削除についての覚書

@zeppelin006

削除についての覚書

俺の仕事は、人の言葉を消すことだった。


都内の雑居ビルの八階。窓のないフロア。空調は一年中同じ温度で、時間の感覚だけが先に死ぬ。蛍光灯の白さに慣れると、外の光が怖くなる。


契約社員。コンテンツモデレーター。通報された投稿を確認して、ガイドライン違反かどうかを判定する。違反なら削除。グレーなら保留。一日に三百件から五百件。画面に流れてくるのは、悪意、冗談、叫び、嘘、本音、遺書。全部同じ手順で処理する。


【削除理由を選択してください】

□ 暴力的なコンテンツ

□ ヘイトスピーチ

□ 虚偽情報

□ プライバシー侵害

□ その他


チェックを入れて、確定を押す。投稿が消える。ユーザーに通知が届く。それだけ。


三年やった。何も感じなくなっていた。感じていたら続かない。タイムラインの向こう側の人間を、ひとつの四角い枠として見る癖がついた。枠の中身が何であれ、枠は枠だ。枠を閉じれば、そこには何も残らない。


——残らないはずだった。


異変が起きたのは、十一月の終わりだった。


◇ ◇ ◇


月末の残業は、保留フォルダの掃除から始まる。


判定が難しい投稿は『保留』に入れて、後でチームリーダーに相談する。ただ、保留が溜まると査定に響く。だから月末になると、俺たちは『迷い』を片付ける。迷いを削除理由に変換して、箱を空にする。


保留フォルダを開いた。二十三件。


上から処理していく。罵倒、削除。陰謀論、削除。微妙な皮肉、通す。グロ画像、削除。外国語、翻訳……ヘイト、削除。


十八件目で、手が止まった。


投稿内容は短かった。


「返して」


それだけ。画像なし。リンクなし。文脈もない。


通報理由は『その他:意味不明な投稿』。通報したユーザーのコメント欄に、「この投稿を見てから調子が悪い」と書いてある。


意味不明。それは削除理由にならない。『返して』という二文字に、ガイドライン違反の要素はない。俺は慣れた動作で投稿者のプロフィールを開こうとした。


開けなかった。


【このユーザーは存在しません】


背中が冷えた。システム上あり得ない。アカウントが消えれば投稿も消える。仕様だ。仕様は宗教みたいなもので、信じていないと仕事ができない。


バグだと思った。スクショを撮って技術チームに投げようとした。


撮れなかった。


画面が一瞬黒くなり、スクリーンショットのフォルダには何も保存されていない。もう一度。何も残らない。三度目。今度は黒い画面に白い文字が浮かんだ。


【共有できません】


俺の喉が勝手に鳴った。乾いた音だった。


その文言は、俺たちが使うものだ。ユーザーに送る定型文。『このコンテンツは共有できません』。俺が何百回と選択してきた、あの無感情な盾の言葉。


それが、今は俺に向かって表示されている。


画面が元に戻った。保留フォルダ。十八件目。『返して』。


俺は、その投稿を静かに閉じた。


何も見なかった。そういうことにした。


その瞬間、背後の空気がわずかに重くなった気がした。誰かが俺の椅子の背に手を置いたみたいに。


もちろん、振り返っても誰もいない。窓のないフロアには、逃げ場のない静けさだけがある。


◇ ◇ ◇


翌日から、削除通知が届くようになった。


仕事用でもない、プライベートでもない、スマホのロック画面に。


【通知】あなたの投稿はコミュニティガイドラインに違反したため削除されました


俺は投稿していない。プライベートのSNSは全部やめている。仕事で関わりすぎて、発信する気が失せた。


誤通知だと思った。最初は。


二通目が来た。三通目が来た。一日に十通を超えた頃、俺は気づいた。通知が届くたび、部屋の中の音が一つずつ消える。冷蔵庫の唸りが遠くなる。時計の秒針が聞こえなくなる。まるで誰かが『不要なコンテンツ』を間引いているみたいに。


