俺は手、俺以外はお前
shiso_
俺は手、俺以外はお前
俺は手、俺以外はお前。
最初に世界を押し返したのは俺だ。
湿っていて、滑っていて、熱い。骨も言葉もない場所で、俺は掴んで、離して、また掴んだ。
お前は遅れて泣いた。遅れて息をした。遅れて「生きる」って決めた。
その「決める」がいつも先に来るのが、少しだけ、ずるい。
◇
お前が何かを覚えるたび、俺は先に傷を覚えた。
ささくれ。紙の端。転んだ膝の土。冬の金属。
お前は「痛い」と言った。
俺は痛いを知らない。冷たさと、圧と、戻らない感じしか知らない。
それでも、お前より先に世界を知れるのは、俺の勝ちだった。
◇
俺は仕事をした。
鍵を回す。洗剤の膜を切る。鍋の取っ手を持つ。傘をたたむ。
お前は生活に名前を付けて安心した。「いつも通り」。
俺はいつも通りの重さが、日に日に増えるのを知ってた。
重いものは、落とせない。落とせないものほど、手の中で形が変わる。俺はそれが嫌いだった。
◇
ある日、お前は俺を使って、扉を強く閉めた。
俺は力を出すのが得意だ。だから勝てる。簡単に勝てる。
でも、勝ったあとに残る熱が嫌いだった。
お前は言葉で勝ったふりをした。「別に」。
俺は指先の震えで負けを知ってた。
次の日、お前は謝らなかった。
代わりに、いつもより静かにコップを持った。
俺はそれで充分だと思ってしまった。
◇
彼女に最初に触れたのは俺なんだぜ。羨ましいかよ。
肌はあたたかくて、思ったより硬い場所があった。爪の端。骨の輪郭。指の関節
俺はそれを全部覚えた。
でも、彼女の魂というか――彼女という存在を掴んだのは、お前だけだった。
お前は、俺じゃ届かないところに、それを置いた。
彼女の胸の奥に、名前のない何かを置いた。
俺はそこに触れない。悔しいけど、少しお前が誇らしかった。
◇
俺は何度も、彼女を引き留めた。
袖を掴む。指先を絡める。手袋越しに、温度を探す。
でも別れってやつは、掴めない。
掴んだ瞬間に、もう『別れ』の形になるからだ。
お前は言葉を選んだ。
俺はその間、椅子の肘掛けを握って、木の硬さに逃げた。
彼女の手は、いつもより軽かった。
彼女が「大丈夫」と言うときの指は、いつも少し冷たかった。
冷たさは、準備してたみたいに、先に来る。
それでも俺は、触れられるものだけを覚えた。
お前が決める前に、俺が拾えるもの。
指輪の硬さ。脈の跳ね方。言葉の前に起きる震え。
だけど、それに何の意味があったのだろう。
◇
病院の紙は薄い。
なのに、お前がペンを持つと、紙が重くなる。
俺はペンを支えた。俺の仕事だ。
お前は名前を書いた。お前の仕事だ。
その夜、彼女の手は布の下で眠っていた。
眠りの手触りは、まだ柔らかい。
でも、死の手触りは違う。
冷たくて、硬くて、戻ってこない。ただ、怖かった。
お前が彼女の名前を呼びそうになった瞬間、俺は一度だけ勝った。
握らなかった。
彼女の手を、布の上に、そっと置いた。
それで、俺だけが知る冷たさが、少しだけ守れた。
俺は墓まで持っていくつもりだったのに。
だけど、結局は落ちる。
触れたことは触れたまま、お前の中に落ちる。
お前が黙ったから、俺も黙った。
生まれた時と同じように、俺が先に触れて、お前が後から決める。
それが俺たちの順番だった。
彼女の不在に、俺は先に触れた。
お前は遅れて、その名前を胸の中に置いた。
◇
俺は最後まで、お前を離さなかった。
それは、誇張じゃない。
最後の夜、お前はまた紙を掴もうとした。
何かを書こうとしたのか、誰かの名前を確かめたかったのか。
俺はペンを探した。机の上を撫でた。
指先に当たったのは、空っぽの硬さだけだった。
お前の息は浅くなっていった。
胸の奥で、何かが決まっていく音がした。
お前はまだ「大丈夫」を探していた。
俺は、それを口にする場所がもうどこにもないのを知っていた。
手の中の熱が、先に溶けた。
血の気が引くとか、そういう言い方はお前の言葉だ。
俺にはただ、重さが増えるだけだった。
指が、指じゃなくなる。
関節が、蝶番みたいになる。
お前は遅れて気づいた。
遅れて、俺を動かそうとした。
遅れて「まだ」と決めようとした。
でも、お前が決めるのはいつも遅いんだ。
「……」
お前は何か言った。
言葉にならない音だった。
それでも、俺は分かった。
お前が俺に向けて言った最後の言葉。
ありがとう。
ごめん。
さようなら。
どれでもいい。
俺は、お前の最後の決め方を待った。
待ちながら、指を一本ずつ離していった。
最後に残ったのは、親指だった。
お前はいつも最初に親指で何かを押す。
ボタン。扉。日々の小さな決定。
お前が生きてると決める、その癖。
その癖だけを、俺は返した。
親指が落ちた。
そこでようやく、お前は俺から離れた。
胸の中に置いていた名前を、もう置けなくなった瞬間に。
俺は手だ。
俺以外はお前だ。
でも、最後に残ったのは俺じゃない。
残ったのは、お前が置いた、名前のない何かだ。
俺はそれに触れない。
そして、お前の代わりに、決めない。
最初に生きるって決めたのは、お前だから。
俺は手、俺以外はお前 shiso_ @shiso_
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