手塩にかけられたのは私の方だったのね
ほしわた
手塩にかけられたのは私の方だったのね
忘れの森は、地図から零れ落ちたような場所だ。
魔獣の森を越え、さらに奥へ。道という道が苔に飲まれ、人の足音が消えるところ。そこに、ひとりの魔女が棲んでいる。
エルカは、朝になると薬草を摘み、昼には錬金釜の火を見張り、夜は結界の縫い目を撫で直す。
暮らしは静かで、手は忙しい。
静けさの底に、いつも一つだけ刺さっているものがある――王都の記憶だ。
グラン・レギウム。鉄と魔導の都。
かつて、エルカはその外れの森で師に仕えた。セレスティアという、古の叡智を知る魔女に。
師は厳しかったが、手は温かかった。
失敗すれば額を指で弾かれ、泣けば黙ってお茶が差し出され、夜更けには手を取られて呪式の指遣いを教えられた。
――けれど、都にはもう一人、魔女がいた。
ヴォルガ。王家の側に取り入り、「純血」を掲げて他者を排し、気に入らぬものは蹂躙する女。
彼女はセレスティアを憎んだ。自分より格上であることが、許せなかったのだ。
あの日、森に火が降った。
エルカは小さかった。師の背中だけが大きく見えた。
セレスティアは振り返り、血のにじむ手で弟子の額に触れた。
『我が弟子よ。私の教えを守り、いつかあなたも弟子をとるのですよ』
それが、最後の言葉だった。
エルカは逃げた。
王都を挟んで反対側――誰も寄りつかぬ忘れの森へ。
そこなら、追手も来ない。来られない。魔獣も、迷い人も、途中で折れる。
来る日も来る日も、エルカはひとりで手を動かした。
錬金。防御。攻撃。精神操作。
師の教えを繰り返し、指を覚えさせ、魔力の流れを身体に刻み込む。
落ちこぼれだった自分が、魔女になれるまで。
何十年も、孤独に手を磨いた。
そんなある日、玄関前に小さな影が倒れていた。
五歳か六歳。細い肩。泥だらけの頬。
掌は、驚くほど冷たい。
エルカはためらった。
森は人を寄せつけない。迷い込むなら、理由がある。
だが、その手があまりに小さく、冷たく、――死にかけていた。
「……手、貸しなさい」
誰に言ったのか、自分にも分からない。
エルカは少女の手を取り、家の中へ運び込んだ。炉に火を入れ、薬湯を作り、額と指先を温めた。
目を覚ました少女は、ぼんやりと天井を見て言った。
「ここ……どこ?」
「忘れの森」
「わすれ……?」
「忘れていい場所よ。……あなたの名前は?」
「ルナ!」
ルナは笑った。
息が白いのに、笑みは妙に眩しかった。
しばらく看病するつもりだった。治ったら、森の外れまで連れて行って道を示して――それで終わり。
そう決めていたのに。
ルナはいつの間にか、台所に入り込み、釜の蓋を勝手に開け、薬草の束をほどき、エルカの仕事を「お手伝い!」と称して攪乱した。
「それは触らないで」
「えー、だってきれい」
「きれいで触ると爆発するの」
「爆発ってなに?」
「……説明が面倒な現象よ」
叱るたび、ルナは「てへへ」と笑う。
怒るたび、エルカは不思議と手を止められなかった。
気づけば、ルナの指先に簡単な火花を灯す方法を教えていた。子どもの遊びのつもりで。
ところが、ルナの魔力は異様に強かった。
火花は火柱になり、火柱は天井を焦がした。
「……もう!」
「てへへ!」
エルカは額を押さえ、深呼吸をし、言った。
「手、出しなさい」
「え? なんで?」
「火傷してる」
「へーきへーき」
「へーきじゃない。出すの」
ルナの手は熱かった。
エルカは軟膏を塗り、包帯を巻き、結び目を整えた。
その手つきに、セレスティアの影が一瞬、重なった。
――いつかあなたも弟子をとるのですよ。
エルカは、諦めた。
そして決めた。
