第2話 錆びた槍と、英雄の弓

宮殿の地下深くに眠る、王立武器庫。

 重厚な鉄の扉が重々しい音を立てて開くと、ひんやりとした冷気と共に、鉄と油、そして乾いた木の匂いが鼻をついた。

 地上の甘ったるい香りとは違う、無骨で冷徹な「暴力の匂い」だ。

 霍去病かくきょへいは、肺の奥までその空気を吸い込み、ようやく生き返ったような心地がした。

「好きなものを選べ。剣でも、いしゆみでもな。陛下のお許しだ」


 衛青えいせいが言った。

 薄暗い庫内には、漢帝国の威信をかけた最高級の武器が、墓標のようにずらりと並んでいる。

 その奥から、空気を震わせるような音が聞こえてきた。

 ギリ、ギリ、ギリ……。

 つるが限界まで引き絞られる音だ。

「……見事です、李広りこう将軍」


 兵士たちの称賛の声。

 そこには、一人の老将が立っていた。

 岩のような筋肉、顔に刻まれた無数の傷跡。白髪交じりの髭を蓄えたその姿は、動く要塞のようだった。

「飛将軍」の異名を持ち、北の匈奴きょうどからも〝漢の守護神〟と恐れられる歴戦の英雄、李広だ。

 彼の手には、大人が二人掛かりでも引けないと言われる黒塗りの巨大な剛弓が握られていた。


「うむ。やはり武器は重くなければならん。重さこそが威力、重さこそが信頼だ」


 李広は満足げに頷き、汗を拭った。彼の哲学は明確だ。

 不動。重厚。一撃必殺。

 それは漢という巨大帝国の在り方そのものだった。

かん、お前も引いてみろ。李家の男なら、これくらい引けなくてどうする」


 李広は傍らに控えていた少年に、その剛弓を押し付けた。

 進み出たのは、霍去病と同い年くらいの少年だった。李広の末子、李敢りかんである。

 生真面目そうな顔立ちだが、その目には偉大すぎる父への畏怖と、焦燥の色が滲んでいる。

「は、はい! 父上!」


 李敢は弓を受け取ると、足を踏ん張り、全身を震わせて弦を引いた。

 血管が浮き上がり、玉のような汗が床に落ちる。

 ギリ……ギリ……。

 だが、弦は半分ほどしか引けない。

「ぬうう……ッ!」

「まだまだだな」

 たたらを踏む息子に、李広は厳しく言った。


「足腰が軽い。軽薄な技に走るなよ。大地に根を張り、重厚な陣を敷き、重い一撃を放つ。それが漢の、そして李家の戦い方だ」

「……はい」

 李敢は悔しそうに唇を噛み、巨大な弓を抱きしめた。

 その姿は、武器を持っているというよりは、父の名という「十字架」を背負わされているように見えた。

 その様子を、霍去病は柱に寄りかかって冷ややかに見ていた。

(……重い。何もかもが重すぎる)

 李広の弓も、衛青の胃痛も、長安の空気も。

 誰も彼もが「重さ」をありがたがり、その場に留まろうとする。

「去病、お前もあの弓を試してみるか?」


 衛青に促されたが、霍去病は首を横に振った。


「いらないよ。あんなの、背負ってたら走れないだろ」


 その言葉に、李敢がハッとして振り返った。

 霍去病は彼らを無視し、武器庫の隅、ほこりを被った棚へと歩いた。そこには、正規の兵装から外された、古い武器が無造作に積まれていた。

 彼はその中から、一本の槍を引き抜いた。

 飾り気のない、細身の直槍ちょくそうだ。素材は粗悪な鉄。穂先は赤茶色に錆びついている。


「おい、それは廃棄予定の失敗作だ」


 武器庫の管理人が慌てて止めた。「軽すぎて突きが浅いし、すぐに折れる」


「これがいい」


 霍去病は槍を片手で軽く回した。

 ヒュン!

