鬼の慈悲、福の代償
そしてついに節分の日。
昼間の病棟は、色紙で作ったお多福や、デフォルメされた可愛い赤鬼の飾りで溢れていた。
「鬼はぁーそと! 福はぁーうち!」 元気な子供たちの声と、わざとらしく「やられた〜」と逃げ回る父母や看護師の笑い声。
明良は、その喧騒の隅で、つむぎが自分の小さな角を隠すように、少しだけ俯いているのを見逃さなかった。
「……なんや、つむぎちゃん。あんなん、ただのコスプレやんか。俺らの本物の角に比べたら、あんなんプラスチックの安もんやで。そんなシケた顔してたら、せっかくのアンテナの感度が落ちてまうわ」
明良がおどけてみせても、つむぎは力なく微笑むだけだった。
「……お兄ちゃん。鬼は外、なんだね。やっぱり鬼さんは追い出されちゃうんだよ」
その言葉に、明良は言葉を詰まらせた。
自分たちは、神に安眠を捧げ、この世界を夜通し支えている。それなのに、昼の世界では「追い払われるべき悪者」として扱われている。
そして、デジタル時計が二十四時を回り、赤い光が病棟を包み込んだ二十五時。つむぎにとっての、もうひとつの「豆まき」が始まった。
それは、昼間のにぎやかなものとは正反対の、静謐な儀式だった。
サービスステーションの奥から、例の黒猫が銀色の小さな白い紙の袋をくわえて現れた。その中には、豆ではなく、透き通った星の欠片のような、青白い金平糖の粒がいくつか入っていた。
「お兄ちゃん、見てて。これが私たちの『豆まき』だよ」
つむぎは、深く眠り続ける母親の枕もとに立つ。そして、その青白い金平糖をひとつ、そっと母親の胸のうえに置いた。
「鬼は、内。福も、内」
つむぎの小さなささやき。
明良は眼を見張った。
昼間、人々が「外」へ追い出した鬼は、夜になると自分たちを拒絶した人々のすぐ傍に寄り添い、彼らが内側に抱えている悪夢や穢れを、金平糖に吸い取らせていたのだった。
「……なんや、それ。めちゃくちゃ損な役回りやんか。追い出されといて、夜中にこっそりお返しに来るとか。どこのお人好しのサンタクロースやねん」
「ううん、お兄ちゃん。鬼さんはね、きっと追い出されるのがお仕事なの。みんなの悪いものを全部持って、外に行ってあげるのがお仕事。でも夜だけは、こうして『お疲れ様』って言いに来るの。明日も元気に笑えるようにって」
つむぎが金平糖を置くたびに、眠っている母親の眉間のしわが、すうっと解けていった。
「……かなわんなぁ。とんだ泣いたあかおにやわ。俺もやるわ」
明良は、つむぎから青白い金平糖を分けてもらうと、リハビリ中なのも忘れ、病棟の廊下へと踏み出した。
「よっしゃ、お待たせしました、おっさんの出番やで。鬼は内、福も内。……おまけに俺のボケも内や。みんな、笑いながら寝とき」
二千八十五年の節分の夜。
赤く染まった病院の中で、ふたりの鬼は、自分たちを外へと追いやった世界のために、静かに、福を配り歩く。
••✼••
夜の散歩のある日、ふたりは赤い光に満たされた階段を一段ずつ上がり、重い鉄の扉を押し開けた。
そこには、昼間の濁った空とは全く違う、宇宙の深淵まで透き通ったような「二十五時の空」が広がっていた。
凍りついたベンチに、持参してきた毛布を敷き、コートを着込み、それぞれマフラーで首をあたためながら、空を見上げた。吐く息は白く、星は赤い色がにじみ、瞬いている。
「……うわ、なんやこれ。星が、落ちてきそうやん」
明良が夜空を見上げて絶句した。
通天から伸びる角が、星々の放つ微弱な瞬きをダイレクトに受信して、脳内でスティールパンの音に変換しているような感覚。鬼の眼には、星はただの光ではなく、命を持った大きな宝石のように見えていた。
「あっちが『鬼と白鳥座』。で、あっちの大きなキラキラしてるのが、新しくできた『白猫座』だよ!」
つむぎが小さな指で夜空をなぞる。そこには、尻尾を丸めた猫のような星座が、銀色の毛並みを光らせて浮かんでいた。
「……白猫座か。ええなあ。猫様は空の上でも自由やな。鬼になってから初めて空見たけど、こんなに世界ってキラッキラやったんか」
明良が感嘆していると、つむぎは不意に視線を落として、自分の小さな、柔らかそうな一本角をそっと撫でました。
「あのね、お兄ちゃん……。私、こんなに早くに奉納されちゃったから。……大人になっても結婚できないかもしれない。鬼さんは、ずっと夜の中にいなきゃいけないから」
赤い光に照らされたつむぎの横顔が、あまりに寂しげで、明良はハッとした。
「……アホやなあ! つむぎちゃん、自分、鏡見たことあるか? 何いうてんの。つむぎちゃんは、こんだけ可愛いんやから、人だろうが鬼だろうが入れ食いやろ!」
「いれぐい……? ってなに?」
首をかしげるつむぎに、明良はしまったという顔で、つむぎに向けて大きく手を振った。
「あー、それは、まあええやんか! 要するにモテモテやってこと! 選び放題、つかみ放題やってことや!」
「そうかな……」
「そやがな! ……そんでな、もし十年経っても、周りの男どもが
「くび、あらっておいたらいいの?」
きょとんとするつむぎに、明良は顔を真っ赤にして、自分の頭をくしゃくしゃとかきました。
「えーい、 俺が嫁にもらってやるからなって言うてんねん。二十五時の王子様が、ヨボヨボのおっさんやけど歩行器カタカタいわせながら迎えにいったるわ。多分な?いやもっと先か? 知らんけど」
つむぎは一瞬驚いたように眼を見開き、今日一番の、ひまわりが咲いたような笑顔になった。
「……ふふ、あははは! お兄ちゃん、王子様なら、白馬がいいな。約束だよ?」
「おう、約束や。鬼の言葉に二言はなしや。指切りやなくて、角切り、しとく?」
二人が座ったまま、頭をくっつけ合って角を合わせようとすると、どこからか黒猫がやってきて、二人の足もとで、にゃあと一鳴きした。
二十五時半の屋上。
赤い月明かりの下で、明良の精一杯のなぐさめが、新しい星座たちに見守られながら、静かに空に溶けていった。
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