だあれが殺した?――「わたしが殺した」
りんごあめ
第1話
祈祷の鐘が鳴ってから、僕はようやく羽織を探した。
いつも同じところに置く、と誓った翌日に忘れる。
それでも写本の誤字だけは見逃せない。そこだけは性分だ。
ここは修道院。
朝は祈りで始まり、昼は静けさが続き、夜は灯りが落ちる。僕ら見習いは、その隙間に仕事を差し込まれる。水を汲み、床を拭き、蝋を足し、薬草を運び、紙を数え、古い本の傷みを確かめる。
今日も、そうやって始まるはずだった。
その朝、城下の石畳が雨を吸い、火皿の匂いが霧に溶けていた。
修道院附属の写本室で見習いをしている僕──エセルは、「記録が要る」と城から求められ、院長に連れて行かれた。
「歌い手が死んだ。異端の呪いだと言う者もいる。……だが、まずは確かめろ」
使いの声は、息が上ずっていた。
呪いという言葉は、噂として回るのが早い。
死んだのは、ルーヴェン。
城下の連中は彼を“赤胸(あかむね)”と呼んだ。
胸に赤い飾り布をつけて歌うからだとも、自分の歌に酔って胸を張るからだとも言われた。
宴の席で王侯の機嫌を取る、声のよい吟遊詩人。
貴婦人にも兵にも同じように微笑み、同じように歌って、同じように煙たがられる。そんな男だった。
小礼拝堂の脇室に、遺体が寝かされていた。血は出ていない。
胸元の衣が少し乱れ、喉が僅かに硬直している。顔は青白いが、苦悶というよりも、何かを見て固まった顔だ。
口元に、ほんの僅かに乾きかけた白い泡。
舌先も乾いていた。
胸元を掴んだ指が、固まっていた。
急に息が詰まった者の形だ。
「外傷は目立たない。……急に倒れたようだ」
そう告げると、城付きの警備兵が眉を寄せた。
「元から心臓は弱かったらしいからな……酒場の連中が言ってた」
別の兵が、待ってましたとばかりに口を挟んだ。
「夜明け前から噂だぞ。黒い猫が通った後に、礼拝堂で“赤胸”が胸を押さえて、そのまま倒れたってさ。黒猫は縁起が悪いって言うだろ」
兵の視線の先、窓辺に黒猫がいた。
煤を練ったような毛並み。金の目。首輪はない。
ただ、爪が妙に整って見えた。
獣の爪にしては、角が揃いすぎている。つやもある。
野良の爪じゃない。誰かが手を入れている。
黒猫は、こちらを気にするでもなく、ひとつ欠伸をして尾を揺らした。
祈祷と納棺の支度で、人の出入りは多く、足音だけが増えていた。布や紙が散っていて、礼拝堂は“片づく前の部屋”みたいだった。
僕が遺体の首元を確かめたとき、そこに一本だけ、赤い線が見えた。
爪で引っ掻いたような線。
皮膚は少し赤い。出血はない。だが、縁が濡れたように光っている。油脂の薄い膜。
「掻かれたのか……?」
「ああ、猫だ」
兵が勢いよく頷いた。
けれど、掻き傷は一本だけだ。猫が暴れたなら、もっと傷は増える。それに、あの爪の整い方が頭から離れない。
そのとき、遺体の枕元の布が人の出入りに押されてずれた。
祈祷文に紛れるような薄い紙が、一枚だけ滑り落ちた。
文字は上手い。
写本室の者が見れば分かる、筆の運びの良さがある。
ただ、わざと崩している。子どもが真似したみたいに、角度だけが乱れている。
僕は紙片を広げた。
⸻
だあれが殺した 赤胸ルーヴェン?