俺は通知の詳細を開いた。


【削除されたコンテンツを表示】


押した瞬間、画面が変わった。


黒い背景。白い文字。見覚えのあるUIだった。俺たちが使う管理画面の骨格。だが、上部のロゴがない。責任の所在だけが消えている。


そこに並んでいたのは通報された投稿じゃなかった。


俺の投稿だった。


【投稿】今日は寒いな

【削除理由:低品質なコンテンツ】


【投稿】腹減った

【削除理由:無意味なコンテンツ】


【投稿】(ため息をついた)

【削除理由:ネガティブなコンテンツ】


俺は声を出していない。文字を打っていない。なのに、俺の生活が『投稿』として記録され、片っ端から削除されている。


スクロールした。ログは延々と続く。


【投稿】(コーヒーを飲んだ)

【削除理由:記録の必要なし】


【投稿】(窓の外を見た)

【削除理由:無関係なコンテンツ】


【投稿】(不安を感じた)

【削除理由:コミュニティの安全のため】


最後の一行で、俺は笑いそうになった。笑ったら負けだと思った。


これは、俺がやってきたことだ。


誰かの言葉を見て、ガイドラインに照らして、理由を選んで、削除する。投稿者がどう思うかなんて考えなかった。考えていたら続かない。


今、同じことをされている。


俺の存在が『投稿』として扱われ、理由を付けられ、削除されている。


俺は思わず独り言を言った。「俺は何も投稿してない」


画面が即座に更新された。


【投稿】俺は何も投稿してない

【削除理由:異議申し立ては受け付けていません】


息が止まった。反論すること自体が『投稿』になる。投稿になるなら削除できる。削除できるなら、存在を削れる。


俺は口を閉じた。


五分間、ただ座っていた。何もせず、呼吸だけしていた。沈黙なら、投稿にならないはずだ。


画面が更新された。


【投稿】(沈黙した)

【削除理由:非活動ユーザー】


——逃げ道がない。


何をしても削除される。何もしなくても削除される。


俺はそのとき初めて、仕事で何をしていたのかを理解した気がした。削除とは、言葉を消す行為じゃない。存在を『なかったこと』にするための手続きだ。枠を閉じれば、その人間が、枠の外に出ることはない。


俺は三年間、一日三百件から五百件、それをやってきた。


◇ ◇ ◇


三日目の朝、鏡の前で歯を磨いていて、違和感に気づいた。


吐息で曇った鏡の中の自分が、拭いても拭いても輪郭がはっきりしない。目の焦点が合わないんじゃない。俺のほうが薄い。


右手を見た。皮膚の下に、洗面台のタイル模様がうっすら透けていた。肌の色が透明になりかけている。


削除が進んでいる。


俺はスマホを開いた。黒い画面に、新しいセクションが増えていた。


【索引:削除済みユーザー】


リストが表示された。年齢、地域、職業、処理件数、ステータス。俺が見慣れた管理画面と、あまりに似ている。違うのは、ここに並んでいるのが投稿じゃなく、人間だということだけ。


ほとんどが【削除完了】になっている。淡々とした文字の下に、穴が空いているように見えた。完了したものは、どこへ行ったのか。どこにも行っていない。どこにもいない。


一番下に、新しい行が追加されていた。


【ユーザー:****】

【職業:コンテンツモデレーター】

【処理件数:127,843件】

【ステータス:削除処理中(87%)】


87%。


あと13%で、俺は『完了』になる。


数字の見た目が、妙に優しいのが怖かった。健康アプリの達成率みたいに、善いことのように表示される。達成すればするほど、俺が消える。


その瞬間、部屋の中の本棚に目が行った。背表紙の文字が、いくつか白く抜けている。タイトルの一部が剥がれ落ちている。紙が削られているんじゃない。『情報』だけが消えている。


