せ、それから顔を上げた。


「燃やす以外に、道はないのか」


 嵯峨殿は少将を見たまま、首を振らなかった。

 頷きもしなかった。


「あるかもしれぬ。だが——」


 嵯峨殿は言葉を切った。


「いまの蔵人に、待つ時間はない」


 少将は、それ以上問わなかった。

 嵯峨殿がここまで言うときは、もう答えが出ている。


「戻ったら、話す」


 少将は山荘を出た。

 迷わず、蔵人の邸へ向かう。


 燃やすと決めた夜だった。


 ⸻


 山荘を出ると、もう日が落ちていた。

 少将は牛車に乗り込むなり言った。


「蔵人の邸へ戻る。急げ」


 御者が短く返し、車輪が跳ねた。

 少将は揺れの中で息を数えた。蔵人の座敷の片隅。床に直に据えられた観音像。


 邸に着くと、取次が走り寄って来た。顔色が悪いまま、口を動かす。


「少将様——殿が、また」


「言うな。案内しろ」


 座敷へ入る。

 仏像は、あった。さっき見た位置から一寸も動いていないように見える。

 蔵人は像の前にいる。たった少しの間で、さらに痩せたように見える。顔の表情が薄い。


 少将が近づくと、蔵人が話す声が聞こえる。


いとほしい……愛ほしい」


 蔵人は、観音像を両手で撫でまわし続けている。


 少将は、取次へ目を向けた。


「僧都を呼べ。今すぐだ。近衛少将が呼んでいると伝えよ」


 取次が青い顔のまま頷き、走る。


 少将は次に、供の者たちへ言った。


「人を集めろ。腕の立つやつ。口の堅いやつ」


 供の者が顔を見合わせ、すぐ散った。

 少将は蔵人と像を視界に入れたまま、座敷の外へ出た。



 僧都が来たのは夜も更けてからだった。

 供の僧も連れている。衣が擦れる音が静かで、邸の空気がそれに合わせて薄くなる。


 僧都は挨拶を長くしない。少将の顔を一度見て、すぐ庭を見た。薪が積まれているのを見ると、何も聞かずに頷いた。


「場所を」


 少将は庭の端を指した。

「ここで頼む。……蔵人には、『清め』と言ってある」


 僧都はそれ以上訊かない。

 供の僧が場を整え、薪が組まれ、火床が作られる。護摩が焚かれる。粉と木片が落とされ、煙が立つ。匂いが濃くなるほど、庭が現実の場所でなくなる気がした。


 蔵人は像のそばを離れなかった。

 離れないまま、庭の支度を眺めている。


「火を焚くのだろう」


 蔵人が穏やかに言う。

 少将は頷かなかった。頷くと嘘が形になる。


 像が庭へ運ばれる。

 運ぶ者の息が乱れる。像は重い。この重い像を、蔵人は寺まで運んでいたことを思い出す。


 僧都が火を入れる。


 薪が鳴る。像の台座で護摩の煙が上がる。

 炎が形を持つまで、僧都は何も言わない。口を動かさず、ただ手を合わせる。


 像の足元に火が触れた瞬間、蔵人の顔が歪んだ。


「騙したな」


 声が低い。震えない。

 怒りというより、痛みの形に近い。


「騙したな……!」


 蔵人が像へ駆け出す。

 少将が身を投げ、同時に周りの者が絡みつく。腕が何本も重なる。衣が乱れ、砂が跳ねる。


 蔵人は、顔いっぱいに口を開け、声を限りに叫んだ。


「騙したな! 騙したな!」


 同じ言葉が、庭を回る。

 回り続ける間に、像は燃える。木が爆ぜ、艶のある面が割れ、煙が厚くなる。熱が押し返してくる。


 蔵人の声が、少しずつ小さくなった。

 やがて息が混じり、息だけになり、静かになる。


 僧都の声が低く続く。言葉の意味は追えない。音だけが庭に残る。


 蔵人の目が、ふっと戻った。

 焦点が人に合う。


「……少将」


 少将は喉の奥が緩むのを押さえた。

 気が抜けると、今までの手が全部遅れる。


「戻ったか」


 蔵人は頷いた。

「はい……ご迷惑を」


 言葉が整う。礼の形になる。

 周りの者たちが、ようやく手を離した。庭の空気が一息つく。


 蔵人が立ち上がった。


「歩けます」


 少将が手を伸ばすより先に、蔵人は一歩踏み出す。

 迷いがない。


 炎のほうへ。


「おい」


 少将が声を上げた瞬間、蔵人が走り出した。

 口元が上がる。頬は動かない。


「いま行くぞ、いま」


 少将の伸ばした手が蔵人に届くより先に、力の強い者が少将を抱き止める。少将の足が砂を蹴り、空を踏む。


「蔵人殿!」


 呼ぶ声しか、蔵人に届かない。

 少将は、周りの者たちに力づくでその場に縫い留められる。

「危ないです!」


 蔵人は炎に入った。


 声は出ない。

 火が衣を舐め、身体を包み、形を奪っていく。


 少将の目の前で、蔵人は崩れた。

 崩れたものが、瞬く間に粒になって煙になって、空へ散る。


 庭に残ったのは熱だけだ。煙の匂いが重い。


 僧都の経をつむぐ声だけが響いた。


 やがて、僧都の声が止む。


「――しまいです」


 少将は頷けなかった。


 彼を抱き止めていた腕が、ゆっくり緩む。

 少将は立ったまま、燃えた場所を見た。そこには何もない。像も、蔵人も、形がない。


 僧都は少将のほうを見ないまま、淡々と言った。


「一緒に、連れて行きましたな」


「……戻らないのか」


 僧都は答えない。

 代わりに、供の僧へ小さく合図を出した。片付けが始まる。人の動きが現実を戻す。


 少将はその中で、ひとり、動けずにいた。

 火の跡を見ているうちに、蔵人の声が戻ってくる。


『身を尽くしても……』


 少将は、顔を上げた。


 明日、宮中で越後の命婦へ何と言うか。

 それだけは、まだ決められなかった。

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