第1話 灰の心臓は、まだ鼓動している

 肺に流れ込んできたのは、焼けつくような煙ではなかった。

 むせ返るほどに甘ったるい花の香りと、高価な香水が幾重にも重なり合った、傲慢な社交場の空気。鼻腔の奥にまとわりつくその匂いは、かつて帝国が最も栄華を誇っていた頃の記憶を容赦なく呼び覚ます。


「……っ、は」


 短く、肺の奥に溜まった澱を吐き出すように息を漏らした。

 深い水底から容赦のない力で一息に水面へと引き摺り出された、あの悪意に満ちた感覚。鼓膜の奥で鋭い耳鳴りが狂ったように反響し、視界は真っ白な欠落となって輪郭を失っている。


 ――死んだはずではなかったか。


 意識の最期、あの忌々しい『アイゼン・ロア』という名の脚本を、俺は確かにこの身とともに焼き尽くしたはずだ。


 だが、網膜を灼いたのは劫火の赤ではない。

 頭上で傲慢に輝く、巨大なシャンデリアの暴力的な光だった。無数のクリスタルが乱反射し、割れたガラスの破片となって容赦なく視界へ降り注ぐ。


 鼻腔を満たすのは死臭ではなく、贅を尽くした百合の甘さと、安物の自尊心を覆い隠すために振り撒かれた濃厚な香水の匂い。耳に届くのは崩落の轟音ではなく、上質な絹のドレスが微かに擦れ合う、衣擦れの贅沢な囁き。氷がグラスに触れ、クリスタル同士が硬質な愛撫を交わすような澄んだ音色。


 扇の奥に隠された、薄ら寒い笑い声。

 喉の奥に毒を忍ばせた甘い囁き。


 それら――あまりにも生々しい生者の熱気が、長く冷え切っていた俺の魂を、否応なく現実という名の檻へと引き戻していく。


 揺れる視界を無理やり押さえ込み、俺は己の掌を見つめた。

 そこには、あの地獄を彷徨っていた老いた皮膚はない。紅の帝呪に侵され、どす黒い血管が浮き出た醜い傷跡もない。それは、十八歳の頃の――まだ「人間」の形を保っていた、瑞々しさすら残る、白皙はくせきの掌だった。


 ああ、滑稽だ。

 灰になったはずの心臓が、再び、残酷なまでの力強さで時を刻み始めている。


「どうした、アルヴェルト。そんなに青い顔をして。やはりお前には、この華やかな場は荷が重すぎたか?」


 頭上から降ってきたその声に、心臓が一瞬、止まった。

 聞き覚えがある。それも、何十年も前に、確かにこの耳で聞き続けた声だ。


 弾かれたように顔を上げる。


 そこに立っていたのは、豪奢な軍装に身を包み、勝ち誇ったような笑みを浮かべる男。完璧な立ち姿。周囲の視線を当然のように集める存在感。


 ――兄上。


 優秀で、冷酷で、俺を「感情の制御もできぬ欠陥品」と蔑み続けていた次代の皇帝候補。

 ミレイアを守るためと俺がこの手で屠ったはずの兄が、生きて、息をしてそこに立っていた。


(……戻った、のか?)


 胸の奥で、早鐘のように心臓が鳴り響く。

 

 あの図書室で、怒りと呪いが臨界点を超えた瞬間。魔力は理を食い破り、世界の綴じ目を引き裂いたのだ。


『アイゼン・ロア』には、こんな展開は一行も存在しなかった。

 帝王が時を遡るなど、設定のどこにも書かれていない。これは――物語に対する、俺の明確な「反逆」。


「返事もできんのか。やれやれ、これでは帝王の補佐など夢のまた夢だな」


 兄は鼻で笑い、興味を失ったように背を向けた。その背中を追うように、周囲の貴族たちが小さく囁き合う。嘲笑と優越感に満ちた粘つく視線。


 だが、そんな雑音はどうでもよかった。


 今日。

 この場所。

 この時間。


 記憶が正しければ、俺はこのあと――

 人生で最も残酷で、最も愛おしい女性と出会う。


 ドクン、と心臓が跳ねる。

 感情の揺らぎに呼応し、紅の帝呪が胸の奥で静かに疼いた。


(同じ展開になど、させてたまるか)


