雨の伽藍、時の庭
木工槍鉋
雨の境界線
鎌倉、二階堂。
三方を山に囲まれた谷戸(やと)の湿った空気が、六月の長雨を含んでさらに重く沈殿している。
生方新は、愛車の古いステーションワゴンを濡れたアスファルトの路肩に停めた。
助手席に置いた革の鞄には、最新のレーザー計測器とタブレット端末が入っている。だが、今日彼が対峙しようとしている相手に、それらがどれほど役に立つかは分からなかった。
「ここか……」
新が見上げた先には、切り通しの岩肌にへばりつくようにして建つ、古びた洋館があった。
昭和初期、あるいはもっと古いかもしれない。大谷石の塀は苔に覆われ、門扉の鉄は赤錆びて、まるで植物の蔦の一部のように見えた。
この館の主、久我山壮一郎。
かつて「コンクリートの詩人」と謳われ、戦後日本のモダニズム建築を牽引した伝説的な建築家である。しかし、二十年ほど前に突如として設計活動を休止し、この鎌倉の邸宅に籠もってからは、メディアの前にも姿を現していない。
そんな生ける伝説から、若手建築家である新に「家の相談がある」と連絡が入ったのは、三日前のことだった。
車を降りると、激しい雨音が聴覚を支配した。
傘を広げ、石段を登る。一段登るごとに、都市の喧騒が遠ざかり、濃密な土と草の匂いが鼻腔を満たす。
重厚なチーク材の玄関扉の前で、新は一度深呼吸をしてから、真鍮のノッカーを叩いた。
乾いた金属音が、雨音に吸い込まれていく。
しばらくして、扉が重々しく開いた。
「……生方です。お約束の時間に伺いました」
現れたのは、家政婦でも秘書でもなく、久我山壮一郎本人だった。
白髪をオールバックにし、厚手のショールカラーのカーディガンを羽織っている。八十歳を超えているはずだが、その背筋は定規で引いたように伸びていた。
「時間通りだな。入れ」
低い声だった。
新は一礼して、薄暗いホールへと足を踏み入れた。
一歩中に入ると、外の激しい雨音が嘘のように遠のいた。だが、完全に遮断された静寂ではない。建物の奥底で、何かが低く唸るような、あるいは呼吸をするような気配が漂っている。
「電球が切れていてな。暗いが気にするな」
壮一郎はそう言って、廊下を先に立って歩き出した。
目が慣れてくると、その空間の異質さが分かってきた。
壁は漆喰だが、均一な白ではない。長年の湿気と煙草の煙、そして窓から差し込む光の陰影が、壁面に複雑なグラデーションを描いている。それは汚れというよりも、洞窟の壁画のような厳かな美しさを帯びていた。
新の視線が、ふと足元に落ちた。
廊下の突き当たり、庭に面した大きな掃き出し窓の近くの床だ。
ナラ材のフローリングが、そこだけ黒ずみ、一部は白く退色してささくれ立っている。明らかに雨の吹き込みか、結露による腐食だ。
(これはひどい……)
建築家としての職業的反射神経が、脳内で警鐘を鳴らす。
構造体である床組にまで湿気が回っている可能性がある。シロアリの温床になりかねない。
新は歩きながら、無意識にその箇所を目で追っていた。
「気になるか?」
背中越しに、壮一郎の声が飛んできた。
新は慌てて視線を上げた。
「あ、いえ……その、床の状態が少し」
「腐っているように見えるか?」
「……正直に申し上げれば、劣化が進んでいます。早急に手当てをしないと、下地まで傷んでしまいます」
壮一郎は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、暗がりの中で猛禽類のように鋭く光っていた。
「劣化、か」
彼は鼻で笑った。
「君たち現代の建築家は、すぐにその言葉を使う。エントロピーの増大を悪とし、時間を敵とみなす。だがな、生方くん。こっちへ来なさい」
通されたのは、南面に張り出したサンルームだった。
そこは、この家の中で最も「天気」に近い場所だった。
三方を囲むスチールサッシのガラス窓。その向こうには、雨に煙る庭の緑が押し寄せるように迫っている。屋根を叩く雨音が、ここではドラムの連打のように激しく響いていた。
壮一郎は革張りのソファに深く沈み込むと、パイプに火を点けた。甘いバニラの香りが、湿った空気と混ざり合う。
「座りたまえ」
「失礼します」
新は向かいの椅子に腰を下ろした。
「それで、ご相談というのは……やはり、あの床の修繕でしょうか?」
新は単刀直入に切り出した。
しかし、壮一郎は首を横に振った。
「いや。君を呼んだのは、私の知人が『最近、面白い若手がいる』と言っていたからだ。少し話がしたくてな」
「話、ですか」
「そうだ。……君は、あの床を『直したい』と言ったな」
壮一郎はパイプを口から離し、紫煙を吐き出した。
「なぜだ?」
「なぜ、とは……」新は戸惑った。「建築家として、建物の性能を維持するのは当然の責務だからです。水は建築の天敵です。放置すれば構造を弱らせ、建物の寿命を縮めます」
