『天を駆ける狼』~漢の最速騎兵・霍去病は、美少女天文学者と「システム」化された戦場を神速でぶち壊す~

紫馬 彗

第1話 長安の鳥籠、空から落ちた狼

 紀元前一二三年。漢帝国の首都、長安。

 世界で最も栄えているとも呼ばれるこの都は、完璧な幾何学模様を描いていた。

 碁盤の目のように区切られた大通り、整然と並ぶ瓦屋根、そしてそれらを四角く切り取る巨大な城壁。

 そこには一分の隙も、予測不可能な混沌も存在しない。

 あるのは、息が詰まるような「秩序」だけだ。

「……落ちた」


 皇宮・未央宮びおうきゅうの最も高い屋根の上で、十八歳の霍去病かくきょへいはつまらなそうに呟いた。

 彼の手から放たれたのは、一機の白い紙飛行機だった。

 素材は、偉い学者が書いた兵法書の一ページを破って折ったものだ。

 それは長安の空を飛ぼうと一瞬だけ浮き上がったが、すぐに都のよどんだ空気に押し潰され、回廊の屋根へと力なく墜落した。


「ここじゃ、風すら死んでやがる」


 霍去病は瓦の上に大の字に寝転がった。

 鼻をつくのは、宮殿の至る所で焚かれている最高級の白檀びゃくだんと、貴婦人たちの白粉おしろいの香りだ。

 甘く、重く、そして腐敗を隠すような麻薬的な芳香。

 この塀の向こうには、血と砂塵が舞う荒野が広がっているはずなのに、ここには去勢された時間しか流れていない。

 あーあ、退屈だ。

 霍去病が欠伸あくびを噛み殺した、その時だった。

「……こら、去病きょへい!!」


 遥か下界――回廊の庭から、悲鳴のような叱責が飛んできた。

 漢の大将軍・衛青えいせいである。

 かつては奴隷の身分だったが、姉が皇后になったことで将軍に取り立てられ、その誠実さと実直さで漢軍の頂点に登り詰めた男だ。そして、霍去病にとっては口うるさい叔父でもある。

「また屋根に登ったのか! しかも、その紙飛行機……まさか兵法書の『孫子そんし』ではないか! 貴重な書物をなんと心得る!」


 霍去病は身軽な猫のように屋根を滑り降り、衛青の前に音もなく着地した。

 トン、と足音が響く。その身のこなしには、重力すら感じさせない軽やかさがあった。

「叔父上。……あの本には『兵は詭道きどうなり(戦争とは騙し合いだ)』と書いてありましたが、あの本自体が一番の嘘っぱちだ。あんなカビ臭い理屈じゃ、今の匈奴きょうどは倒せませんよ」

「なっ……お前という奴は……!」

 衛青は眉間の皺を深くし、胃のあたりをギュッと押さえた。


「うぅ……。お前のせいで、また胃がキリキリ痛む……。ただでさえ北方の情勢が怪しく、陛下のご機嫌も麗しくないというのに……」


 衛青の顔色は、宮殿の白壁よりも蒼白だった。

 彼は「漢軍」という巨大な組織の規律と、気まぐれで絶対的な「皇帝」との板挟みに遭い、常に心労を抱えている。この帝国の「重圧」を一身に背負っている男だ。

 真面目すぎるのだ、この人は。霍去病は肩をすくめた。

「よいではないか、衛青」


 不意に、背後から朗らかな、しかし空気を一変させる威圧感を持った声が響いた。

 衛青が弾かれたようにその場に平伏する。

「へ、陛下……! このような所にお渡りとは!」


 そこに立っていたのは、漢の第七代皇帝・武帝ぶていだった。

 中華の歴史上、最も勢力拡大に貪欲で、最も予測不能な巨星。その目は、老獪ろうかいな政治家のものではなく、獲物を探す猛獣のように輝いている。

「去病は気性が荒い悍馬かんばのようなものだ。狭い馬房に閉じ込めれば暴れるが、荒野に放てば誰よりも速く走る。……ちんは、その獰猛な牙が気に入っておる」


 武帝はニヤリと笑い、平伏もしない霍去病の肩をポンと叩いた。

 周囲の宦官たちは青ざめるが、武帝はこの若者の「不遜さ」に、自分と同じ「規格外」の匂いを感じ取っていたのだ。

「まあ、この都が狭いのは認めますよ。……陛下」

「ふっ、減らず口を叩く。だが、牙を研ぐには道具がいるぞ」

 武帝はあごで宮殿の奥をしゃくった。


「衛青よ、こやつを武器庫へ連れて行け。そろそろ自分の一振りを持たせてもよい頃だ」

「は、はい……! しかし陛下、去病にはまだ軍の規律を……」

「規律など犬に食わせておけ。狼には狼のやり方がある」

 武帝の言葉に、霍去病は初めて興味深そうに目を細めた。

 武器庫。

 そこには、この退屈な鳥籠を壊すための「鍵」があるかもしれない。

「面白そうだ。……行ってみるよ、叔父上」

「ま、待て去病! 勝手に歩き出すな!」

 胃を押さえてよろめく衛青を置いて、霍去病は軽い足取りで歩き出した。

 その背中は、既にここではないどこか遠く――遥かな北の空を見ているようだった。

 一八歳の秋。

 まだ何者でもない狼が、最初の牙を手に入れる日のことである。

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