第2話 鳴らないピアノ

 家での夕食後、香奈は台所にいた。


 皿の裏の油を拭き取りながら、凛の背中に声をかける。


「ピアノ練習やったの!?」


 凛はぷぅっと頬を膨らませる。

「んもう、今やろうと思ってたのに」


 大股でピアノに向かうと、凛はさらっと1回だけ弾いた。

 そして「はい、終わった」、と投げるように言う。


 耳を傾けていた香奈は眉をひそめる。


「……もう一回くらい弾いたら?」


「えー、テレビ見たい」


 凛にピアノを習わせたのは香奈だった。物心付く前の小さな手を引いて――


(私の夢を、凛に押し付けちゃ駄目よね)



 香奈はそれ以上言うのはやめた。

 小さくため息をつき、ピアノに手を置く。指が吸い寄せられように白と黒の鍵盤の上を走っていく――


 発表会は、『エリーゼのために』を弾くことに決めていた。ベートーヴェンが愛する女性に贈ったと言われる曲。

 あまりにも有名な物悲しいメロディーは、幼い香奈を虜にした。

 

 ピアノを弾いている間は、日常の煩わしさから解放されて一人の人間に戻るような感覚がある。


「ママ、まだやるの?」

 不意に肩を叩かれた時、凛が見ていたテレビアニメは既に二つ終わっていた。


「ごめん、つい」


「別にいいけど本当に好きだね。

指練習ですら楽しいって言うんだから、ある意味才能じゃない?」


 香奈は苦笑した。


「大人になってからでも遅くないって言ってくれた、パパに感謝よね……」 

 小さな声で香奈が言うと、ちょうど恭一がドアを開けた。


「ただいま」


「おかえりなさい。見てほしいものがあるの」


 香奈は隣の部屋のクローゼットの奥から、ピンクのひらひらドレスを引っ張り出す。

 ファスナーがお尻のあたりと胸のあたりで止まりかけた。

 リビングに恐る恐る顔を出す。


「どう?」


「わっ、お姫様みたい! ママかわいい!」

 女の子らしくはしゃぐ凛の隣で、恭一は困り顔だ。


(さすがにピンクは無理があったか……

ドレスはレンタルしよう)


「ご飯にしよっか」

 

 香奈は、箸を動かす恭一をじっと見る。優しそうな目尻の皺も白髪も少し増えた。

 そもそも、ずいぶん久しぶりに彼の顔を真正面から眺めた気がする。


(お互い年とったなぁ……)


 香奈は食器を片付けながら、頭の中は仕事のことに置き換わっていた。



 ―――


 会社では締め日が終わり、つかの間の閑散期が訪れていた。

 画面から目を離し、手元の珈琲に視線を落とすと、里花がか細い声をかけてきた。


「香奈さん。今、南商事からお電話があって……支払いがされていないと言うんです」


 南商事――

 その会社名を聞いて、香奈はさっと血の気が引いた。


「原因は分かる?」


「はい、口座番号の最後を間違えていて……すみません。確認したはずだったのですが」

 

 心臓がバクバクいっている。

 香奈は動揺を隠し、里香と自分を落ち着かせるように言う。


「ごめんね、私も見落としてた。先方には私からお電話するから」


 香奈は受話器を手に取る。

 ダイヤルを押す指がなかなか動かない。


 一度受話器を戻した。


(報告が先か……)


 部長に先の件を伝えると彼は体を揺らし、口をへの字に曲げた。


「困るなぁ。金額もかなり大きいじゃないか」


 形だけとは言え最終承認は部長だった。

 彼の頭からその記憶は抜け落ちているらしい。もちろん、今そんな事を言うつもりはないが。


 香奈は潔く頭を下げる。


「申し訳ありませんでした。先方への謝罪は私からしようと思いますが、よろしいですか」


 部長は苦々しい顔で吐き捨てる。

「僕はこれから会議だから、君からきちんと言ってくれよ?」

 『自分に迷惑をかけるな』という言外の指示を受け取り、暗い気持ちが胸に垂れ込める。

 香奈はそれを取り払うように、もう一度部長に頭を下げた。


 席に戻り、再び受話器を取る。

 番号を確かめるように、ひとつひとつしっかりボタンを押した。


プルルルルル――


 平静になろうと息を吐くも、1度目のコールが鳴り終わる前に、ガチャッと相手が電話を取った。


 香奈は口から出た息を慌てて吸い戻す。



「はい、南商事です」


(あぁ……)


 そのキンキン耳に響く声を聞いて、香奈は受話器を握る手に力を込めた。

 何故こういう時に限って彼女が出るんだろう。


 彼女――丸山百合は、

 人の話を途中でがんがん遮り、よく言えば繊細、悪く言えば神経質な人だった。

 


 挨拶もそこそこに本題に入る。


「申し訳ございません。こちらの誤りで支払いが遅れていると――

はい、はい――」


 棘のある声が、受話器を通して耳を刺す。

「どうしてこういう事が起きるんですかね? 再発防止のためにはどうするんですか?」


 香奈はデスクの前に誰かが立っているかのようにぺこぺこと頭を下げる。

「はい、今後は確実に振込みが出来るよう……」

 言い終わる前に金切り声が響き、香奈は思わず受話器を耳から離す。


(仕方がない……)

 こうなったら、丸山の気が済むまでお叱りをいただくしかなかった。

  

 変わらず頭を下げ続けながら、香奈の心はどこか別のところにあった。

(ぺこぺこ謝る姿を"コメツキバッタみたい"って言うけど、本当だな……)

 なぜかそんな事をぼんやり思っていた。


 既に十五分が経過した。

 香奈の心はだんだん麻痺し、壊れた人形のように「はい」を繰り返す。

 山本の声もややトーンダウンしてきた。

 

(そろそろ解放されるかな)

 そんなことを考えながら時計の秒針を見ていると、彼女が鼻を鳴らす音がした――


「……前任の方のときは、こんなことありませんでしたけどね」

 嘲るような言い方だった。

 香奈の胸の奥は、ナイフで切りつけられたようにすっと冷えていく。

 自分の今までを全て否定されたようだった。


 その後なんと返事をしたのか覚えていない。気づけば受話器は電話に戻され、里香が眉を寄せこちらを見ていた。


「香奈さん、本当に申し訳ありませんでした」


「ううん、大丈夫……」

 顔の皮膚がぴんと引きつり、頬のあたりがぴくぴく動いているのを感じる。


"前任の方のときは、こんなこと――"

 

(笑え……)

 小さなブライドが、後輩に情けないところを見せるのは許さなかった。

 香奈は口の端をくっと上げ、笑顔をつくった。



 ―――


 帰宅後のピアノ練習も身が入らず、香奈の指はピアノの上っ面をなぞるだけだった。


(もう発表会はすぐなのに……)

 焦る香奈に、凛がちらっと目をくれる。


「ママ、部分練習しないと。通しで弾くだけじゃ上手くならないよ?」


 いつもなら軽く流せたはずの言葉。


「うるさいな、わかってる!」

 香奈は自分の強い声に驚いた。

 何か言わなければと思ったのに、凛はぷいと横を向き、自分の部屋の扉をバタンと閉めてしまった。


 今のは完全に八つ当たりだ。

   

 あのおもちゃが奏でる惨めな"エリーゼのために"が耳の奥でぐるぐると鳴り止まない。


「何やってんだろ……」

 小さく呟き、楽譜を伏せた。

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