第3話 最後の一音
ついに発表会の日がやってきた。
香奈は、借り物のくるぶしまである黒いドレスに身を包み、上からコートを羽織る。
マフラーを手に持ち、家族に声をかけた。
「リハーサル行ってきます」
二人は玄関先まで見送りに来てくれた。
「あとで行くからな」
「ママ頑張ってね」
香奈は、すっとしゃがむと凛に声をかける。
「凛、この間はごめんね。強く言っちゃって」
「なんのこと? いつものことだし、忘れたんだけど」
嘘ではなさそうだ。
(いつものこと、か……)
香奈は自身の行いを反省しつつ立ち上がる。
「……今日は頑張るね!」
拳を握り、凛とグーでタッチする。
ちらっと仰ぎ見ると、恭一も手をぐーにしている。
香奈は、そっと拳を突き合わせた。
外に出ると冷たい北風が吹いていた。
手に持っていたマフラーをぐるぐると巻き付け顔を埋める。
(ピアノ、二年も続くと思わなかったな)
今日の発表会は大人5人だけで行われるので、会場は小さなピアノサロンだった。
扉を開けた香奈の目に、美しい艶を纏った黒いグランドピアノが飛び込んでくる。
(わぁ、スタンウェイだ)
"ピアノの王様"と評されるそのピアノは、柔らかく澄んだ音色がする。
リハーサルで弾かせてもらうと、まるで自分のピアノの腕が一段も二段も上がった気がした。
あっという間に本番が近づき、香奈は他の出演者と一緒に壁際に沿って一列に座っていた。
(いよいよだ)
不思議と緊張はない。
恭一と凛が後方から手を振っているのが見える。香奈も膝上で小さく手をひらひらさせた。
「田中さん」
「はっ……はい!」
はじめに名を呼ばれた男性は声を裏返らせ、わずかな距離を手と足を一緒に出して進んでいった。
ピアノの前に立つと、油の切れたロボットのようにぎこちなく椅子に腰を下ろしていく。
鍵盤に置かれた手が、遠くからでも分かるほどぶるぶると震えていた。
得も言われぬ緊張感の中、皆が一心に彼を見守る。
(大丈夫かしら……)
男性はつっかえながら弾き出した。
手の震えはさらに大きくなり、思わず目を覆いたくなる。
香奈はごくりと唾を飲む。
香奈の祈りも虚しく、彼の指は曲の途中だというのに突然ぴたりと止まり、とうとうそのまま動かなくなってしまった。
会場はしん……と静まり返る。
先生が素早く歩み寄り「ここからなら弾けますか?」と小声で楽譜を指さしている。
男性は耳まで真っ赤にして、再び曲を弾き始めた。
(がんばれ、がんばれ……)
気づけば香奈の手はドレスを強く握り締め、汗でじっとり湿っていた。
最後の1音が、空気を震わせ宙に吸い込まれる。
会場は温かい拍手に包まれる。
香奈はようやく息が吸えた。
お世辞にも上手いとは言えなかった。それなのに、香奈の目には涙が滲んでいた――
――
「おつかれー」
帰宅後、香奈はスーパーで買ったお寿司とビールで乾杯した。
凛が批評家のような口調で言う。
「なかなか良かったよ。ちょっとミスってたけどね」
「そうね、あそこは苦手だって自覚してたのに……練習不足ね」
恭一が首を横に振り、珍しく興奮気味に言う。
「そんなことないよ。本当に良かった。仕事も家庭もあるなかで、なかなかできることじゃない」
そんな風にまっすぐ言われると少し照れる。
恭一はぐっとビールを飲み干すと、元気に言う。
「俺も何か挑戦してみようかな」
すかさず凛が尋ねる。
「へぇ、パパ何やるの?」
「うーん。バイオリンとか? 興味なかったけど、弾けたらかっこいいかなぁって……」
よくわからない理由に、香奈は吹き出した。釣られて2人の笑い声も響く。
おかしすぎて出てきた涙を指で拭いながら、香奈は言う。
「ダイビングは? 前にやりたいって言ってたよね。泳ぐの得意だし」
「うん……でもお金も時間もかかるしなぁ」
「パパそんなこと言ってたら、なんにもやらないで おじいちゃんになっちゃうよ?」
凛の鋭いツッコミに恭一はたじろぐが、すっと立ち上がりスマホを手にした。
「隣駅に教室があるみたいだ。体験、今すぐ予約してみるよ」
そう言い、スマホ画面に指を滑らせる恭一は生き生きしている。
(なんか、かっこよく見えるな)
香奈の視線を感じた恭一は顔を上げる。
「あれ、駄目だった? ダイビング……」
「ううん、素敵だと思うよ」
横で、凛が神妙に言う。
「私もパパとママに負けてられないな。ピアノ練習しようっと」
香奈はにっこり微笑む。
久々に穏やかな気持ちだった。
―――
週明け、里花とお昼に行こうとしていると、エレベーター前でエリアマネージャーから声をかけられた。
「小川さん、この間はありがとうね。報告書見やすくなってたよ」
「あ……ありがとうございます」
部長に言われて変更したあの報告書だった。
皆の前で称えられたわけじゃない。短い、形式的な言葉ではあった。
それでも、香奈は指の先まで温かくなった気持ちがした。
ビルを出ると里花が口を開く。
「私、ヨガ始めたんですよ」
「へぇ? なんでまた?」
里香は嬉しそうな顔になった。
「香奈さんが、大人になってからピアノを始めたって聞いて、私も何かチャレンジしたくなったんです」
思いがけない言葉に、香奈は喉の奥から何か熱いものがこみ上げて来そうだった。
昨日の恭一と凛といい、自分が周りにいい影響を与えていることがくすぐったくもあり、素直に嬉しかった。
ビル風の冷たさも、今日は全く気にならない。
香奈は、巻いていたマフラーをするりと解く。首元に風が当たって気持ちがいい。
肺の中にあるものを全て出し切り、味わうように空気を吸い込んだ。
「しっかり食べて、午後も頑張ろうね」
香奈の耳に再び"エリーゼのために"のメロディーが響く。
おもちゃの電子音ではない、スタンウェイの柔らかな音色で――
――終――
エリーゼのために を弾きたくて―大人ピアノへの挑戦 雪城 冴(ゆきしろ さえ) @yukishiro-haruka
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