第2話 月下の模造真珠

 騒鳴に満ちたホールを背に、俺は彼女を伴って王宮の裏手へと続く回廊を抜けた。

 重厚な扉が閉じられると同時に、耳を刺していた喧騒は遠ざかり、代わりに夜の静寂が薄い膜のように肌へと降りてくる。


 庭園には、冷えた空気と刈り揃えられた芝の青い匂いが満ちていた。

 高くそびえる王宮の尖塔が夜空を切り裂き、その影が青白い月光に縁取られて芝生の上へと長く、歪に伸びている。噴水は眠りについた獣のように静まり返り、葉擦れの音と、どこかで鳴く夜鳥の声だけがゆるやかに時を刻んでいた。


 数歩先を歩く彼女の背中を見つめるだけで、視界の端がじり、と焼けつく。

 夜風に揺れる淡い金の髪。細い肩の線。一歩踏み出せば届いてしまう距離が、残酷なほど近い。


 今すぐその肩を抱き寄せ、数十年分の悔恨を吐き出しながら、二度と離さないと誓いたかった。その体温をこの腕で確かめたかった。生きている証を、心臓の鼓動を、逃げ場のないほど近くで。


 ――だが。


 今の俺がそれをすれば、彼女はただ、見知らぬ皇子の狂気に怯えるだけだ。


 俺は無意識に拳を握り締める。

 爪が掌に食い込み、かすかな痛みが理性を繋ぎ止めた。


「……夜風が冷たい。無理に連れ出したつもりはないが、体調が悪ければすぐに言え」


 喉の奥までせり上がった「愛している」という言葉を、力任せに噛み殺す。代わりに零れ落ちたのは石礫のように無骨で、取り繕った気遣いだけだった。


「いいえ。あの喧騒の中より、ずっと心地よいです」


 彼女はそう言って、ふと足を止める。


「……アルヴェルト殿下は、あのような場所はお嫌いなのですか?」


 振り返った拍子に月光を透かした金の髪が、夜の風にふわりと舞う。その光景に、心臓を直接握り潰されるような痛みが走った。


「嫌い……というより、性に合わんだけだ」


 声が低くなるのを、自分でも感じる。


「毒にも薬にもならない世間話に花を咲かせるくらいなら、こうして静寂の中にいる方がマシだ」


 嘘だ。

 俺はただ、お前と二人きりになりたかっただけだ。死に際の悲鳴ではない、ただの少女としての穏やかな声を一度でいいから、この耳に刻みたかった。


「ふふ……意外です」


 ミレイアは小さく笑った。


「殿下はもっと……鉄で作られたような、厳格な方だと思っておりました。兄君のアルフレート殿下とは、随分と雰囲気が違いますのね」


 そのあまりにも些細で、たわいもない微笑み。胸の奥が、きし、と音を立てる。


『アイゼン・ロア』の記述によれば、彼女はこの夜会で両親の私欲のために政略結婚の駒として扱われる不安に、押し潰されかけていたはずだ。


「兄上は太陽を象徴する男だ」


 俺は視線を逸らし、庭園の闇へと向ける。


「俺のような、その影に潜むただの石ころと比較する方が間違っている」


 突き放すような口調。

 それは、彼女に見惚れている自分を誤魔化すための防壁だった。


「……貴女も、退屈だったのではないか。あの場に馴染んでいるようには見えなかった」


「……バレてしまいましたね」


 彼女は少しだけ目を伏せ、バルコニーの手すりに白い指をかけた。月光に照らされた指先が、頼りなく細い。


「私のような伯爵家の娘が、このような豪華な王宮に招かれるのは……決して、名誉なことだけではありません」


 ドレスの裾を指でつまみながら、彼女は続ける。


「誰がより権力に近いかを計り合い、値踏みする視線に晒されて……なんだか、とても息苦しくて」


 その横顔に、俺は知っているはずの未来のミレイアを重ねてしまう。


 清らかすぎた彼女。汚濁に満ちた王宮で、俺を愛してしまったがゆえに悪女として処刑台に立たされた彼女。


 ――あの日。

 俺が彼女の首を撥ねたとき、空はこんなにも、青白く凍てついていただろうか。


「……ミレイア」


 名を呼び捨てにしてしまい、息を詰める。


「……ミレイア嬢。一つ、言っておく」


 喉がわずかに鳴った。


「もし、この場所が貴女にとって……息苦しすぎる場所になったときは……いつでも、俺を呼べ」


 自分でも驚くほど声は低く、地を這うように響いた。


「殿下……?」


「……俺は兄上とは違う。社交辞令も、甘い愛の囁きもできん。だが……貴女を縛るものすべてを、俺が――」


 ――焼き尽くしてやる。

 その言葉を歯の奥で噛み砕く。


「……俺が、その不満を聞き届けてやる。それくらいは、できる」


 精一杯の理性をかき集め、俺は目を逸らしたままぶっきらぼうに告げた。


 ミレイアは驚いたように目を見開き、やがて春の陽だまりのような微笑みを返す。


「殿下は、とても不思議な方ですね。今日初めてお会いしたはずなのに……ずっと前から私を御存じだったような、そんな温かさを感じます」


 その言葉は、どんな魔術よりも深く俺の心臓を貫いた。


(知っているどころではない。お前のすべてを、その命の散り際まで俺は覚えている)