 俺は「ラスボス」として彼女を殺し、死ぬために生まれたと、あの本は言った。ふざけるな。


 俺の人生を勝手に綴り、彼女の命を舞台装置として消費した「神」とやらに今この瞬間から宣戦布告してやる。


 ホールの入り口が、にわかにざわめいた。

 新たな客人の到着――その事実がさざ波のように、あるいは飢えた獣が獲物の気配を嗅ぎつけたかのように、招待客たちの意識を一斉に揺らす。無数の視線が吸い寄せられるように、その一点へと収束していった。


 ――そして、俺も。


 抗いがたい引力に魂を引き剥がされるように、視線をそちらへ投げる。

 そこにいたのは、幾星霜の孤独の果てに、俺がただ一度の再会だけを夢見続けた、光だった。


 シャンデリアの暴力的な黄金色を撥ねつけるように、夜の静寂そのものを掬い上げたかのような月光を編み上げた淡い金の髪。

 肥大した欲望と陰謀にまみれた貴族たちの渦の中で、彼女が立つ場所だけが、世界から美しく切り取られていた。そこだけが神に許された清浄な空白であるかのように、塵ひとつ触れさせぬ透明な空気が、彼女を静かに包んでいる。


 そして、その双眸。

 澄み切った青い瞳がそこにあった。


 そこには俺を拒絶する怯えも、地位を測るための浅ましい計算も、ましてや処刑台の上で俺に向けられた、あの悲痛な諦念さえもまだ一滴たりとも混じっていない。


 ただ、春の泉のように。

 無垢に、純粋に、これから始まる「夜」という名の未知を映しているだけだ。


「…………あ」


 声にならない熱が、喉の奥までせり上がってきた。

 その瞳に、その髪に、その指先に。

 俺がどれほどの代償を払ってでも守りたかった、それでもこの手で散らしてしまった、痛いほどの「生」が宿っている。


 数十年、灰として生きてきた俺の肺が彼女の存在を吸い込んだ瞬間、焼きつくような痛みを訴えた。


 ――生きて、いる。


 彼女は今、確かに、この歪な世界の片隅で呼吸をしている。

 その事実だけで胸の奥が引き裂かれそうになる。


 俺は無意識のうちに、一歩、足を踏み出していた。

 このまま駆け寄り、その華奢な体を砕けるほどに抱きしめてしまいたい。だが、その衝動が魔力の奔流となり、彼女を傷つける未来だけは決して許されなかった。


 俺は、自分の内に蠢く「獣」を深く檻に押し込める。そしてただ一人の、愚かで不器用な男として彼女という名の光へと、静かに歩みを進めた。


 ミレイア・オリベア


 まだ俺の妻でもなく、俺の手によって首を落とされる運命も知らない、若き日の彼女。


 数十年ぶりに見る、生きている彼女。

 これから始まるのは、あの本には記されていない、俺だけの二周目だ。


 彼女の前に立ち、人生で最も不器用な「仮面」を被り、声を絞り出す。


「……初めまして、ミレイア嬢」


 彼女は不思議そうに首を傾げ、その青い瞳に俺を映す。


「お初にお目に掛かります、アルヴェルト殿下。……あの、私に何か御用でしょうか?」


 怯えはない。

 あるのは、ただ見慣れぬ皇子に話しかけられたことへの純粋な戸惑いだけ。


 ああ、そうだ。

 今の彼女にとって、俺はただの「皇帝の弟」に過ぎない。俺だけが彼女との愛を、彼女の死を、体温を覚えている。


「……貴女が、あまりに危うい場所に立っているように見えた。だから、放っておけなかった。……それだけだ」


 嘘ではない。

 だが、その言葉の裏には、この世界を呪い殺すほどの決意を込めた。


「今宵、俺に時間をくれないか。……貴女のことを、もっと知りたいんだ」


 ミレイア。今度こそ。


 この物語の最後を、俺たちの幸福で塗り潰してみせる。

 たとえ世界そのものを敵に回しても、お前を殺して終わる脚本シナリオなど、俺が今ここですべて書き換えてやる。

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