エピソード08 風の道の村

 山は、裂けていた。


 人の手で穿たれたとは思えぬほど大きな穴が、山腹に口を開けている。

 そこから吹き出す風が、木々を鳴らし、地面を撫で、サクラの髪を揺らしていた。


 この地に名はない。

 だが、ここに住む者たちは、この村を風の道の村と呼ぶ。


 サクラは、導かれるようにここへ辿り着いていた。


 偶然だと思おうとすれば、そう思えなくもない。

 だが胸の奥で、確かに何かが囁いていた。


 ――ここにいる。


 誰が、とは分からない。


 それでも、ヒサマの気配が、風の中に混じっている気がしてならなかった。


 獣道ほどの細い道の先に、村を囲う壁と、関所のような小屋がある。


 人の気配はない。だが、空気は張りつめていた。


 小屋の前に立った瞬間だった。


「そこの者……迷い人かな?」


 扉が軋み、老婆が姿を現した。


 柔らかな声。だが、その背にまとわりつく殺気を、サクラは見逃さなかった。

 一歩間違えれば、死ぬ。

 そんな斬れ味を持った本物の殺気だった。


「……国中を旅しています。サクラと申します」

 サクラは老婆の目を見ながら答えるが、その背中には冷たい汗が流れていた。


「…旅人の…サクラ…」

 老婆は、サクラの装いに目をやり、次いで顔を覗き込む。


「その格好……シノビ衆だね?」


 ローブの内側で、サクラの指が無意識に月影へ伸びる。


「私も元は、クノイチさ。サンホ村で育った」


 サクラの鼓動が、わずかに跳ねた。

 シノビ衆。

 クノイチ。

 サンホ村。

 

 それは、外の者が知るはずのない言葉だったからだ。


「……私は、クワサカ村で育ちました」

「クワサカの……サクラ、だったね」

 老婆の視線が、鋭くなる。

 しばしの間、老婆はサクラの顔を見つめていたが、ホロリと言葉をこぼした。


「ご母堂の名は……ジュンコではないかい?」


 息が、止まった。


「なぜ……母の名を……」

「……昔、少しね。ともかく、入るといいよ」





 関所の中は、ひどく簡素だった。

 囲炉裏の火は弱く、出された茶は、ほとんど湯に近い。


「私はマユミ。今じゃ、ここの門番みたいなものさ」

 その名を聞いた瞬間、サクラの胸に、言いようのない違和感が走った。


 目の前の老婆は、少なく見積もっても七〇歳近くにみえる。

 だが、関所での隠された殺気はとても引退したクノイチのものではなかった。

 どちらかと言えば、熟練した現役のクノイチのそれのように感じられたのだ。


 そんな老婆が、母と知り合いだと言うのだ。


「……母とは、どこで……?」

 マユミは湯呑みの水面を見つめ、しばし沈黙した。


「昔……とある場所で一緒になってね。短い時間だったけど、良くしてもらった」

その口元が、ほんの僅かに緩んだ。


 ――あの頃。


 集められた二百十八人のクノイチ。


 順番に行われた、拒否の許されぬ実験。


 悲鳴と、死。


 怯え続けるマユミを、励まし続けたのが、のちにサクラの母となるジュンコだった。


『私もあなたも、クノイチよ。この国を、人々を守るために生きるの』


 そして、マユミの順番が来たとき…


『私が先に行くわ』


 微笑んだジュンコの姿が、最後だった。


 その後、長い間ジュンコと会うことはなかった。マユミ自身、会える、会いに行ける状況にはなかったので仕方ないことだった。


 だが、あの日以来、一日たりとも忘れたことはない。

 せめて風の噂でも…と思ったが、ジュンコに関する情報は何一つ得られなかった。


 しかし、サクラを見てマユミは分かった。

 サクラは、ジュンコに瓜二つなのだ。


――あの実験は…上手くいったのか…


 その証拠が、サクラなのだろう。

 ジュンコは母となり、自分は老いた。


 叶わなかった夢を思い、マユミは微かに笑ったのだ。


「ジュンコ殿は……お元気?」

「はい、母は………母とは……」


 その問いに、サクラは答えられなかった。


 ――母


 答えようとした。

 しかし、そこに“あるはず”の記憶が、サクラにはなかった。


 顔は?

 声は?