「それはわたし」と スズメが言った──
わたしの弓で わたしの矢羽で
わたしが殺した 赤胸ルーヴェン
⸻
「……誰がこんなものを」
兵が十字を切った。
僕は紙片を戻さず、周囲を見た。
遺体の肩口に、羽根が一本だけ引っかかっていた。
矢羽根の切れ端。羽根の先だけが引っかかっている。
矢羽根を整えるときに出る、細い屑の形だった。
こんな場所に落ちるものじゃない。
さらに、遺体の指先の近くに小さな皿があった。
香油の皿にしては安っぽい。色も剥げている。
底に、白い粉が薄く残っていた。蜜蝋の匂いがした。
誰かが、意図して置いている。
気づいた途端、背中が薄く冷えた。
これは呪いじゃない。
話を“それっぽく終わらせる”ために。
***
最初に見つけたという門番は、同じ話を何度も繰り返した。
……いや、同じ“つもり”で、少しずつ形を変えていた。
「夜明け前だ。礼拝堂の前で、黒猫が鳴いていた。中を覗いたら……」
「黒猫が鳴いた?」
僕が顔を上げて尋ねると、門番は口を半分開けたまま止まった。
「いや……鳴いたかどうかは……」
目が泳いで、言葉が落ちる。
「気配だ。ほら、あの感じ。嫌な予感ってやつだ」
予感という言葉は便利だ。
外れた時に責任を取らなくていい。
「門番さん。黒猫は、どこにいた?」
「扉の前だ。……いや、窓の下だったかもしれない」
礼拝堂の空気が、そこで少し冷えた。
黒猫が“見えた”のか、“見たことにした”のか。
境目が揺らいだ。
「俺は……見てない。見てないが……あれがいたんだ。黒いのが。だから……」
門番の口が、もう一つ余計なものを吐いた。
「……それと、宴の帰りに“赤胸”が胸を押さえてたのを見た。酒が入ると、あいつ、よくそうしてた。笑いながらな」
門番はそれ以上を言わず、視線だけを礼拝堂の窓のほうへ逃がした。
***
城の
「毒の可能性は?」
僕が切り出すと、老いた薬師は鼻で息をついた。
「可能性の話なら、ここは城だ。毎日ある。……まず症状を言え」
僕は、礼拝堂で見たままを挙げた。外傷は目立たないこと、口が乾いて泡が残っていたこと、胸を掴んだ指が固まっていたこと。
薬師は少し考え込んで答えた。
「……外傷はほぼない。口が乾いて、泡が少し残っている。それならば、心臓を止める毒だ。青い花の根──トリカブト。だが、普通は口からだ。皮膚からは難しい」
薬師は言い足した。
「だが、元から胸が弱いなら量が少なくても倒れる」
「爪で引っ掻く程度でも?」
薬師は少し考え、首を振った。
「その程度じゃ弱い。よほど濃くするか、運ぶものが要る。脂と蜜蝋。蜜蝋は膜を作る。脂は毒を連れていく。……傷口に押し込めば、話は変わる」
蜜蝋。
遺体のそばの小皿。
そして、黒猫の爪のつや。
薬師の机の端に、紙片が一枚置かれていた。
出入りする者の薬草袋と帳簿が散らばりすぎて、紙片は端の陰に半分隠れて薬師はそれどころではなかった。
僕が指で紙の端をつまみ上げたとき、薬師がようやく目をやった。
「……なんだね、その紙は」
僕はその紙を拾った。例の筆だ。
⸻
だあれが取ったか 赤胸ルーヴェンの血?
「それはわたし」と 魚が言った──
ちいさな皿に ちいさな皿に
わたしが取った 赤胸ルーヴェンの血
⸻
「血は出ていない」
僕が皿の縁を指でなぞると、薬師は眉だけ動かした。
「だから“血”の代わりに、蜜蝋の粉を受けたんだろ」
薬師の声は乾いている。
「……皿まで用意してる。誰かが“血”に見せたいんだ」
僕の背中が冷たくなった。
犯人は殺しただけじゃない。
“歌”の続きを、誰かの手元に配って歩いている。
***
僕は城下の燭台職人(蝋燭屋)の小屋にも寄った。
蜜蝋の匂いはここがいちばん強い。だが蝋燭屋の蝋は松脂の香りが混じる。礼拝堂の皿に残ったあの匂いとは違う。
「蜜蝋はある。でも毒なんか知らないよ」
蝋燭屋は両手を上げた。爪の間は蝋で白い。
矢羽根の工房も見た。矢職人は蜜蝋を使うが、塗るのは羽根の固定用で、雨避けではない。それに、猫を扱えない。
残るのは、“矢に塗る蜜蝋”と“獣を扱う手”。
狩人だ。
礼拝堂へ戻り、黒猫に近づいた。
猫は逃げない。人に慣れすぎている。
「すまない」
布を一枚広げ、足先をそっと包んだ。
黒猫は不機嫌そうに耳を倒したが、暴れなかった。
爪の外側に、ほんの僅かな膜がある。蜜蝋の膜だ。