 風を切る音が、鋭く、高く響く。

 軽い。まるで指の延長のように馴染む。

「ふん」


 鼻で笑う声がした。李広だった。


「軟弱だな、小僧。そんな軽い棒切れで何ができる? 漢の武器とは敵の骨を砕くためのもの。敵の刃と打ち合えば、その錆びた鉄屑など一撃で折れるわ」


 霍去病は振り返り、老将軍を見上げた。


「打ち合う? なんでそんな無駄なことをするんだ?」

「なに?」

「折れる前に突けばいい。敵が武器を振るう前に、喉を貫けばいい。……そうだろ?」

 李広のこめかみに青筋が立った。


「小賢しい口を……。おい、敢!」

「は、はい!」

「その小僧に、漢の重さを教えてやれ。手合わせだ」

 李敢は戸惑ったが、父の命令には逆らえない。彼は近くにあった木製の練習用大剣(実戦用の剣と同じ重さがある)を手に取り、構えた。


「……衛青様、失礼します。手加減はしますが……怪我をしても恨まないでください」


 衛青が止めようとするより早く、霍去病は錆びた槍をだらりと下げて前に出た。


「いいぜ。かかってきなよ、お坊ちゃん」


「やあああっ!」


 李敢が気合と共に踏み込んだ。

 速い。そして重い。

 父の薫陶を受けたその一撃は、木剣とはいえ、まともに食らえば骨が砕ける威力がある。風圧が霍去病の前髪を揺らした。

 普通の兵なら、後ろに下がるか、武器で受ける。

 だが、霍去病はそのどちらもしなかった。

 彼は――前へ出た。

 李敢が剣を振り下ろそうとした、そのふところの「死点」へ。

「なっ……!?」


 李敢の目が驚愕に見開かれる。

 剣を振り下ろすには、空間がいる。近すぎれば威力が出ない。

 霍去病はその「理屈」を、本能だけで見切っていた。

 ヒュッ。


 風の音すら置き去りにする速度。

 霍去病の体が一瞬ブレて消えたかと思うと、次の瞬間には、李敢の喉元に冷たい感触が押し当てられていた。

 李敢の大剣は、まだ空中にあった。

 振り下ろせば、霍去病の肩を砕けるかもしれない。だがその前に、自分の喉が貫かれる。完全な敗北だった。

 静寂が、武器庫を支配した。


「……打ち合ったら、俺の負けだ」


 霍去病は静かに言った。


「でも、そうはならない。俺の方が速いからな」


 彼は槍を引いた。

 その時だった。

 衝撃を受けたわけでもないのに、槍の穂先から、パラパラと赤茶色の粉が舞い落ちた。

 今の神速の突きによる風圧と、寸止めした瞬間の強烈な制動力が、表面のさびを震い落としたのだ。

 現れたのは、鋭く研ぎ澄まされた銀色の刃。

 薄暗い武器庫の中で、その切っ先だけが、狼の瞳のようにギラリと光った。

「……!」


 李敢は息を呑んだ。ただの鉄屑だと思っていたものが、名剣以上の輝きを秘めていたことに。


「へえ。……いい顔が出てきたじゃないか」


 霍去病は愛おしそうに、その銀色の刃を指で撫でた。

 この槍もまた、誰にも理解されず、武器庫の隅で腐っていたのだ。自分と同じように。

「気に入った。相棒これで行く」


 霍去病は槍を担ぎ、出口へと歩き出した。

 すれ違いざま、呆然と立ち尽くす李敢に、霍去病は小声で囁いた。

「なあ、あんた。その重い剣……いつまで背負ってるつもりだ?」

「……え?」

「弓に引かれるな。親父の名前に潰されるな。……走りたいなら、捨てちまえよ」

 李敢の顔がカッと熱くなる。

 侮辱ではない。それは、李敢自身が心の奥底で叫んでいた言葉そのものだったからだ。

 霍去病はニッと笑い、そのまま地下室を出て行った。

 地上に出ると、都は夕暮れに染まっていた。

 宮廷の香の匂いはまだ残っている。

 だが、手の中にある槍は、もう錆びた鉄屑ではない。銀色の光を宿した「牙」だ。

「行くぞ。……俺たちは紙屑じゃない」


 霍去病は槍を空へ突き上げた。

 その切っ先は、遥か北の空――まだ見ぬ宿敵が待つ荒野を指していた。

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2026年1月14日 20:01
2026年1月15日 20:01
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『天を駆ける狼』~漢の最速騎兵・霍去病は、美少女天文学者と「システム」化された戦場を神速でぶち壊す~ 紫馬 彗 @shiba-archives

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