かわいい手

 私になにがあったのか──なんて話は、この出来事をちょっと余分に飾ってしまいますので、伏せておきます。

 私は後遺症なんかもなく、まったく健康に暮らしております。買い物の荷物を持つと彼女は「いいよ、私持てるから!」なんていいますが、筋力に関しても体の動作に関しても、退院後の私にはまるで問題が残らなかったのです。

 私たちの歩いている道の数十メートル先、その端をちょんちょんと飛び跳ねるように歩いていた小鳥が、ふいにちょっと立ち止まってちいさな頭を動かして、ついには飛び立ってゆきました。

 私が名前を呼ぶと、彼女は「うん?」とのんびりと応じてくれます。

「病院にいる間、夢を見たんだ」

「夢?」

「うん。手の夢」

 彼女は頭の上に疑問符を浮かべて小首を傾げています。

「手がね、夢に出てきたんだ。真っ暗でなんにも見えないんだけど、そこにふっと手が浮かびあがってくるの」

「ええ、怖い……」

「でも、怖くなかったんだよね」

「怖いと思わなかったの?」

「うん。で、手しか見えないところで、声が聞こえるんだ。おいでって」

「いや、怖い話じゃん」

「怖くないんだよ。全然、怖くないんだ。真っ暗な中でそれだけ見える手がね、こう、上に下に動くんだ。手招きしてるんだよね。で、さっきいったようにおいでっていう。でも近づくとふっと遠くにいっちゃう」

 ゆるやかだけれども長い坂道に入りました。私の呼吸もそうだったように、隣からほんのかすかに聞こえる彼女の呼吸の調子が坂をのぼるためのものに切り替わりました。

「おいでっていうし、怖いとも思わなかったから、また近くにいったんだ。するとまた遠くにいっちゃう。何回かやってると、手自体、いなくなっちゃうんだよね」

「見えなくなっちゃうの?」

「うん。でも、それで終わらないんだよ。どれくらい経ってからなのかわかんないんだけど、また出てくるんだよ」

「手が?」

「そう」

 彼女はくすりと笑いました。あの真っ暗な中で聞いたのとおなじ声です。

「おれの夢、見なかった?」

 彼女はふと私を見あげて、にっこりと微笑みました。ただし、今すぐにでも泣き出しそうな顔で。

「そりゃあ、ずっと考えてたからね。何回かは見たんじゃないかな」

「疲れてた?」

 彼女はとたんに弱々しい顔をして、歪んだくちびるの下側を口の中へ隠してしまいました。それで俯いてしまって、顔も髪の毛で隠してしまいました。

「意地悪なこと訊くね。これじゃわたし、なんて答えたってひどいこというようじゃん」

 疲れていたといえば私を嫌厭きらったようで、疲れなかったといえば、私をまるで気にかけていなかったみたいで──彼女のいいたいのは、そういうことなのだと思います。

 私はただ表に出てくるまま笑って、空いてる左手で彼女の右手を握りました。彼女はなにもいわないで、いやというように手を動かして、私の手と指を組み合わせました。

 私は彼女のちいさくても力強い手の甲を親指でゆっくりとなでました。

「ありがとう」

「なにが?」

「また会えてよかった」

 くすっ──。

 かわいい笑い声はたしかに、まだ日のあんまり傾いてない、夏の夕刻に聞こえました。

 そして私は彼女の手を握って、長い坂をのぼっているのです。

 きっと私のために危ない川を渡ってくれた、彼女の手を握って。




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手が呼ぶ 白菊 @white-chrysanthemum

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