「寿命か。なるほど」
壮一郎は楽しげに頷いた。
「では聞くが、建築の寿命とはなんだ? 物理的に崩壊することか? それとも、美しくなくなることか?」
「それは……両方です。機能不全に陥れば、人は住めなくなります」
「ふむ。では、あの床を見て、君は『美しくない』と思ったか?」
新は言葉に詰まった。
先ほど見た、黒ずみ、ささくれ立った床。
確かに「傷んで」いた。だが、醜悪だったかと言われれば、即答できなかった。そこには、何か奇妙な引力があったからだ。
「生方くん。英語で天気のことを『Weather』と言う。では、動詞の『Weather』の意味を知っているか?」
新は記憶を検索した。
「……『風化させる』でしょうか」
「そうだ。だが、もう一つ重要な意味がある。『(困難を)切り抜ける』だ」
壮一郎は立ち上がり、窓ガラスに手を当てた。ガラスの向こうでは、雨粒が川のように流れている。
「岩が風雨に晒されて丸くなる。木材が紫外線に焼けて銀灰色になる。銅板が酸化して緑青(ろくしょう)を吹く。これらはすべて、素材が天気という試練(Weather)を受け止め、それを切り抜けて(Weather)、新たな姿へと変貌する過程だ。君はそれを『劣化』と呼んだが、私は『成熟』と呼ぶ」
「成熟……」
「あの床の変色はな」壮一郎は遠くを見る目をした。「三十年前に死んだ私の愛犬が、毎日あそこで庭を眺めていた爪痕だ。そして、毎年夏になると差し込む西日が、ニスを焦がして作ったグラデーションだ。あそこには、三十年分の『雨』と『光』と『命』が物理的に刻印されている」
新は息を呑んだ。
単なる汚れに見えたシミが、急に重厚な物語を帯びて見え始めた。
「それをサンダーで削り取り、ウレタン塗装でピカピカにコーティングする。それは確かに『機能』を回復させるだろう。だが同時に、この家が蓄積してきた『時間』という記憶を、ロボトミー手術のように切除することになる。……君は、それでも直すか?」
新は膝の上で拳を握りしめた。
「ですが先生、建築は芸術作品である前に、シェルターです。雨露をしのげなければ、住む人の生活が脅かされます」
「その通りだ」壮一郎は即答した。「だからこそ、問われるのは『しのぎ方』だ」
壮一郎は部屋の隅にあるハンドルに手をかけた。
ギギギ、と錆びついた音がして、高窓(ハイサイドライト)が少しだけ開いた。
途端に、湿った冷気と共に、庭の匂いと、より鮮明な雨音が室内に流れ込んできた。
「和辻哲郎の『風土』は読んだか?」
唐突な問いだった。
「学生時代に、課題図書として……」
「和辻はこう説いた。人間は、単なる幾何学的な『空間』の中に生きているのではない。寒暑や湿潤といった『気候(天気)』の中に生きているのだと。そして、その気候が、人間の精神構造そのものを作るのだと」
壮一郎は窓辺に戻り、雨を見つめた。
「日本の建築は、古来より『雨』との対話だった。急勾配の屋根、深い軒、高床。これらはすべて、多湿な気候に対する回答だ。だが、それは単に雨を拒絶するための機能ではない」
彼は新の方を向いた。
「軒下(のきした)という空間を想像してみろ。雨の日、人は軒下に立ち、雨宿りをする。目の前数センチのところには、濡れれば風邪を引く冷たい雨が落ちている。だが、自分は濡れない。この『守られている』という安堵感と、すぐそこにある『自然の脅威』を同時に肌で感じること。これこそが、日本人が育んできた『住まう』という感覚の原点だ」
新は、現代の住宅が目指すものについて考えた。
そこにあるのは「快適」だ。数値化された、完璧な快適さ。
だが、そこに「対話」はあるだろうか。
「今の建築は、自然を完全にシャットアウトすることを理想としている」壮一郎は続けた。「エアコンで温度を一定に保ち、密閉された窓で外の音を消す。それは、人間を自然から切り離し、無菌室に閉じ込める行為だ。……生方くん、君は無菌室で、豊かな人生が送れると思うか?」
新は首を振った。
「いいえ。……息が詰まります」
「だろう? 建築とはな、天気を遮断する壁であってはならない。天気を『翻訳』するフィルターであるべきだ」
「翻訳……ですか」
「直射日光は暴力だが、障子を通せば柔らかな『明かり』になる。暴風雨は恐怖だが、頑丈な雨戸と屋根の下で聞けば、自然の壮大さを感じる『音楽』になる。建築家がデザインすべきは、形ではない。この『自然との距離感』なのだ」
新は、開け放たれた高窓を見上げた。
そこから入ってくる風は冷たかったが、不快ではなかった。むしろ、淀んだ室内の空気が動き出し、思考がクリアになっていくのを感じた。
「先生の仰ることは分かります。でも……」
