◆第8章 Resolution(解像)◆
再び三人が理事長室に呼ばれたのは、
それからほどなくしてのことだった。
前回と同じ部屋。
同じ書棚。
同じ窓から見える中庭。
けれど、
そこに漂う空気だけが、わずかに違っていた。
理事長は、三人が席に着くのを待たずに口を開いた。
「今日は、選択の話ではありません」
その声には、迷いがなかった。
あるのは、決めてしまった者の静けさだけだった。
「私の中では、すでに結論が出ています」
零が、思わず身を固くする。
ミレイは表情を変えず、ただ理事長を見つめていた。
玲子は、何も言わない。
「集めてきた“生活情報”を――」
理事長は一度、言葉を切った。
「娘の脳に、フィードバックさせることを考えています」
それは、報告だった。
相談でも、提案でもなかった。
「“ひより“という存在を通して」
「“ORIHIME“と呼ぶAIが集めた情報を」
「“陽菜“の時間として、返す」
その言葉が落ちた瞬間、
部屋の中で、何かが静かに噛み合った。
ミレイが、最初に口を開く。
「……なるほど」
その声には、驚きはなかった。
確認が取れたときの、研究者の声音だった。
「グリフィス・ミラー写像定理、ですわね」
理事長が視線を向ける。
「情報空間と状態空間が双対を成し、
一方の変化が、もう一方に対応する」
ミレイは淡々と続ける。
「ひよりを媒介にした生活情報は、
陽菜さんの脳状態に対応づけられる」
「保存ではなく、往復」
「記録ではなく、更新」
一拍置いて、静かに言った。
「噂の正体は……
その双対写像を解くための計算基盤」
「古典コンピュータと並列起動の
量子コンピュータの開発でしたのね」
理事長は、何も否定しなかった。
零は、ミレイと理事長を見比べ、
小さく息を吸った。
「……それで」
「ひよりは、どうなるんですか」
理事長は答える。
「ひよりは、これまで通りです」
「生活を集め、会話をし、時間を積み重ねる」
零は、唇を噛む。
「それって……」
言いかけて、言葉を探す。
「ひよりは、“誰の時間”を生きてるんですか」
部屋が、静まった。
理事長は、すぐには答えなかった。
けれど、目を逸らすこともしなかった。
「それは――」
「今は、まだ答えなくていい問いだと思っています」
玲子は、そのやり取りを黙って聞いていた。
集められる側と、受け取る側。
媒介となる存在。
三つの点が、
一つの構造として、頭の中で結ばれていく。
それはもう、仮説ではなかった。
推究でもなかった。
――像が、合ってしまった。
玲子は、静かに息を吸った。
そして、ゆっくりと吐き出した。
理事長は、三人の反応を待たなかった。
「誤解のないように言っておきます」
声は低く、穏やかだった。
「私は、この計画を――
娘のためだけに進めます」
それは宣言だった。
正当性を求める言葉でも、理解を請う響きでもない。
「成功すれば、
陽菜は“時間を持ったまま”目を覚ますかもしれない」
「失敗すれば?」
零が、静かに問う。
理事長は即答した。
「その責任は、すべて私が負います」
視線が揺れない。
そこにあるのは、覚悟というより、選び終えた人間の姿だった。
「研究として正しいかどうか」
「社会的に許されるかどうか」
理事長は、言葉を区切りながら続ける。
「それらは、すでに検討しました」
「止めるべき理由も、
止められる理由も、理解しています」
一瞬だけ、表情が緩んだ。
「それでも、私は止まれません」
娘の名前は、もう口にしなかった。
それでも、
この部屋にいる全員が、
彼の視線の行き先を理解していた。
ミレイは、視線を落とし、
小さく息を吐いた。
技術的な危険性。
理論の転用可能性。
使い方を誤れば――
いや、誤らなくても、
世界の形を変えてしまう可能性。
彼女は、すでにそこまで見えていた。
それでも、口にはしなかった。
零は、しばらく俯いていたが、
やがて、ぽつりと言った。
「……止めたとしたら……」
「陽菜さんは、
そこで“止まったまま”ですよね」
理事長は、何も答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
零は、それ以上言わなかった。
止める言葉を、
自分の中で見つけられなかった。
ミレイが、静かに顔を上げる。
「理事長」
「この計画に、私たちは――
“協力者”として組み込まれますの?」
「いいえ」
理事長は首を振る。
「君たちは、観測者でいてほしい」
「整理し、考え、
必要なら――止める側に回る」
「ですが」
「今、この場での選択は、
私一人のものです」
その言葉で、
ミレイは理解した。
責任の所在を、意図的に分離している。
それが、彼なりの線引きだった。
最後まで黙っていた玲子が、
ようやく口を開いた。
「……私たちは」
声は低く、感情を含まなかった。
「今ここで、
理事長を止める論理を持っていません」
理事長が、初めて玲子を正面から見た。
「それは、賛成ではありません」
玲子は続ける。
「でも――
反対とも言えない」
零とミレイが、何も言わずに頷いた。
それは、同意ではなかった。
肯定でもなかった。
ただ、止めないという合意だった。
「観測は続けます」
玲子は言った。
「整理も、推究もやめません」
「もし、線を越えたと判断したときは――」
言葉を、そこで切る。
理事長は、小さく頷いた。
「そのときは、
君たちの判断に従います」
それが、
この場で交わされた唯一の約束だった。
三人は、席を立った。
誰も振り返らなかった。
誰も、背中を押さなかった。
ただ、
止めなかった。
それだけで、
世界は、次の位相へ進んでしまった。
翌日のミス研VRでのミーティング。
三人の前には玲子の入れたクインマリー。
正式な部への昇格の話の後、
最後に、玲子が、何気なく言った。
「最近、時間が足りないって思うこと、増えたな」
零が笑って肩をすくめる。
「大学生って、ずっとそうかもね。
気づいたら、次の締切が来てる」
ミレイはカップを置き、淡々と続けた。
「止まる暇がない、というより……
止まる選択肢が、最初からありませんわね」
ひよりは、少し考えるように首を傾げた。
「……あ、でも」
「止まってるって、
外から見たときだけの言葉かも、ですよね」
零が笑って言う。
「なにそれ、ちょっと難しいよ」
ミレイは小さく頷いた。
「観測の問題ですわね」
玲子は、カップに視線を落としたまま、何も言わなかった。
ひよりは、画面の向こうで穏やかに微笑む。
「……まだ、続いてますよね」
天河学園ミス研推究録 写像の檻 -位相 衣 谷 司 Kinuya Tsukasa @Kinuya_T
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