俺は震える声で呟いた。「……次は何が消える」


画面が更新された。


【投稿】次は何が消える

【削除理由:不安を煽る表現】


そして、俺の部屋の電気が一度だけ瞬いた。蛍光灯が瞬くあの短い闇の中で、俺ははっきり感じた。


誰かが、俺を見ているんじゃない。


誰かが、俺を『読んでいる』。


◇ ◇ ◇


四日目の夜、俺は気づいた。削除には『保留』がある。


俺は保留フォルダで何万回も猶予を与えた。判断できないものを宙吊りにして、未来へ押し付けた。保留にすれば、すぐには消えない。誰かが判断するまで『残る』。


俺を削除しているのが、俺たちと同じ仕組みなら、保留もあるはずだ。


問題は、どうやって保留にさせるか。


保留になる投稿の特徴。

文脈がないと意味が確定しない。

どちらにも取れる。

分類できない。

チェックボックスの上で指が迷うやつ。


俺はその夜、意識的に『分類できない存在』になろうとした。


目的なく歩いた。途中で止まって戻った。一定のリズムを作らないように、呼吸のタイミングさえ崩した。意味になりかけた言葉を飲み込んで、音だけを出した。「あ」「ん」。文章になる手前で止める。


画面が更新された。


【投稿】(不規則な移動)

【削除理由:判定中】


判定中。


初めて見た表示だった。削除でもない。保留でもない。『迷い』が画面に出た。


俺は続けた。夜が明けるまで、意味を持たないように動いた。眠らなかった。眠れば夢の中で物語ができる。物語ができれば分類される。分類されれば削除される。


朝になって、スマホを確認した。


【ステータス:削除処理中(87%)……保留】


数字が止まっていた。


俺は、自分を保留にすることに成功した。


その瞬間だけ、安心した。心の底から。何かを勝ち取った気がした。


次の瞬間、背筋が凍った。


保留は救いじゃない。猶予だ。俺は保留フォルダを知っている。猶予は溜まる。溜まった猶予は、月末に処理される。


誰かが、いつか、俺を分類する。


そして分類は、削除理由になる。


◇ ◇ ◇


その日から、黒い画面のログの下のほうに、古い投稿が混ざり始めた。


俺が消したはずの投稿。見覚えのある言い回し。文字のクセ。怒りや悲しみの癖。胸がざわついた。三年分の四角い枠が、一つずつこちらを向いてくるみたいだった。


索引を開く。


【索引:削除済みユーザー】


スクロールすると、【保留】の行がいくつかあった。俺と同じように、削除を免れて宙吊りになっている存在。


俺はその中の一つをタップした。


【ユーザー:***】

【職業:不明】

【処理件数:0件】

【ステータス:保留(2,847日)】


八年近く、保留のまま。


そして、そのユーザーの『投稿履歴』に、見覚えのある二文字があった。


【投稿】返して


喉が鳴った。あの投稿。保留フォルダで見つけた異変。『このユーザーは存在しません』と出た、あの投稿。


存在しないんじゃない。ここにいた。削除と保留の境界線の裏側に。


俺が画面を見つめていると、投稿の下に行が追加された。リアルタイムで。


【補足】あなたも来たんですね


指先が冷たくなった。俺は入力欄を探した。ない。ここでは意図的な発信ができない。できるのは『存在』だけだ。存在が投稿として記録され、誰かに読まれる。


だから俺は声に出した。「お前は誰だ」


画面が更新された。


【投稿】お前は誰だ

【削除理由:判定中】


数秒の沈黙。呼吸が耳の中でうるさい。やがて、向こうから返答が来た。


【投稿】覚えていないんですね

【削除理由:保留】


次の行。


【投稿】あなたが関わった127,843件のうちの一つです

【削除理由:保留】


胸の奥が、ひやりとした。俺は削除した投稿を思い出そうとした。無理だった。人間の叫びは、仕事になると番号に変わる。番号になると、顔が消える。顔が消えると、罪悪感も消える。