「ルナ。あなた、弟子になりなさい」
「でし?」
「弟子」
「おいしい?」
「……おいしくはない。大変よ」
「でも、魔法できる?」
「……できる」
「なる!」
その返事が、あまりに軽くて。
エルカは笑ってしまった。忘れの森で、初めて。
月日が流れた。
ルナは成長した。身長は伸び、声は変わり、髪は長く艶を増した。
けれど本質は変わらない。魔力は強いが集中力が足りず、思いつきで手を伸ばし、余計なことをする。
「錬金は手順が命よ」
「わかってる!」
「わかってないから言ってるの!」
「エルカ様の教え方が問題あるんじゃない?」
「この子ったらもう!」
エルカの家は、五回爆発した。
一回目は天井。二回目は壁。三回目は地下室の扉。四回目は庭の小屋。五回目は――エルカの忍耐。
そのたびエルカは叱り、手当てし、片づけた。
焦げ跡を撫で、壊れた釜を直し、結界を縫い直した。
自分は落ちこぼれだった。だから分かる。分からない者の苦しさも、恥ずかしさも。
何度でも教えよう。
何度でも手を貸そう。
その手が、いつか届くように。
――気づけば二十年。
ルナは二十七歳になっていた。
そして、気づいてしまう。
エルカは、教えながら自分が上達しているのを。
苦手だった攻撃魔法が、ルナに手ほどきするたび精度を増す。
精神操作の繊細な糸が、彼女の暴走を抑えるために必要で、磨かれる。
防御の結界は、守る相手がいることで強度を増した。
――手塩にかけているつもりで、育っているのは自分。
そんな気配が、胸の奥で静かに育った。
忘れの森の暮らしは、交易で支えられている。
エルカは錬金薬や軟膏を作り、近くの村で塩や布や鉄と交換する。
目立たないように。静かに。いつも通りに。
その日も、エルカは村外れの交易小屋で、薬包を木箱に並べていた。包み紙の端を指で整える――いつもの手つき。
だが、塩袋を受け取ろうとした男の手が、妙に震えていた。
「……奥さま、聞きましたか」
男は声を潜め、周りを一度見回してから続けた。
「ヴォルガって言う魔女が、グラン・レギウム軍を引き連れて……こっちに向かってるらしい」
言葉が、指先から冷たく染みてくる。
エルカは塩袋の口を結ぶ紐を、結び切れずに止めた。手が思うように動かない。
「誰が……そんな」
「王都の連中は“魔獣の森のさらに奥に厄介な巣がある”って言ってます。軍の進路は、忘れの森の方角です」
「……」
塩が、掌にこぼれた。白い粒が、まるで不吉な占いのように並ぶ。
エルカはそれを拭い取ろうとして――拭えないまま、そっと握り込んだ。
忘れの森に帰る道すがら、風の音が刺々しく聞こえた。
過去が、追いついてくる足音だった。
家に戻ると、ルナが釜の前で鼻歌を歌っていた。
鍋からは、微妙に嫌な色の湯気が立っている。
「……ルナ」
「おかえりー。ねえ見て、すっごいの出来そう!」
「出来そうじゃない。止めなさい」
「え、まだ入れてないよ? 最後の“ひと摘み”は――」
「その手を止めて」
エルカの声が硬いのに気づいたのか、ルナは鍋から手を引っ込めた。
そして、エルカの顔をじっと見た。
「……何かあった?」
「ヴォルガが来る」
「へえ」
「へえ、じゃない。軍を引き連れて。ここへ」
「ふうん」
ルナは笑った。いつもの「てへへ」ではなく、静かな笑いだ。
それが怖くて、エルカは早口になった。
「ルナ、逃げなさい。今夜のうちに。森の外へ。私が結界を――」
「いや」
「いや、じゃない!」
「逃げない」
エルカはルナの肩を掴もうとして、躊躇した。
触れれば、この子を縛ってしまう気がした。
手は、守るためにあるのに。
「あなたは、強い。でも――」
「でも?」
