鬼の奉納 —二十五時の赤い夢—
柊野有@ひいらぎ
猫と鬼と干支。
二千二十八年。
日本の干支に「猫」と「鬼」が加わってから、もうすぐ二年が経とうとしている。
長い間、猫を入れるかどうか、神は検討してきたが、鬼がまずあらわれ、それから、猫は昇格して追加となった。干支は二十四の時間を司る数字でもあったが、十時と十一時の間に新たに時間が加わった。
二十四時。それは一日の終わりではない。
アナログ時計の針はそこで沈黙し、選ばれなかった人は抗えぬ眠りという名のナルコレプシーへと墜ちていく。代わりに、デジタル時計の数字がバグのように歪み、二十六時までを表示する。そこから0時まで、神に安眠を捧げた者、つまり「鬼」たちの時間が始まるのだ。
猫と、鬼。
そのふたつには、人より二時間多く与えられた。
そのとき、パチリと病室の白熱灯に赤い色が混ざる。
昼間の無機質な白とは違う、東南アジアの路地裏の飲み屋のネオンを思わせる、湿った赤だ。熱病の夢のように、すべてがねっとりと粘着質な輝きを帯びる。
••✼••
「……はあ、鼻通ってるわ。怖いくらいに」
十九歳をしばらくすぎた日だった。
数日前、トラックに自転車ごと跳ね飛ばされた瞬間、彼の人生のスイッチは切り替わった。生死の境で、頭頂部の少し前――「通天」と呼ばれるツボが熱を帯び、そこから細く硬い二本の角が突き出てきたのだった。
その瞬間から、長年の悩みだった慢性鼻炎は消え失せた。
脳髄に直接流し込まれる空気は、驚くほど冷たくて、鋭い。意識は研ぎ澄まされ、昼間なら聞き逃すような風の鳴き声さえ、神の独り言のように聞こえた。
「なんやこれ。空気が甘いっちゅうか、濃いゆうか。俺は、今まで泥水の中で息してたんか? ったく」
リハビリ用の歩行器にすがりながらも、明良の足取りは驚くほど軽い。
右足の靭帯損傷と肋骨の骨折は数ヶ月の治癒期間を想定されていたが、思ったよりも痛みはなかった。
頭のてっぺん、百会の斜め前にあるツボのひとつ「通天」から伸びた、細く硬い二本の角。それがアンテナのように、二十五時の赤い空気を吸い上げている。
夜中の眠れない時間を、足のリハビリのために病院の通路を歩き回る。今は、それくらいしかできないからだ。
そんな彼の前に、黒髪を揺らしてぶつかってきたのが、小さな鬼の少女、つむぎだった。胸の辺りに頭頂があり、とっさに片手で抱きとめた。
「うわっ、危な!……お嬢ちゃん、どっから湧いてきたん? びっくりして角、もう一段階伸びそうやったわ」
つむぎは人差し指を口に当てて、明良の鼻先を指差した。
「いい? お兄ちゃん。ここでは、足音を立てちゃダメなの。大きな声もね。みんなの安眠を私たちが預かってるんだから」
「あー、なるほどな。預かりものか。そら大事にせなあかん。俺も実家じゃおかんの預かりもの、一手に引き受けてたからなあ。おかんが、うとうとしてる間に勝手に冷蔵庫のプリン食うのが、俺のちょっとした夜の仕事やったし」
「プリン食べるのが、どうして、仕事なの?」
「そら、決まっとるやん。俺は起きてましたよーいうのを、アッピールせな。みなさん寝てるいうのに、俺寝られへんわ、って……『なんか心配事でも?』ってなるやんか。親は心配すんのが仕事やん。要は構ってほしいねん、俺は、って言わせんな!」
明良が照れ隠しに大げさな身振りをしてみせると、つむぎは鈴を転がすような声で笑った。
「ふふ、お兄ちゃん、さみしがりなんだね……でも、もうそんなことしなくていいんだよ? アピールしなくても、私や看護師さんは、お兄ちゃんが起きてるの、見てるから」
「そうかなあ。見てくれるやろか」
「お兄ちゃん、かっこいいもん。その細くてシュッとした二本角、すっごく強そう」
「お。せやろ? 二本立てなのは、ボケとツッコミを同時に受信するためやねん。……でもなあ、お嬢ちゃんのその小さな一本角の方が、よっぽど上品でええわ。俺のなんか、ちょっと気合入りすぎのアンテナみたいやんか」
「え? リボンをつけたらかわいいよ。……私の名前はね、つむぎ」
「初めまして。つむぎちゃん。俺は、
明良は、つむぎの傍らの補助ベッドで彫像のように深く眠っている彼女の母親に目を向けた。
「……お母ちゃん、ええ顔して寝てはるなあ。こんな幸せそうな顔、おかんにもさせてやりたかったわ。僕が鬼になったんじゃなければ、おかんも幸せになれたんかな」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。今は、お母さんたちが寝る時間。私たちが、この赤い光の中でお仕事をする時間。……夜の歌を教えてあげる。鬼の看護師さんに教わった、とっても静かな歌」
「歌かぁ……うん、ええかもな。僕、音痴やけど大丈夫か? 音痴の鬼って、それただの騒音被害。ジャイアンみたいで、きっと角一本、苦情で折られてまうわ」
••✼••
つむぎは明良の手を引いて、薄暗く赤い廊下を、足音を消し滑るように歩いている。小さな歌を口ずさみながら。
「いい? お兄ちゃん。ここからはね、影の踏み方を教えるね。鬼は、寝ている人の影を絶対に踏んじゃいけないの。影を踏むと、その人の夢がちょっとだけ重くなっちゃう」
「影を踏んだらあかん……。まるで忍者の修行やな。よし、任せとき。俺、『影が薄い』言われるのには慣れとるし、影を避けるのなんてお茶の子さいさいや。なんや、影が薄いて、やかましわ!」
そう言って、明良はリハビリ中の重いはずの足を、慎重に踏み出した。
通天のツボから生える角が、周囲の人の眠りの気配を敏感に察知し、どこに足をおろすべきか、カーナビのように頭の中に地図を描き出していく。
「おう。これはなかなか。鬼は、こんなこともできるんやな」
••✼••
ふたりは、シャッターの降りた売店の前を通った。
昼間は騒がしい場所だが、今は赤い光に包まれ、深い海底に沈んだ宝箱のように静かだった。二十四時を越えると、光が一変する。ほんのりと赤い光が混ざり、二十六時まで続く。
「お兄ちゃん。ここのシャッター、鬼は指でトントンって音を消して叩くとね、夜にしか開かない『隠し棚』が出るんだよ。鬼の子だけが食べられる、特別な飴玉が入っているの」
「マジで!? 隠しコマンドやん。裏技やんか。……お嬢ちゃん、それ俺に教えてええん? 俺、そんなん知ったら、毎日ここ通ってリハビリどころか
「いいよ、お兄ちゃんも仲間だもん。……あ、でも飴を食べる時も音はダメだよ? 飴が溶ける音まで、神様に捧げるつもりで、そっとね」
明良は、つむぎの小さな背中を見つめながら、自分の角が少しだけ熱を帯びるのを感じた。
事故に遭い、家族と離れ、二度と人間には戻れない神への「奉納」の世界に来てしまった。けれど、この少女と過ごす時間は、優しい肯定感に満ちていると感じた。
「……つむぎちゃん。飴玉、俺が取ったるわ。ボケ倒して神様笑わせてる間に、こっそり二個もろたるからな」
「だめだよお兄ちゃん、一個だけだよ」
赤い光の中、ふたりの影が、眠る人々を守るように伸びていく。
••✼••
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