エピソード09 CURSED TO LIVE

風が止まった。


正確には、止まったように感じただけなのかもしれない。


あの場所では、音も、距離も、時間も、確かな形を保っていなかった。


闇の底で、結晶が光を抱いた。


黒でもなく、赤でもなく、名を与えるべきではない色だった。


それが二つの影を包み、動かなくなった。


見ていた。


それ以上の言葉が見つからなかった。


その場所は、古い時代の話にだけ残っている。


神代に、地を裂いたと伝えられる穴。


明かりを拒み、火を許さず、風だけを通す闇。


足を踏み入れた者が、どれほど戻らなかったのかは知らない。


ただ、戻った者が語る言葉は、いつも同じだった。


——中は、何も見えなかった。


風は、外から内へ向かって流れていた。


吹き込むというより、引きずり込むような流れだった。


その風に、重さがあった。


息をするたびに、胸の奥に沈殿するような感触。


風が、誰かを運んできた。


足音はなかった。


闇の中を、迷いなく進む気配だけがあった。


見えていないはずの道を、躊躇なく選び続ける動き。


風が先を示し、影がそれに従っていた。


その姿を、最後まで追うことになった。


最初に聞こえたのは、割れる音だった。


石でも、骨でもない。


乾いているのに、どこか柔らかさを含んだ音。


闇の底で、何かが踏み砕かれた。


一つではなかった。


進むたびに、同じ音が繰り返された。


砕けたものは、形を失い、空へ溶けていった。


目に見えないはずのそれが、風に絡みつくのが分かった。


手が伸びた。


掬い上げるような仕草だった。


風に返されるたび、闇の重さがわずかに軽くなった。


その音が、止まった。


進む足が止まったのではない。


砕かれる音だけが、途切れた。


代わりに、別の気配があった。


見られている、という感覚。


闇の奥から、何かがこちらを認識した。


憎しみでも、敵意でもなかった。


ただ、逃げ場を失った者の目だった。


その視線が、動いた。


花畑を越え、風の流れを辿り、


ひとつの影に行き着いた。


そこで、止まった。


闇の中に、形があった。


人の輪郭を保ってはいたが、そこに血の気はなかった。


肌は硬く、冷たく、光を返さない。


全身が結晶だった。


黒に近い色が幾層にも重なり、


ひび割れの奥で、何かが脈打っているのが見えた。


かろうじて残された一つの目だけが、まだ、闇とは違うものを映していた。


その身体の足元に、黒い結晶の花が、折り重なるように広がっていた。


距離が、詰められた。


その場に立つ者なら、誰でも分かる間合いだった。


一歩踏み込めば、戻れない。


武器を抜く前に、命が届く距離。


それでも、歩みは止まらなかった。


結晶の花が砕ける音が、再び闇に響いた。


視線は、動かなかった。


逃げる素振りも、防ぐ構えもない。


ただ、受け入れるように、そこに在った。


布が擦れる音がした。


闇の中で、細く、乾いた金属音が走る。


刃が鞘を離れた、それだけで分かる音だった。


光はなかった。


だが、そこに在ることだけは、はっきりと分かった。


腕が伸び、抱き寄せるように、結晶の背へと回された。


距離は、もう無かった。


それでも、刃は止まった。


貫いたはずの感触の先に、もう一つ、硬いものがあった。


金属が、わずかに軋んだ。


進もうとする力と、拒む力が拮抗したまま、どちらにも傾かなかった。


そこに、体があった。


刃は、結晶の向こうへは届かなかった。


二つ目の鼓動は、まだ続いていた。


風が、逆向きに流れ始めた。


外へ向かっていたはずの流れが、足元へ沈み込むように変わった。


闇が、揺れた。


広がっていたはずの空間が、わずかに縮んだように感じられた。


音が遅れて届いた。


砕けたはずの結晶の音が、今になって、耳に触れた。


時間が、ずれた。


進んでいるのか、止まっているのか、判別できなくなった。


ひび割れは、音もなく広がっていった。


全身を覆っていた結晶が、役目を終えたもののように崩れ落ちる。


黒い破片が足元へ散り、触れた瞬間に形を失った。


内側にあったものが、外へ出ようとしていた。


それは痛みではなかった。


引き寄せられる感覚だった。


長く拒まれていた終わりが、ようやく許されたかのように、


身体が、前へ倒れようとした。


そのとき、腕が伸びた。


逃がさないための力だった。


支えるためでも、縋るためでもない。


視線が、変わった。


先ほどまで向けられていたのは、受け入れる者の目だった。


今そこにあったのは、選ぶ者の目だった。


生き残る未来ではなく、生まれ続ける呪いを断ち切るための視線。


理解している沈黙が、ふたりの間にだけ落ちた。




サクラは一歩踏み込み、崩れゆく結晶の身体ごと、その存在を抱き寄せた。


砕けた結晶が衣と肌に触れ、冷たさと重さが腕に伝わる。


逃がさぬためでも、守るためでもない。


ただ、距離を消すための動きだった。


風が止まり、花畑のきらめきが音を失う。


胸元まで引き寄せた瞬間、サクラの腕の内側で、結晶の身体がわずかに身を預ける。


誘うように、殺す側の視線が、確かにこちらを向いた。


その中心へ――




月影の刃が、ようやく届いた。

風向きが変わった。

結晶化していた悪意は形を保てず、崩壊を始めた。

赤紫色の結晶は内部から濁り、透明度を失った。

その後、反応は途絶えた。

観測されたアクマの連鎖は、この時点で終了している。



その段落だけ、筆致が異なっていた。

事象の記録としては過剰で、感情の吐露としては抑制されすぎている。


数値も注釈もなく、再現性もない。

それでも、この部分を削除する理由は見当たらなかった。

これは伝説ではない。


記録だ。

そう判断し、原文のまま保存することにした。

ヤタガラン研究院  最高技術責任者 兼 上席特別研究員 ヤコ

史歴1629年 記す



◆



 ヤコは、机に向かったまま動かなくなっているのを発見された。

 筆は置かれ、硯の墨も乾いていた。

 原稿は整えられ、綴じ紐は結ばれていたが、最後の頁だけが白紙のままだった。


 そこには頁番号だけが振られており、欠番ではないことが分かる。

 争った形跡はなく、身体にも異常は見られなかった。

 老衰と判断され、研究員としての記録はそれ以上追記されなかった。

 未完の資料は、未完のまま、彼女の手を離れた。



注釈

 ヤタガランでは、危険性のある資料は原則として焼却される。

 だが、この記録に関しては、その判断が下されなかった。


 理由は単純で、焼却すべき「異常値」が存在しなかったからだ。

 数値は揃い、観測は一貫しており、因果関係にも破綻はない。


 ただ一箇所、筆致の異なる段落があるだけで、それは事象を改変するものではなかった。

 削除する理由はなく、焼く根拠もなかった。

 結果として、この資料は残された。


 危険ではないからではない。


 危険であると断定できなかったからだ。


 その曖昧さこそが、唯一の結論だった。




CURSED TO LIVE 完

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CURSED TO LIVE くおん @ZEONIX

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