後編



 それから、数年という月日があっという間に過ぎた。

 僕は、範田さんと恋人同士になっていた。

 ……もちろん、彼女の父親も同伴の関係だ。



「ただいまーー」


「お帰りなさい……随分……その……遅かったね……」


 会社の付き合いで僕は飲んでいた。帰ってきた時には夜遅くになっていた。

 正直、酩酊している。


「あ、あの……吉田くん……ご飯は……?」


「あー……食ってきた。風呂入って寝る」


「そ、そう、そっか……あ、あの吉田くん」


「んー?」


「あ、あの、あのね、遅くなる時は、あの、えっと……」


 彼女はモジモジしながら僕に何かを訴えているが、酩酊している僕には正直言葉が入ってこなかった。


「何」


「あー、ううん。なんでもないの。大丈夫。うん」


 僕の前で必死に作り笑いをする範田さん。

『なんでもない』事はないのは解っているし、申し訳ないとも思う。

 でも仕方がないことだってあるのだ。


「……ごめんけど水もらえる?」


「う、うん! お水だね! ちょっと待って……」


 その時である。

 彼女の右手が勢いよく僕の顔面に向かって飛んできたのだ。


「どえええ!!」


 まるでロケットパンチだ。血管の浮いた範田さんの右手が、何度も、何度も僕にゲンコツを食らわせてきた。

 めちゃめちゃ痛い。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 次からちゃんと遅くなる時は連絡します!! ほんとごめんなさい!!」


 それ以来、僕は外で飲まなくなった。


 * * * * *


 ある晩の事だ。

 そろそろ結婚を、という時期である。

 範田さんは全くお酒が飲めない。

 なのに僕と晩酌がしたいのだと突然提案してきた。


「……飲めないんだよね?」


「うん。全く。でもパパが……」


「……あー」


 範田さんの右手が僕に酌をしてくれたので、僕も、お父さんのグラスにお酒を注いだ。


「か、乾杯」


 全く飲めないと言った範田さんは一口でお酒を飲み切ると、右手が離れた。

 そして、グラスの前で小刻みに震えていた。


 なんだか、泣いているように見えた。


「パパ……」


 ……僕は範田さん以外の女性と交際をしたことがないが、ここまで相手の親に干渉される恋愛というのは他にあるだろうか?

 僕がいて、範田さんがいて、二人の間には彼女のお父さんがいる。


 そして僕に至らない点があったら、『親父のゲンコツ』が飛んでくる。

 

 僕は恋人関係なるものがよく分からないが、こんなカップル他にいるだろうか?



 お父さんは、お風呂は彼女と一緒に入っているようだが、彼女と僕の『そういう行為』の時は離れてもらっている。

 しかし、行為の最中、リビングのテーブルをキーキーと引っ掻いているのが気になる。


 そしてその晩はだいたい、気まずいのか姿を見せてはくれなかった。



* * * * *





 お父さんとは毎日会っているが、彼女のお母さんに会うのは実は初めてだ。

 彼女の手も、やはり右手がアンバランスにゴツかった。やはり家系なのだろうか。

 



* * * * *




 結婚式当日は、本来父親と二人で歩くというヴァージンロードを、彼女は『見た目は』一人で歩いてきた。

 その代わり彼女のウェディングドレスを、愛おしそうに右手が摘んで歩いていた。

 その姿は少し恥ずかしそうで、だけど満足そうで、そして右手は少し寂しそうだった。


 ところで彼女の親族は、不思議な事に女性ばかりだった。

 そして、皆左右の手の大きさが違っているように見えた。



* * * * *


 僕達の間に子供が産まれた。

 いざ出産の時は範田さんの右手は、腕から離れ、何度も彼女の顔の汗を拭っていた。


 僕が妻が苦しんでいる姿に目を伏せると、右手は飛んできてビンタしてきた。


「目を逸らすな、ちゃんと見ろ」


 右手はそう訴えてきた。


 赤ん坊が生まれてくると、右手は飛び跳ねた。そこらじゅうに飛び跳ねた。

 そして僕と何度も握手した。


「パパ! 戻ってよ!! パパがいないと抱っこできないんだから!!」


 範田さんが怒ると、バツが悪そうに、彼女の右腕にお父さんは戻っていった。



* * * * *


「ご苦労様。喉乾いたでしょう? あなた。お茶です」


「おお、すまんすまん。ぷはー」


「……ねえ、今日、ようやく娘が立ったんです。あなた」


「そうか! これから大変だぞ!? この時期の子が大変みたいだからね」


「そうですね……」


「ああ、いつまでこの子は『パパ大好き』って言ってくれるかなあ」


「……多分、ずっと言ってくれますよ。あなた」


「だといいな。……あれ……」


「どうしました?」


「なんだか、体が痺れるな。……あれ、痺れるぞ?」


「大丈夫ですか?」


「あれ……あれ……痺れるな。あれ……動けないぞ……?」


「しっかりしてくださいな」


「動けない!! い、息も……ぐぐぐ……」


 そして視界が暗転していく。暗闇の中で、ああ『あの時』

 彼女にお父さんを紹介された『あの時』にどうしてもっとちゃんと説明を聞いてなかったんだろう。僕は。と思った。

 思ったけれど、もう遅かった。僕はこうなる運命を、あの時受け入れていなければならなかったんだろう。


 何にせよ、もう全てが遅かった。


 暗闇の中で、彼女の声が響いてくる。


「あなた、しゃんとしてくださいよ。

 これからあの子は、『手がかかる時期』なんですから」







   範田さんの右手。了


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範田さんの右手 SB亭moya @SBTmoya

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