第4話

 照明を点けっぱなしにしているのに、部屋は暗かった。


 光が足りないわけじゃない。

 視界のどこかが、常に曇っている。

 私はソファに座り、膝を抱えた。


 指先を見ないように、強く組む。

 見れば、また“距離”を思い出してしまう。

 胸の奥が、むず痒い。

 皮膚の内側を、知らない手でなぞられているみたいな、不快な感覚。


 ――思い出したくない。


 けれど、こういう時に限って、過去は勝手に浮かび上がる。

 私は昔から、人の感情が嫌いだった。

 正確には、人が自分を正当化する瞬間が、耐えられなかった。


 苛立っているのに、余裕のふりをする。

 嫉妬しているのに、無関心を装う。

 自分の醜さに気づきながら、それを「仕方ない」で塗り潰す。


 吐き気がする。

 私は、ああいう人間になりたくなかった。

 だから、決めた。

 私は、ちゃんとしていよう。

 汚い感情は、持たない。

 湧いたら、無視する。

 感じたら、なかったことにする。

 怒らない。

 妬まない。

 見下さない。


 そうすれば、清潔でいられる。

 そうすれば、まともでいられる。


 ――少なくとも、他人よりは。


 その考えが浮かんだ瞬間、喉の奥がきしんだ。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 洗面所の鏡が、視界に入る。


 曇っている。


 それも、雑に付いた曇りじゃない。

 何度も、何度も、同じ場所に押し当てられた痕。

 私は立ち上がり、近づいた。

 嫌だと思うのに、目を逸らせない。


 指紋が、無数に重なっている。

 それは単なる汚れではなく、鏡の中の自分を、その顔を、必死に消し去ろうとして爪を立て、指を這わせた執着の跡だった。

 その無秩序な重なりが、私の脳内で不吉な形を結び、意味を持ってしまった。


――キモチワルイ。


私が私に、鏡越しに吐き捨てた叫びが、そこに刻まれていた。


 私は、息を吸うのを忘れた。

 ――気持ち悪い

 ――見るな

 ――触るな

 ――最低

 ――そんな自分、いらない


 視界が歪んだ。

 知っている言葉だ。

 何度も、頭の中で繰り返してきた。

 失敗した時。

 嫌な感情が浮かんだ時。

 他人を見下したことに気づいた時。

 私は、心の中で、こう言ってきた。


 気持ち悪い。

 そんな自分、消えろ。


 胃が、ひくりと痙攣した。

 これは、誰かから向けられた言葉じゃない。

 呪いでも、メッセージでもない。

 私が、自分に浴びせ続けてきた唾だ。

 気づいた瞬間、胸の奥で、何かが剥がれた。

 曇りは、他人の感情じゃない。


 分かっていたはずだ。

 本当は、他人の感情が見えるなんて、そんなのは思い上がりだ。

 私は他人の指紋に、自分の中にある『醜さ』を投影して、それを拒絶することで自分の輪郭を保っていただけ。

 私が街中で見てきたあの汚い曇りも、その半分は、私自身の嫌悪感が作り出した幻影だったのかもしれない。


 そして、私が必死に切り捨ててきたもの。

 怒り。

 嫉妬。

 軽蔑。

 他人と同じであることへの恐怖。


 私は、それらを「こんな感情を持つ人間になりたくない」という一言で、まとめて排除した。


 感情ごと、自分を捨てた。

 だから、残った。

 曇りとして。


 鏡の中の自分が、私より先に口角を下げた気がした。

 ほんの一瞬。

 その顔は、嫌悪に満ちている。

 まるで、汚物を見るみたいな目で、私を見ている。


 ぞっとした。

 あれは、私だ。

 私が一番、嫌いな私。

 私が一番、見たくなかった私。

 自分を管理し、清潔であろうとし、醜さを切り捨て続けた末に完成した存在。


 私は後ずさり、洗面台に手をついた。

 指先の感覚が、また遅れる。

 境界線は、もう曖昧だ。


 どこまでが「私」で、どこからが「排除した私」なのか。

 この部屋は、もう聖域じゃない。

 ここは、廃棄したものが戻ってくる場所だ。


 私は、初めてはっきりと思った。

 この先、起きることは――

 誰かに壊される話じゃない。


 自分を嫌い続けた、その続きだ。

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