君が生きる結末だけを探して

とばり

プロローグ

 その男の心臓は、すでに灰に等しかった。

 ――いや、正確には、燃え尽きたあとの残滓が醜く胸の奥にこびりついているだけだ。


 アークレイン帝国の帝王、アルヴェルト・アルカレイド。

 それが今の俺の、形骸化した名前だ。


 俺が愛した妻、ミレイアの首を断罪の刃で撥ねてから、星は幾度その位置を変えただろう。数えることさえ、彼女に対する冒涜に思えるほどの年月が流れた。


 その間に俺から人間らしい色彩はすべて剥ぎ取られ、世界はモノクロームの静止画へと変わった。


 鏡に映る顔は端正に整っている。

 だが、黒髪の隙間から覗く瞳だけは、死を隠しきれていなかった。枯死した樹木のように、何も映さず、何も宿さず、ただ光を吸い込むだけの虚無。


 王家に伝わる紅の帝呪ていじゅ

 それは今や祝福でも呪いでもなく、ただの猛毒として俺の血管を満たしている。


 感情を殺せば殺すほど魔力は澄み渡り、呪いは深く魂に根を張る。その代償として、内側から削り取られていくのは、俺自身の肉体だった。


 指先が冷えるたび、肺が焼けるような呼吸を繰り返すたび、死がすぐ隣で微笑んでいるのを感じる。

 余命は持って数年だろう。


 隣国リリエールとの関係は、いつ戦火に転じてもおかしくない臨界点にあった。

 だが、そんなことは――この国が滅ぼうが、世界が灰になろうが、どうでもよかった。


 太陽が昇り、沈み、また昇る。

 その残酷なまでの反復は、俺にとって救いのない刑罰でしかなかった。


 崩れゆく人形のような足取りで、俺は帝国一を誇る大図書の深奥へと足を踏み入れた。そこは、死者の記憶だけが積み上げられた、墓標の迷宮だ。

 古びた紙とインクの匂い。沈黙だけが許されたその場所で、自分の足音だけが、砂を噛むように耳障りに響いている。


 ――そのときだった。


 ガコン、と。

 硬質な音が、停滞した空気を鋭く裂いた。


 誰もいないはずの閉ざされた空間。

 埃の舞う棚から、一冊の本が自ら命を絶つように零れ落ちていた。


 使い古された革表紙。

 剥げかけた銀色の文字。


『アイゼン・ロア』


 その題を目にした瞬間、指先に稲妻のような痺れが走った。見覚えはない。聞いたこともない。それなのに、俺の魂が「これを知っている」と叫んでいた。


 俺は導かれるようにその本を拾い上げ、震える指でページを繰った。


 ――そこに書かれていたのは、俺の「一生」だった。


 帝王としての冷酷な歩み。

 感情を封じるための孤独な修練。

 そして、愛してしまったがゆえに「悪女」の汚名を着せられ、俺自身のこの手で命を奪った、ミレイアの最期までもが。


 彼女の首を撥ねたときの、掌に残った熱。

 呆気ないほど簡単に壊れてしまった、細い首の感触。

 それらすらも、一言一句違わぬテキストとして、そこに固定されていた。


 文字は残酷な宣告となって、俺の思考を塗り潰していく。


 物語の中の俺は、意志を持つ一人の男ですらなかった。数年後、隣国の光の聖女、ルミエリス・フェルドによって浄化されるためだけに用意された、醜悪なラスボス。


 ……ああ、そうか。


 すべては、あらかじめ決められた遊戯だったのだ。


 ミレイアが、あんなにも惨めに、あんなにも清らかに死ななければならなかった理由。それは、一人の聖女を輝かせるための「悲劇的な舞台装置」が必要だったから。


 俺たちが血を吐きながら紡いできた愛も、彼女を奪った絶望も、すべては読者を愉しませるための安っぽいスパイスに過ぎなかった。


 ――俺は、こんな下らない物語のためにお前を殺したのか。


 胸の奥で、どろりとした何かが煮え立った。

 それはこれまで感じてきたどの悲哀よりも深く、どの絶望よりも鋭い。


 純粋で、狂気に満ちた「怒り」だった。


 ドクン、と心臓が爆ぜるように脈打つ。

 紅の帝呪が俺の意志を嘲笑うように暴走を始める。


 赤黒い光が溢れ、物理法則を無視して空間を喰らい尽くしていく。

 数万の英知を刻んだ書物は瞬く間に紅蓮の炎に包まれ、豪奢な絨毯は雪のように灰へと変わった。


 熱風が頬を焼き、肺を焦がす。それでも俺は逃げなかった。逃げる場所など、この世界のどこにもないことを知ってしまったから。


 崩れ落ちる天井。

 視界を埋め尽くす劫火。


 その地獄の中心で、俺はただ一人の幻影だけを追っていた。


「ミレイア……」


 それは、祈りにもならない産声のような呟きだった。


 消えてしまいたい。

 けれど、忘れたくない。


 もしも、この物語に続きがないのなら。もしも、神が書き忘れた白紙のページが、塵ほどでも残されているのなら。


 ――俺は、ただ、お前と笑い合いたかった。


 理性を焼き尽くす炎の中、意識が遠のいていく。

 次に目を醒ます場所が、救いようのない暗闇であっても構わない。


 俺の意識は真っ白な虚無へと静かに溶けて消えた。

 心臓の最後のひと叩きを、彼女の名前を呼ぶために使い切って。

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