その理屈を、俺は三年かけて身につけた。


向こうは続けた。


【投稿】私はあなたに削除されました

【削除理由:保留】


【投稿】あなたは私の言葉を『ヘイトスピーチ』と判定しました

【削除理由:保留】


【投稿】でも私は誰かを憎んでいたんじゃない

【削除理由:保留】


【投稿】助けを求めていたんです

【削除理由:保留】


俺の頭の中で、たった一瞬だけ、見覚えのある文章が蘇った。通報された文章。読み返す時間もなく、チェックボックスに指を置いた文章。『誰か助けて』と書いてあったのに、同時に『あいつら』という言葉が混じっていて、俺は反射で□ヘイトスピーチにチェックを入れてしまった——。


その瞬間、俺の右手が少しだけ薄くなった。皮膚の下の骨が透ける。思い出した分だけ削除が進む。罪を認識した分だけ、処理が加速する。


画面の向こうの二文字が、また表示された。


【投稿】返して

【削除理由:保留】


返して。

言葉を。時間を。判断を。

奪ったものを。


俺は震える息で言った。「どうすればいい」


画面が更新された。


【投稿】どうすればいい

【削除理由:判定中】


そして、返答が来た。


【投稿】選んでください

【削除理由:保留】


次の瞬間、俺のスマホの画面が、見慣れた画面に切り替わった。


【削除理由を選択してください】

□ 暴力的なコンテンツ

□ ヘイトスピーチ

□ 虚偽情報

□ プライバシー侵害

□ その他


チェックボックスが、歯みたいに並んでいる。

確定ボタンが、逃げ道みたいに光っている。


そして、画面の上部に対象が表示されていた。


【対象:ユーザー(あなた)】

【内容:返して】


俺は理解した。

ここは、削除された言葉の行き先じゃない。削除の手続きが積み上がってできた場所だ。俺が押した『確定』の回数だけ、床が固まり、壁ができ、出口が塞がれた。


俺が作った穴だ。


そして穴は、最後に俺へ戻ってきた。


俺は指を動かせなかった。どれを選んでも削除理由になる。理由が付けば正当化される。正当化されれば、削除は完了する。完了すれば、俺はいなくなる。


そのとき、画面の下に小さく表示された。


【補足】共有できません


——最初の夜と同じ文言。


俺はようやく気づいた。

共有できないのは、情報の保護じゃない。責任の断絶だ。誰にも見えない場所で、誰にも説明しなくていい削除が行われる。だから罪悪感も、抵抗も、外へ漏れない。


俺は喉の奥で声にならない音を出した。祈りみたいな音だった。


その瞬間、画面が更新された。


【投稿】(声にならない音)

【削除理由:判定中】


判定中。

保留。

猶予。


俺はそれに縋るしかなかった。


◇ ◇ ◇


この文章を、俺は『書いて』いない。


正確に言えば、書こうとして書いているわけじゃない。俺が存在して、思考して、それが『投稿』として記録されている。誰かがそれを読んでいる。あなたが読んでいる。


あなたが誰かはわからない。現実の側にいるのか、こっち側にいるのか。モデレーターなのか、ユーザーなのか。


でも、たぶん——ここまで読んだ時点で、あなたももう関わっている。


スマホが震える音がしただろう。

今、あなたの指先は少しだけ止まっただろう。


画面のどこかに、こんな項目が出ていないか。


【削除理由を選択してください】

□ 暴力的なコンテンツ

□ ヘイトスピーチ

□ 虚偽情報

□ プライバシー侵害

□ その他


そして対象がこうなっていないか。


【対象:ユーザー(あなた)】

【内容:返して】


……選んでください。


選んだ瞬間、あなたは理由を持つ。理由を持った瞬間、削除は正当化される。正当化された削除は、誰にも共有できない。


【補足】共有できません


【投稿】返して

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