 言えない想いが、胸の内で紅の帝呪となって静かに疼く。


 ミレイア。お前はまだ知らない。

 この穏やかな月夜が、やがて血の雨に変わることを。


「……買い被りすぎだ」


 俺は視線を逸らし、銀色に沈む庭園の闇を見つめた。


「俺はただ、退屈を紛らわせたかっただけだと言っただろう」


 頬を撫でる冷たい夜風だけが俺の隠しきれない、醜くも熱い執着を静かに冷ましていった。月光に冷やされた空気がドレスの裾を揺らし、木々の葉を微かに震わせる。噴水の水面に映る光が、波紋とともに歪み、静寂の底で小さく揺れていた。


 沈黙に耐えかねたわけではない。

 ただ、隣を歩く彼女のあまりの穏やかさが胸の奥に沈殿していた「かつての劣等感」を、否応なく掻き混ぜた。


 笑顔を貼り付ける必要もなく、言葉を選び抜くでもなく、ただ静かにそこに在る彼女。


 その在り方そのものが俺には眩しすぎた。


「……今、俺といることに後悔はないか?」


 自分でも驚くほど声は低く、抑えた響きで零れた。問いというより確認に近い。

 それでも口にした瞬間、胸の奥がひりつく。


「え……?」


 彼女は小さく瞬きをし、歩みを緩めて俺を見る。その無垢な青い瞳を向けられるたびに俺は自分自身の不器用さが、どうしようもなく嫌いになる。


「……兄上は、女性の扱いが上手い」


 視線を前に向けたまま、言葉を継ぐ。


「ミレイア嬢も……俺のような愛想のない男より、兄上といた方が楽しいんじゃないかと思っただけだ」


 それは前世――

 あの地獄のような日々の中でも、何度となく俺を苛み続けた出口のない疑問だった。


 冷酷な本性を幾重にも塗り重ねた優雅な微笑の奥に隠し、相手が望む言葉を、望む温度で過不足なく差し出すアルフレート。

 盤上を滑らせるように人心を操り「魅力」を武器にする兄。


 一方で俺は感情が揺れれば魔力が暴走し、口を開けば棘のある言葉しか選べない。


 どちらと過ごす時間が女にとって幸福か。

 答えなど、考えるまでもなかった。


「……私は」


 そのとき、不意に。


「私は、アルヴェルト殿下といて楽しいですよ」


 鈴が触れ合うような柔らかな声が、夜の静寂に溶けた。


「……!」


 思わず足を止め、目を見開く俺の横で彼女はふわりと、どこまでも慈しむように微笑んでいた。


 月光が頬を撫で、その表情をやけに近くで照らし出す。


「ふふ。まだ会ったばかりですけれど……」


 一歩分の距離を保ったまま、彼女は続ける。


「殿下の隣は、なんだか安心できます。無理に飾り立てなくていいような……そんな、不思議な気持ちになるんです」


「……そうか」


 返せたのはそれだけだった。短く絞り出すような声。


 喉の奥が熱を持つ。

 視界の縁が、また微かに歪みかける。


 ――安心できる。


 かつて彼女をこの手で「愛している」という言葉を吐きながら処刑した、この男の隣で。

 彼女は、そう言ったのだ。


(ああ……救われないな。俺も、お前も)


 彼女が感じているこの「安心」は、彼女が知らない愛着と絶望と、狂気にも似た執着の上に成り立っているというのに。


 それでも。


 今この瞬間、彼女は俺の隣で凍えることなく、穏やかに微笑んでいる。


 その事実だけで、俺は世界中の何よりも強い魔力を手に入れたような錯覚すら覚えた。


「……なら、いい」


 小さく息を吐き、視線を逸らす。


「……お前が望むなら、夜会が終わるまでここにいろ。退屈はさせない……とは言いきれんが」


 一拍置いて、付け足す。


「退屈の話し相手くらいには、なってやる」


 ぶっきらぼうに、吐き捨てるように言い切った。

 月明かりの下で紅の帝呪が今までにないほど穏やかに、それでいて確かな熱を持って俺の心臓の奥でトクトクと鼓動を打っていた。

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君が生きる結末だけを探して とばり @ouroboros_IX

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