第5話

 鏡の前に立った。


 照明はすべて点いている。

 それでも、鏡の中は少し暗い。


 映っているのは、私だ。

 少なくとも、形は同じ。

 けれど、動きが合わない。


 私が瞬きをすると、鏡の中の私は、ほんのわずかに遅れる。

 呼吸を整えると、向こうは先に胸が上下する。

 誤差。

 そう呼ぶには、意味がありすぎる。


 あいつは、私の顔で私を見ていた。

 観察する目で。

 評価する目で。

 私は、ゆっくりと手袋を外した。


 布が皮膚から離れる感触が、やけに明瞭だった。

 指先が、軽い。

 境界が、薄い。

 鏡に近づく。

 呼吸は、もう合わせない。


 むき出しの指を伸ばす。

 触れたくない、という感覚はある。

 でも、それは「禁止」ではなくなっていた。


 私は、鏡の中のあいつの頬に触れようとする。

 冷たい。

 硬い。

 鏡だ。

 その瞬間、曇りが広がった。

 私の指の形が、はっきりと残る。

 けれど、それは私の指紋じゃない。


 見慣れた質感。

 拒絶。

 嫌悪。

 判断。

 他人の曇り。

 私は、じっとそれを見つめた。


 ――なるほど。


 ここは、触れてはいけない場所だった。

 だから、曇りが残る。

 私は、拭かなかった。


 代わりに、一歩引いて、全体を見る。

 鏡の中央。

 頬の高さ。

 少し右寄り。

 私は、位置を覚えた。

 部屋を見回す。

 ドアノブ。

 スイッチ。

 引き出し。

 床。

 壁。


 曇りは、無秩序に広がっているようで、よく見ると、偏りがあった。

 触れる前。

 迷った場所。

 一瞬、躊躇した位置。

 私は、ゆっくりと歩きながら、それらを確認していく。


 ここは、拒絶。

 ここは、判断。

 ここは、まだ何もない。

 頭の中で、分類が始まる。


 洗面台のカミソリを見る。刃の付け根にこびりついた曇りは、相変わらずそこにある。鏡の中のあいつは、それを手に取れと言わんばかりに私を見下ろしている。


 私は、その曇りを拭わなかった。今はまだ、その判断を採用する時ではない。ただ、そこにあることを把握しておくだけでいい。


 拭く必要はない。

 消す必要もない。

 これは汚れじゃない。


 私は、鏡の前に戻った。

 さっきの曇りの隣に、指を置く。

 今度は、ためらわずに。

 曇りが、また増える。

 重なり合う。

 線になる。

 境界が、太くなる。

 私は、少しだけ安心した。

 配置が揃っていく。

 意味が見えてくる。


 ――そうか。


 私は、ずっと間違えていた。

 清潔にする必要なんて、なかった。

 無色にする必要も。

 必要だったのは、管理だ。

 どこに触れていいか。

 どこに触れてはいけないか。

 どこで迷ったか。

 それを、私が決める。

 いや。

 鏡の中のあいつが、決める。


 あいつはもう、私の動きを待ってはくれない。

 私が指を動かすより先に、鏡の中の指が動く。それは未来予知ではなく、あいつが私の主導権を握り始めた合図だ。

 私はそれを、安らかに受け入れた。自分で自分を決める苦痛に比べれば、あいつの拒絶に従う方が、ずっと清潔でいられるから。


 明日になれば、また外に出て、他人の汚い曇りに晒されるだろう。けれど、もう怖くはない。

 私の中のあいつが、どれを避け、どれを無視すべきか、曇りを通して教えてくれる。私の世界は、完全に選別されるのだ。

 私は、その判断を採用すればいい。


 鏡を見る。

 あいつは、もう遅れない。

 私が動く前に、視線が動く。

 嫌悪の色が、わずかに濃くなる。

 そこは、触らない。

 私は、従った。


 ​部屋の中に、秩序が生まれる。


 曇りは増えていく。

 でも、無秩序ではない。

 私の家は、私の拒絶で満たされていく。

​ 誰にも触られない。誰の判断も混じらない。

 私は、鏡のあいつが示した「触れてはいけない場所」を避け、安全な空白だけに身を置く。


​ 私は床に座り、壁にもたれた。

 静かだ。

 濁りはある。けれど、それは耐えられる濁りだった。


 私は、初めてはっきりと理解した。

 一番、触れたくなかったのは、私だった。

​ 私は、曇りに囲まれたまま、ゆっくりと目を閉じた。


 意識が薄れる境界で、鏡の向こうにいる「もう一人の私」に、この部屋の、この人生の管理をすべて委ねる。


​ 私はもう、目を開ける必要すらない。

 あいつが、私の代わりに世界を評価し、睨みつけ続けてくれるのだから。

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曇りなき聖域 未人(みと) @mitoneko13

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