「……私の、母は……」


 言葉が、そこで途切れた。

 思い出そうとすればするほど、心の奥にぽっかりと穴が開いていく。


 遊んだ記憶、

 叱られた記憶、

 そして、甘えた記憶…

 

 何もない。何も…ない。


「わたしの……はは……わたしの…」


 壊れたように、同じ言葉を繰り返す。

 不意に溢れた涙が、サクラの頬を濡らす。


 マユミは黙ってサクラを抱き寄せた。

 何か”残酷な理由”があるのだろう。

 あの実験を経験したマユミには、そう思えた。


「……ごめんなさい……今は、考えないで。あなたは…」


 その時だった。


 関所の扉が、開いた。


「それは俺が言うべきだ、マユミ」

 現れた男を見て、マユミは一瞬、身を強張らせる。


「ヨシムネ…」


 老婆は即座にサクラを庇う。

「やめて……! もうこれ以上、この娘を……!」


苦しめないで!

マユミは心の中で叫んでいた。


「できない。ここまで来たからには、できないんだ、マユミ」


お前もよく知っていることだろう。ヨシムネはそう言っているようだった。


「これは俺達の罪だ。シノビ衆のクノイチが、これ以上苦しむことはない」


 ヨシムネはマユミとしばしの間視線を合わせた。

 お前も、これ以上苦しむことはない。

 そう言っているようなヨシムネの視線に、マユミは、静かに退いた。


「ありがとう、マユミ」

 ヨシムネは老婆に礼を言ってから、サクラを見た。


「サクラ」

「……わたし、の…は…」

「サクラ!」

 ヨシムネは両手で頬を包み、無理矢理視線を合わせる。

 サクラの涙が、ヨシムネの両手を濡らしていく。


「俺を見ろ、サクラ!」

 翆色の瞳が、かろうじて焦点を結ぶ。


「ヨ……シムネ……どの……」

「そうだ。俺が分かるな?」

 サクラは、かろうじて頷いた。


「俺は、お前に、謝らねばならない」

 低く、重い声。


「俺はシノビ衆だが……ウラカタ衆のシノビでもある」

 その言葉が、サクラの中で反響する。


 サクラは、答えられなかった。

 言葉が喉まで上がってきては、形になる前に崩れ落ちる。


「お前に見せたいものがある。……いや、見なければならないものだ」

 ヨシムネの声は、いつもより低かった。


 立つように促されても、サクラの身体は言うことを聞かなかった。

 足に力が入らない。


 まるで、身体そのものが拒絶しているかのようだった。

 ――これ以上、進むな、と。


 ヨシムネは壁に掛けられていた緑色のローブを羽織り、深くフードを被る。

 ウラカタ衆・開発部が生み出した“対フキデモノ化”の装備。


 これを身につけなければ、ヨシムネでさえフキデモノ化を免れない。

 だが、そのことをサクラに説明することはなかった。


 ヨシムネは知っている。

 サクラは、フキデモノにならない。

 シナダヒメの因子が、彼女を守ることを。


 扉を開き、ヨシムネは一歩外へ出た。

 そこは、村全体を見下ろせる監視台のような場所だった。


 サクラは立とうとした。

 だが膝が震え、身体は崩れ落ちそうになる。


 それでも、ヨシムネは振り返らない。

 サクラが来るまで、背中を向けたまま、ただ待っている。


 ――見ろ、と。

 ――逃げるな、と。


 長い時間をかけてサクラはヨシムネに続いて扉から出た。

 危ない足取り。

 視線は定まらず、ヨシムネの背中を見てはいない。


 ヨシムネは涙が出そうになる。が、耐えた。自分が泣いて許されることはないからだ。

 泣きたいのはサクラであり、マユミたちクノイチなのだ。


 そんな二人を、マユミは対フキデモノ化ローブを羽織って見ていた。


 少しだけ、心が痛む。


 彼の…ヨシムネの背中を見ながら、私も歩いてみたかった。

 少しだけ、ほんの少しだけそう思ってしまう。


 しかし、老婆のような容姿になった自分には、それは儚い夢だろう。

 なにより、ヨシムネはウラカタ衆。自分をこんな姿にした組織の一員。


 許せるはずはない。


 許せないがゆえに…マユミはそれ以上考えるのを止めた。





 眼下に広がる光景。

 それは、サクラがこれまで“狩ってきた”存在の、見ることが出来なかった一面だった。

 村の中を歩く者たち。

 歪んだ身体。

 濁った瞳。

 それでも――完全には失われていない、ヒトの名残。

「あり…ガト、助かっタヨ」

 小柄で左腕の無いフキデモノが、大柄で両肩に薪の束をかついでいたフキデモノに礼を言っていた。


「なに、お互い様よ。いつでも言ってくれよ」

 大柄なフキデモノは、薪束を降ろすとニヤリと笑ってまた山への道へと戻っていった。


「今日は魚が入ってるから、順番に配っていくぞー」

 籠を担いだ半身が黒く変色したフキデモノが、声を上げながら家々を回っていた。



 そんな光景。

 耳に届く音。

