香木

沙華やや子

香木

「森に帰るだけだよ」


 彼は、賑やかなカフェで麗しい愛未まなみに向き合っている。

 コーヒーカップをソーサーに置き、静かにそう言った。


 彼は熊ではない。

 人間で、名はたもつ。木こり、林業従事者だ。

 先祖代々守っている山の中、自分で建てた家に一人暮らしている。


 では「帰る」とはどういう意味か。


 それは、恋人である愛未にもう逢わないということだ。


 別れを切り出したのは愛未だが、愛未のほうがボロボロと涙をこぼし、保は無表情だ。


 ここ渋谷のカフェには、はしゃぐ女子高校生に、熱々カップル……活気のあるムードが漂っており、愛未と保の席だけが、小劇場のステージのようだ。

 演目は『切る』。

 今まさに、スポットライトを浴びた二人の、5年に渡る愛が終わろうとしている。縁が切れようとしているし、彼の仕事は木を切ること。


「愛未、新しい恋人と幸せになって」

 保は膝の上に、軽く握った拳を2つ置き穏やかに言う。


 声にならぬ声で「ごめんなさい」とグチャグチャになったお化粧で愛未が告げる。


「じゃあオレ、行くよ」

 保は席を立った。


 震える肩で泣くと、涙はスカートの上に次々落ちて行く。動けない愛未。


 駆け寄り手を伸ばせば、まだ触れられる距離。


 別れるその瞬間まで愛未は保を愛している。

 でも、二股をかけるなど到底出来っこない愛未だ。


(温かく大きな背中に、最後に一度だけ触れたい)


 願いは叶わぬまま、保が雑踏に消えた。


 

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香木 沙華やや子 @shaka_yayako

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