毒は拭われている。蜜蝋だけが残っていた。
内側にはほとんどない。舐め取られにくい塗り方。
噛まれないように、外側だけを塗る。慣れたやり方だ。
それでも鼻を寄せると、微かに青花の根の匂いがした。甘い蜜蝋の奥に、冷たい苦みが潜む。
「毒の跡がある……爪に塗られていた」
***
狩人の工房は城壁際にあった。矢筒と獣皮の匂い。
戸を叩く前から中で声がしていた。城内ではもう「黒猫の呪い」が独り歩きしている。狩人の耳にも届いているのだろう。
僕が顔を出すなり、狩人は先に言った。
「黒猫だろ。あれは不吉だ。追い払えと言ったのに。……ほら見ろ。噂ってのは、当たるんだ」
「追い払えと言った? あなたは黒猫が城にいると知っていたんだな」
「知ってるさ。鼠を取るから置いてるだけだ」
「置いてるだけの猫の爪が、なぜ整えられている?」
そう返すと、狩人の口元が僅かに止まった。
「偶然だろう。爪は……勝手に削れただけだろう」
「削れても、あんなふうに角は揃わない」
狩人は肩をすくめた。
「俺じゃない。城の女中がやることもある。猫に餌をやるのはあいつらだ」
「女中が切るなら、奥まで触れない。噛まれたくないから。爪の外側だけに薄く膜がある。舐め取られにくい塗り方だ」
狩人の視線が工房の隅へ走った。
その先を、僕も追った。
蓋に蜜蝋がこびりついた小瓶。黒っぽい脂。爪切りみたいな刃具。
「苦みのある匂いだった」
僕がそう告げると、狩人は強く言い返した。
「苦み? 薬師の薬だろ。俺が手当てしてもらうことだってある。蜜蝋も矢羽根に使う。何でも繋げれば犯人にできる」
「繋げたのは僕じゃない。あなたが繋げた」
僕は矢羽根の切れ端を置いた。
小皿を置いた。
そして、最後に最初の紙片――スズメの歌を置いた。
「あなたは“殺す”だけじゃない。並べている。歌の順に。誰が見ても同じ終わりに辿り着くように」
狩人の喉が、ひくりと動いた。
「……戯れ言だ」
「戯れ言なら、紙片を置く必要がない」
淡々と返した。
「上手い字だ。でも、わざと崩してる。子どものふりをして、噂に火をつけるために」
狩人の笑いが、一瞬だけ薄くなった。
「そこへ童謡の型を重ねれば、皆が同じふうに怖がる。『呪いだ』で話が終わる」
狩人の唇が歪む。
「じゃあお前は、俺が夜中に礼拝堂で猫を抱いて、歌い手を殺したって言うのか」
「“赤胸”は宴の後、ひとりで礼拝堂へ寄る癖がある。噂好きなら皆知っている」
そこで、僕は一拍置いた。
「……あなたの奥方と近い、という噂も」
狩人の目が一度だけ逸れた。
笑い皺が消えて、喉が乾いたように唇が動く。遅れて怒りが追いつく。
「くだらん噂だ」
「ええ。くだらない。……そんなくだらない噂で、人は人を殺せる」
沈黙が一瞬だけ落ちた。
布の上が、答えの順番を示していた。
僕は城の代官(司法役)に呼び出しを求めた。
代官が来れば、狩人は言い逃れだけでは済まない。
狩人は代官の前で誓約を拒んだ。
神前で潔白を誓えぬ者は、まず拘束される――それがこの国のやり方だった。
拒んだ瞬間、彼は噂より重いもの──制度に捕まる。
捕縛の日、礼拝堂の裏手に最後の紙片が見つかった。
地面には、小さなシャベル痕が残っていた。
紙の字はやはり上手く、やはり崩してあった。
⸻
だあれが掘るの 墓穴を?
「それはわたし」と フクロウが言った――
わたしのシャベルで わたしのシャベルで
わたしが掘るの 墓穴を
⸻
狩人は捕らえられた。
ルーヴェンは戻らない。
黒猫は、証拠みたいに扱われ、怖れられ、遠巻きにされるだけだった。
僕は黒猫の足を洗い、爪の蜜蝋を丁寧に落とした。
猫は一度だけ、僕の指を舐めた。
噂は便利だ。
事実を隠すのにちょうどいい。
黒猫は何も知らない。
噂も知らない。
窓辺で黒猫は、何もなかったように尾を揺らした。
その足元に、破り捨てられた紙片が一枚だけ残っていた。
いつからそこにあったのかはわからない。
最後の一行だけが書かれている。
上手い字で。わざと崩して。
⸻
だあれが殺した 赤胸ルーヴェン?
「それはわたし」と ──スズメが言った
⸻
僕は紙片を握りつぶした。
だあれが殺した?――「わたしが殺した」 りんごあめ @fated_oath
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