 肌を撫でる風。

 そのすべてが現実であるはずなのに、サクラはそれらに触れることが出来なかった。


 ただ、苦しい。


 自分以外のすべてが、自分を傷つける。


 そんな感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 サクラの胸が、軋んだ。


 フキデモノは、人を害する“悪”。

 そう教えられてきた。


 そう信じてきた。


 だからこそ、生まれた時から訓練を受け、刃を握り、命を奪ってきた。


 それが、正義だと。

 それが、役目だと。


 ――違うのか?


 あれは、本当に“狩るべき存在”だったのか。


 そこには、ヒトの意思が残っていたのではないか。


 恐怖も、後悔も、祈りも。


 疑問が、胸を突き破ろうとする。


 だが同時に、サクラはそれを否定したかった。


 否定しなければならなかった。


 もし――


 もし、フキデモノの中にヒトが残っているのだとしたら。


 自分がこれまで殺してきたすべては、ただの“処刑”になる。


 救いのない、罪になる。


 そんなこと、耐えられない。


 だから、前者でありたかった。


 フキデモノは悪であってほしかった。


 そうでなければ、自分は――。

 涙は、もう出なかった。


 悪意を孕んだ風が、サクラの身体を撫でていく。


 本来なら不快なはずのそれを、何も感じない。


 もう、嫌だ。

 考えることも。

 感じることも。

 動くことも。


 ただ、苦しい。


 自分以外のすべてが、自分を傷つける。


 そんな感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 すべてを手放そうとした、その瞬間。


「フキデモノは、ヒトが勝手に変化するものじゃない」


 ヨシムネの声が、風を切り裂いた。


「ヤツがいるから、ヒトはフキデモノになる」


 ――ヤツ


 その言葉に、サクラの意識が強く引き戻される。


「ヤ……ヤツ……?」

 わずかに、身体に力が戻る。


 止まりかけていた鼓動が、再び動き出す。


 そして、もうひとつの“意識”も――目覚め始めた。


「アクマだ。アクマと呼ばれる原初の存在だ」


 ヨシムネは、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「今のアクマは――お前もよく知っている男だ、サクラ」


「……わ、わたしが……知っている……?」


 一瞬の、間。


「お前と共に育ち、お前を最も愛している男」


ヒュウ…と風の音がサクラを撫でた。


「ヒサマが、今のアクマだ」


 世界が、止まった。


『……これ以上……“適任”を……作るな……』


 かつて、サクラが暗殺した祈りをやめた住職の言葉が、脳裏に蘇る。


 人々の平穏のために、誰かが犠牲になり続ける、この世の仕組み。


 その歯車の中に、


ヒサマも…そして、自分も、組み込まれていた。


「……会いたい」


 ぽつりと零れた言葉に、ヨシムネの背中がわずかに揺れた。


 それがサクラ自身の声なのか、


 それとも――


 かつてこの地で消えた、シナダヒメの残響なのか。


 ヨシムネには分からない。

 分からないからこそ、振り返らなかった。


「お前にしか出来ないことがあるはずだ、サクラ」


 その言葉に、命令の色はなかった。


 期待でも、救いでもない。


 ただ、突きつけるような現実だけがあった。


 サクラは一歩、前に出た。


 ヨシムネの横ではなく、前へ。


「行きます」


 声は震えていなかった。


 覚悟を語る言葉も、決意を飾る言葉もなかった。


 それでも、ヨシムネには分かった。


 この少女はもう“守られる側”ではない。


 サクラは歩き出す。





――山は、音を失っていた。


 風が止み、鳥の声も遠のき、木々の葉擦れすら起こらない。まるで世界そのものが、息を潜めているかのようだった。


 サクラは、躊躇なくその山へ足を踏み入れていた。


 道は、ない。


 獣道すら消え、岩と根がむき出しの斜面が続くだけだ。

 それでもサクラの足取りに迷いはなかった。

 彼女は選ぶことなく、正しい場所に足を置き、正しい角度で身体を傾け、正しい間合いで呼吸を整えている。


 ――まるで、この道を知っているかのように。


 ……知っている。

 その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。


 ……私は、この道を知っている。

 記憶の底で、何かが軋む音を立てる。


 忘れていたはずの過去が、泥の中から引きずり出されるように、少しずつ輪郭を持ちはじめた。


 ……そうだ。

 ……私は、この道を進んで――

 (そう……あなたは……)


