川の向こうへ

 ぼんやりと暗がりに肌が浮かびあがります。手です。

 ──あっ、こられた? いたいた! こっちだよ!

 ──まってたよ。

 ──ふふっ、わたしがだれか、おもいだしてくれた?

 私は途端、恥ずかしいような気分になりました。誰ともわからぬ相手に馴れ馴れしい口を利いたのですから。

 相手は私のそういう反応を察してなにかいおうとしたようでしたが、結局はなにもいわずにいました。ただ少し、寂しそうにしているだけでした。それは私の胸を痛めました。私が彼女のことを認識できなくなっているのを強く意識させられたためでございます。

 私は自分の身になにが起きたのかを理解しておりませんでした。この暗いところがどこにあるなんという場所なのか、どんなふうにしてここへきたのか、そういう大切なことをなにひとつ引き出してくることができないのです。

 ──こっちだよ。

 ──もくてきちは、とおいのですか。

 ──ううん。きっとちかいよ。きっと、すぐそこにあるはず。そうだよ、とおくでたまるもんか。

 ──あなたは、ちかくにあってほしいのですか。

 ──うん。すこしでもちかくであってほしい。いっセンチ、ううん、いちミリだってちかくであってほしい。

 手がこちらに向かって、ひらを上にして指を伸ばしました。まるで、その手と声の主がこちらを振り返って手を差し伸べているかのようでした。

 ──いこう。

 ──ええ。

 私には彼女の手を掴むことはできませんでしたが、彼女はまるで私の手を握っているようにして、隣に浮いていてくれました。

 私はその手を見つめながら、狂気じみた欲求を覚えました。どうにかして、その手にふれたいと思ったのです。そのちいさな手を包み込んで、どうにかして、自分のものにしたくなったのでございます。そしてこの狂気は、私にそれを知っているような感覚まで与えました。

 ──あなたは、だれなのですか。

 ──わたしからいっちゃったら、せかすみたいになるじゃない。

 ──かまいません。おしえてくださいませんか。

 ──ふふっ。うれしいね。わたしのことがだいすきってことみたいじゃない、それ。わたしは、あなたのこいびとだよ。すきだよっていってくれたから、わたしはだいすきだよっていって、いまはいっしょにくらしてるの。あなたはわたしにおひめさまにたいするみたいにせっしてくれてるし、あなたはがにあう おうじさまみたいなひとだけど、ひろいおしろにすんでるわけじゃないよ。やすくてちいさいアパートでくらしてるの。ふふっ、でもおしろって、ひろければいいってわけじゃないでしょう?

 ──こいびと?

 ──うん。ごはんをたべるのも、ねるのも、うん、たまに、おふろにはいるのも、いっしょにするようなかんけい。あなたはわたしのあんまりうまくつくれないごはんをおいしいってたべてくれるけど、こいびとって、あいてがつくったものをむりにおいしいっていうかんけいじゃないんだよ。

 彼女はそういって、いたずらっぽく、ちいさく、抱きしめたくなるような声で笑いました。ここで私に腕がないことが、ひどく悔やまれました。

 ──わたしは、ふだん、あなたにどうしていますか。

 ──うん?

 彼女は難しい質問だねと笑いました。

 ──そうだなあ、せかいにそれいがいにことばがないみたいに、かわいいっていってるよ。

 ──そうですか。

 ──どうしてわらうの?

 ──いま、どうしようもなくそういいたくなったので。

 ──ふふっ。じゃあ、あっちについたらいっぱいいってね。

 私には時間の感覚がまるでなかったものですから、どれほどの間移動を続けていたのか、皆目見当がつきません。さらには肉体の感覚もまるでないものですから、どれほどの距離を移動したのかもわかりません。

 それでも、景色が変わりました。なんにも見えない真っ暗闇だったのが、水の音が聞こえてきて、光がさしてきたのです。

 さらに近づいていくと、川があって、その先に美しい景色の広がっているのが見えました。美しいのです、それはそれは美しい景色なのですが、私にはどうも、恐ろしく見えました。すぐにでも暗いところへ引き返したいような気分でした。

 ──ねえ、これわたろう?

 ──いえ、できません。

 ──どうして!

 ──こわいのです、どうしようもなく。

 ──でもわたらないとだめだよ。

 ──いいえ、できません。

 ──おねがい、わたってよ!


 意識の塊であった私は、このとき、振動を感じました。規則正しく低い音を立てる、ふるえです。

 そのふるえは私に苦しさを思い出させました。


 ──わたってよ!

 ──できない、できない!……


 流れる水に、しぶきがあがりました。

 手が、なくなっていました。彼女がいなくなったのです。

 私は猛烈に肉体の意識を取り戻して、駆け出しました。



 そして彼女の手を掴んで向こう岸へついたとき、目が開いたのです。


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