新は正直な迷いを口にした。
「現代のクライアントは、それを許容してくれるでしょうか。古くなること、隙間風が入ること、それを『豊かさ』だと説明して、納得してもらえるでしょうか」
「説得するのが、プロの仕事だ」
壮一郎はニヤリと笑った。
「『あなたと一緒に、この家も歳をとります。その皺(しわ)を楽しんでください』とな。……それに、古くなるということは、それだけ長く愛されたということだ。建築家にとって、それ以上の賛辞はないだろう?」
その時、ふと部屋が明るくなった。
激しく窓を叩いていた雨音が、急速に弱まっていく。
「お、晴れてきたか」
壮一郎が窓を開け放った。
湿った風が一気に吹き抜ける。
新も立ち上がり、テラスに出た。
息を呑む光景だった。
雨雲が切れ、西に傾いた太陽が、強烈な光を放っていた。
濡れた庭の木々が、まるで宝石のように輝いている。椿の葉、苔むした石灯籠、そして洋館の外壁。
水を吸って黒々と沈んだスクラッチタイルが、夕日を浴びて鈍い黄金色に輝いていた。乾いた状態では決して見せない、艶めかしく、重厚な表情。
「見てごらん」
壮一郎が隣に立った。
「これが『ウェザリング(風化)』の正体だ。雨に打たれ、風に削られた素材だけが持つ、深みのある顔だ。新品のプラスチックやサイディングでは、こうはいかん。水弾きが良すぎて、濡れることすら拒絶するからな」
新は、壁に手を触れた。
ひんやりとして、ざらついた感触。
九十年分の雨と風を吸い込んだ石と土。
そこには、圧倒的な「時間」が質量を持って存在していた。
「美しいですね……」
新は素直に呟いた。
「図面の上では描けない美しさです」
「そうだ。図面はあくまで楽譜だ。演奏するのは、大工であり、住み手であり、そして『天気』だ。我々建築家にできるのは、天気がいい演奏をしてくれるように、良い楽器を作ってやることだけだ」
新は、あの床のことを思い出した。
「先生。あの床の件ですが」
「ん?」
「表面は削らず、今のまま残しましょう。ただ、これ以上腐食が進まないように、床下から補強を入れて、湿気を逃がす通気口だけ設けます。あの『犬の爪痕』は、この家の歴史の一部ですから」
壮一郎は、満足そうに目を細めた。
「合格だ」
彼はポンと新の肩を叩いた。
「いい答えだ、若いの」
エピローグ:古き良さを継ぐもの
雨上がりの空には、鮮やかな虹がかかっていた。
新は玄関先で、壮一郎に深々と頭を下げた。
「今日は、貴重なお話をありがとうございました。雨漏りの件、すぐに見積もりと図面を作成します」
「ああ、頼むよ。急がんから、じっくりやってくれ」
帰り際、新はふと足を止め、ずっと気になっていたことを口にした。
「先生。一つだけ、お聞きしてもいいですか」
「なんだ」
「先生ほどの建築家なら、ご自身で修繕の計画も立てられるはずです。なぜ、私のような若手に依頼を?」
壮一郎は少し悪戯っぽく笑い、パイプをくゆらせた。
「医者の不養生、というやつだ。自分の家となると、どうも欲が出たり、逆に諦めすぎたりして、冷静な判断ができん。それに……」
彼は視線を庭の木々に移した。
「著名な連中に頼めば、彼らは自分の『作品』を作ろうとするだろう。ピカピカにリノベーションして、『久我山邸再生プロジェクト』などと銘打ってな。私は、この家の声を聴いてくれる人間が欲しかったのだよ」
新は背筋が伸びる思いだった。
「私の知人がな、言っていたんだ。『最近、街のカフェで図面を描いている変な建築士がいる。彼は、物置一つ作るのにも、住む人の人生を聞き出してから設計するらしい』とな」
新は顔を赤らめた。
「それは……ただの世間話です」
「建築とは、畢竟(ひっきょう)、人生の器だ。人の話を聞けない奴に、良い器は作れん。……また来たまえ。今度は晴れた日に、テラスで茶でも飲もう」
「はい。喜んで」
車に戻った新は、エンジンをかける前に、もう一度あの洋館を見上げた。
夕日に染まる古びた館は、来た時よりもずっと優しく、そして力強く見えた。
「天気と、建築と、哲学か……」
新は手帳を開き、今日の気付きをメモした。
『傷はバグではない。記録である』
『建築は天気の翻訳機』
『美しく古びるための設計』
アクセルを踏む。
タイヤが水溜まりを跳ね上げ、車はゆっくりと動き出した。
明日からの設計は、今までとは少し違うものになるだろう。
新しく作るのではない。
これから始まる長い時間を、天気と共に受け止めるための場所を作るのだ。
バックミラーの中で、古き良き洋館が、濡れた木々の緑に溶け込むようにして見えなくなった。
雨の伽藍、時の庭 木工槍鉋 @itanoma
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