 重なるように、女の声が響いた。


 それは外から聞こえたものではない。

 サクラの内側、意識と無意識の境界線をなぞるように、柔らかく、しかし確実に存在を主張する声だった。


 ……この先にいるアクマを、

 (現アクマの、ヒサマを)

 ……殺した。

 (殺した)


 その言葉と同時に、山の奥から強烈な“気配”が噴き上がった。

 悪意。


 それは単なる敵意や憎悪ではない。何百年、何千年と積み重ねられ、濃縮され、澱のように沈殿した“意思”だった。空気が歪み、視界がわずかに揺らぐ。


 だが、その風の中で――サクラは、確かに感じ取ってしまった。

 ヒサマの香りを。


 ……ヒサマ……わかるよ……。

 (……オサメル……愛しいあなた……もうすぐ)

 ……もうすぐ。

 (会えます)

 ……会えるよ。


 サクラの声は、いつしか自分のものなのか、シナダヒメのものなのか、判別がつかなくなっていた。

 ただ一つ確かなのは、その言葉に宿る感情が、紛れもなく“会いたい”という切実な欲求だったということだ。


 ヒサマに会いたい。

 それは本心なのか。

 それとも、シナダヒメの因子に引きずられた結果なのか。

 サクラには、もう分からない。

 そして、それを確かめる術もない。

 ただ、かつて“抜け落ちていたはずの事実”が、今は異様なほど鮮明な記憶として蘇ってきていた。


 ――前アクマ、オズヌ。

 彼の次にアクマとなる存在が、本来は“自分”であったこと。


 もしサクラに何らかの不備があった場合、その代替としてヒサマが“適任”と判断されていたこと。


 サクラをアクマにしないために、ヒサマがオズヌを暗殺したという事実。


 そして――何も知らなかった自分が、アクマとなったヒサマを、使命として暗殺したこと。


 さらに。


 ヒサマは、サクラに不老不死の呪いをかけることで、彼女をアクマへと変貌させなかったこと。


 その代償として、ヒサマ自身は“死に続ける存在”となったこと。


 それらすべてが、洪水のようにサクラの中へ流れ込んでくる。


 否定する余地も、拒絶する隙もなかった。


 それはまるで、シナダヒメが“真実”という名の刃を、ゆっくりと、しかし確実に突き立ててくるかのようだった。


 ――逃げ場は、ない。





 一方、山を隔てた麓の集落。

 夜明け前の薄闇の中で、ヨシムネとマユミは並んで腰を下ろしていた。焚き火はすでに消え、残るのは赤くくすぶる炭だけだ。


 「……結局、行かせてしまったな」

 ヨシムネの呟きは、独り言に近かった。


 マユミはすぐには答えない。少し間を置いてから、静かに口を開く。

 「あの子は……戻ったのよ」

 「戻った?」

 「自分が歩くべき場所に」

 マユミの声には、諦めと覚悟が混じっていた。


 ヨシムネは拳を握りしめ、地面を見つめる。

 「俺は……あいつを守るって決めてた。なのに、結局……」

 「守るって、どういうこと?」

 マユミはヨシムネを見た。

 「一緒に逃げること? それとも、運命ごと壊すこと?」

 ヨシムネは答えられない。

 マユミは続ける。


 「サクラは、誰かに守られるだけの子じゃない。でも……一人で背負わせていい子でもない」

 その言葉は、優しく、そして残酷だった。

 「だから、私たちはここにいる」

 「……何も出来ないのにか」

 「違うわ」

 マユミは微笑んだ。

 「見届ける。それも、覚悟の一つよ」

 しばらく沈黙が流れる。

 遠く、山の奥で、低く唸るような音がした気がした。

 ヨシムネは顔を上げる。


 「……そうだな…見届けるか…」

 それは祈りであり、懇願であり、そして――届かないと知りながら放たれた、叫びだった。





 洞窟は、山の腹に口を開けていた。


 岩肌は黒く、湿り気を帯び、内部からは光を拒むような闇が滲み出している。入口に立った瞬間、サクラは足を止めた。


 ――静かだ。


 あまりにも、静かすぎる。


 悪意の気配は、ここにある。


 だが、それは暴れ狂うものではなく、完全に“待っている”気配だった。


 サクラは一度、深く息を吸う。


 呼吸。

 心拍。

 体温。


 すべてが、研ぎ澄まされていく。


 ここから先は、戻れない。


 それでも、恐怖はなかった。


 あるのは、静かな覚悟だけだ。


 サクラは一歩、洞窟の闇へ踏み出した。


 その背後で、外の世界の音が、完全に断ち切られた。

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