「相手はヴォルガよ。私の師を――」
「知ってる」
ルナは遮った。
「エルカ様が、何度も話してくれた。セレスティア様のことも、ヴォルガのことも」
エルカの喉が鳴る。
言葉が出ない。
逃がすべきだ。守るべきだ。
それなのに、ルナは一歩近づいてきて、エルカの手を握った。
「手、冷たい」
「……」
「大丈夫。私、ここにいる」
握られた手の温度が、胸の奥の恐怖を少しだけ溶かした。
それが悔しくて、嬉しくて、エルカは眉を歪めた。
「……分かった。なら、私が守る。あなたは私の後ろに――」
「ううん」
ルナは首を振る。
「一緒に立つ」
森が、息を止めた。
木々の間から現れたのは鉄の光――グラン・レギウムの兵の列。
先頭に黒い外套の女。ヴォルガ。
その視線がエルカに触れた瞬間、空気が刃に変わる。
「見つけたわ。……まだ生きていたのね」
ヴォルガは嗤った。
「セレスティアの残り滓。森の奥で虫のように生き延びて、今度は何を育てたつもり?」
エルカは一歩、ルナの前へ出た。
背に回した手が、無意識に弟子の手首を探る。――震えていない。むしろ温かい。
それが怖さを押し返す楔になる。
「結界、展開」
掌を開く。指を折り、紋を結ぶ。
透明な壁が立ち上がった刹那、ヴォルガの呪詛が降り注いだ。火花が雨のように散り、結界の表面を焼く。
兵たちが一斉に前進しようとするが、見えない壁にぶつかって隊列が詰まる。
「ルナ、狙いは――」
エルカが言い切るより先に、ルナが一歩踏み込んだ。
「任せて。……えっと、あの人の杖を折る!」
ルナの杖先が光り、一直線に――飛んだはずだった。
だが光は、ヴォルガの“横”に落ちた。
次の瞬間、ヴォルガの足元の地面が裂け、兵の陣形ごと、深い溝が口を開ける。
前列が崩れ、後列がつんのめり、盾が落ちた。号令が乱れた。
森の土が唸り、根が軋む。
「――っ!」
ヴォルガの眉が初めて動いた。
予測していた防御も反撃も、的を失ったからだ。
エルカは結界を保ちながら、思わずルナの手を掴んだ。
叱るためではない。制御のためだ。
二十年、手当てし続けたその延長で。
「……今の、“狙い通り”なの?」
ルナは少しだけ目を泳がせ、そして、いつもの顔で笑った。
「てへへ。……結果オーライ?」
ヴォルガが低く笑う。
「ふざけた魔法……でも、厄介ね。運頼みの力ほど、扱いにくいものはない」
エルカは歯を噛む。
運じゃない。
ルナの欠点は、今夜だけは――刃だ。
兵たちが溝を迂回しようと動き出す。
ヴォルガが指を鳴らすと、黒い糸のような呪いが結界を這い、縫い目を探り始めた。
――精神操作。
エルカの脳裏に、師が倒れた夜の匂いが蘇り、喉が締まる。
手が、ほんの少し震える。
その震えを、ルナが握り返した。
「お師匠様」
ルナの声は、炎より静かだった。
その静けさが、胸に火を点けた。
「お師匠様。セレスティア様の言葉、覚えています。
『我が弟子よ――お前は、誰にも負けぬ魔女になる』
あなたは笑った。けれど私は知ってる。二十年、私の失敗を受け止めて、諦めなかったその手を。
……だから信じて。私も、戦うわ」
エルカの指先から、震えが消えた。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、恐怖の上に、別の感情が重なった。
――誇り。
――怒り。
――そして、温かい決意。
「……私が育てたつもりでいた」
エルカは呟いた。
「手塩にかけられていたのは……私の方だったのね」
その一言で、世界が反転した。
守るために差し出した手が、いつの間にか支えられていたのだと、今さら理解した。
ヴォルガが舌打ちする。
「感傷は終わり? なら、終わらせてあげる」
黒い糸が増え、結界の縫い目へ食い込む。
エルカは掌を翻し、紋を組み替えた。指先が針になる。結界を縫い直す。
守りの手。師から受け継いだ手。
「ルナ。次は――兵の背後」
「了解!」
ルナが杖を振る。
狙いは背後。――のはずが、光は斜め上へ跳ねた。
兵たちの頭上の枝が、ごそりと落ちる。
枝に仕込まれていたヴォルガの呪符が、まとめて引き裂かれ、黒い煙が散った。
「……それを、狙ったの?」
エルカが思わず言う。
ルナは胸を張る。
「もちろん! ……たぶん!」
ヴォルガの表情が歪む。
彼女の魔法は「型」だ。美しく、正確で、支配のために整えられている。
それゆえに、崩し方も予測できる。
だが、ルナの魔法は――整っていない。整えようとしても、整わない。
それが今夜だけは、最強の混沌になる。
エルカは、結界を一段薄くし、その分だけ前に出た。
守りを薄くするのは愚かだ。
だが、握っている手がある。
ルナが、いる。
「ヴォルガ」
エルカは低く呼んだ。
「ここは私の森。私の家。私の弟子の場所。――あなたの手は、届かない」
ヴォルガの指がしなり、精神の糸がエルカの目を曇らせようとする。
だがエルカは、ルナの手を強く握り返した。
――現実に触れる。温度に触れる。
心を縛る糸は、手の温かさにほどけた。
「ルナ、今よ」
「うん!」
ルナが放つ光は、今度も少しだけ逸れた。
けれど逸れた先にあったのは、ヴォルガの外套の留め具――魔導具の核。
それが砕けた瞬間、ヴォルガの呪いが一拍遅れて途切れた。
「な――!」
ヴォルガが後退る。
兵たちがざわめく。指揮が揺らぐ。
今夜で決める必要はない。
勝ち切るより、折る――追い返す。
エルカは掌を上げ、森の結界を“閉じる”紋を刻んだ。
忘れの森が、忘れの森たる所以。
侵入者の方向感覚を奪い、進軍を迷わせ、同じ場所を回らせる。
兵たちが戸惑い、足並みが乱れる。
ヴォルガは歯噛みし、目を細めた。
「……覚えておきなさい、エルカ。いつかその手を折る」
「折れるものなら、折ってみなさい」
ヴォルガは外套を翻し、兵に退却を命じた。
森は彼らを飲み込み、足音を消した。
気配が遠のき、夜が戻る。
結界を解くと、エルカは膝から崩れそうになった。
ルナがすぐに腕を貸してくる。
「ほら、座って」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃない。――手、出しなさい」
エルカは目を瞬いた。
その言葉は、ずっと自分のものだったはずなのに。
ルナはエルカの掌を取り、指の節にこびりついた血を拭った。
軟膏を塗り、包帯を巻く。結び目を整える。
まるで、二十年分の逆再生みたいに。
「……上手になったわね」
「でしょ」
ルナは得意げに笑う。
「エルカ様の教え方が良かったから」
「……問題あるんじゃなかったの」
「それはそれ。これはこれ」
エルカは、笑った。
森の奥で、また一つ、過去の棘が抜けた気がした。
包帯の白が、塩の粒のように見える。
掌の上で、白は温かい。
「ねえ、エルカ様」
「なに」
「私さ、また失敗すると思う」
「……しなさい」
「え?」
「失敗しなさい。爆発させなさい。……そのたび、あなたの手が伸びるなら」
ルナは瞬きして、ふっと笑った。
「うん。任せて。……てへへ」
エルカは、その「てへへ」に目を細める。
そして、包帯の結び目に指を添えた。
手塩にかけたのは、どちらだったのか。
答えはもう、言葉にしなくてもいい。
握った手は、放さない。
それだけで、十分だった。
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